般若心経の迷い道 その三
ない、ない、ないの般若経
沙門は世捨て人なので、余り物を頂戴し、自活しない他律的な生活を営む。もともとは岩山の洞窟や森の中の死体捨て場に住んで瞑想した。キプリングの描いたジャングルブックのように動物が友達だ。
基本は三衣一鉢といって、身を守る僧衣と食を乞う鉢だけで遊行するのが沙門、修行者だった。おこぼれ、拾いもので生きる。雨期の間だけ一所にとどまることが許された。
三衣は褐色カシャーヤに染められたので音訳して袈裟という。死体からはぎ取った布や、ゴミためから拾った布を継ぎ合わせ不鮮明な色に染め直した。
釈迦教団は近づきがたい苦行者ではなく、お行儀が良いので人気があり、寄進する有力者が増えた。すると教団に果樹園のようなすごしやすい所が寄進されて庵を結ぶ。それをアーラニャという。落ちた実を食べ、殺生につながる耕作や煮炊きは自分ではしない。
釈尊の時代から百年、二百年も経つと、吹けば飛ぶような草葺きの庵が堅牢な建物に変わる。金銀を受け取ることは禁止されていたが、通貨相当の布の寄進を受けていた。
新品のぴかぴかではなくて、わざと裁断して草木染めや泥染めで濁った色にし、パッチワークでベッドシーツより大きいくらいの一枚布にしてサリーのように巻き付けた。雑巾にくるまっていたわけだ。
前2世紀頃にギリシア人のミリンダ王と対話したナーガセーナ長老は、おそらくぼろ雑巾を着ていたわけではなく、それなりに綺麗な袈裟、サンガーティを纏っていたと思われる。ギリシア・ローマでも一枚布の外衣を着てドレープを綺麗に見せる。
マウリア朝アショーカ王(在位前268年頃?前232年頃)はカリンガ国を征服するときに大虐殺をしたことを悔いて仏教を保護した。この頃になると僧院も立派になったことだろう。仏教サンガの住居をサンガ・アーラーマ、すなわち僧伽藍と呼びそれが僧院に発展する。
アーラーマはお休み処で精舎と訳されるが、その遺構が確認されるのは前二世紀頃からなので、初期にはこんもりとした林の中にそれぞれが自分の住み処を作っただけなのだろう。木の実の取り合いにならないよう、お互い邪魔にならないように点在して住んだと思われる。
クシャーナ朝の1、2世紀には落ち着く場所、伽藍が整備され、修行と学問に励むことが出来るようになった。僧院が豊かになると、バラモンが出家して移り住む。学術、文芸にいそしむことが出来て、大乗経典が制作されるようになる。
戒定慧というが、僧院で身を律して禅定に入り、学問を学ぶ。無所有というのも執着心を捨てるためで、厳しいジャイナ教徒は素裸が悟りへの道とする。
これが自分のものなどと考えず、乞食しつつ遊行して自我を捨てる。自我という鎧を脱ぎ捨て、瞑想により全宇宙との一体感を感じる。空を観じて我と他者、世界を隔てる壁がなくなり至福を得る。そして、あれもない、これもない、ないもないと悟るのが般若経の教えだ。
それでは自我とは何か。犬は家族の中で、自分は主人の次に偉いとか序列を考えているかもしれない。しかし、家族が自分をどう捉えているかは考えない。一歳の赤子も家族の役割は認識するが、家族が自分をどう思っているかなどとは考えもよらない。
三、四歳になるとだんだん関係性が分かってきて、それが自我の目覚めである。他律的で食べさせてもらっている赤ん坊は悟りに近いのか。寝姿を見ていると平和そのもので、これがシャーンティ、涅槃寂静かと思う。
梶山雄一先生の般若心経
私はインド哲学史専攻だったので服部正明先生門下ということになる。梶山先生の授業は教養で受けただけで仏教学の購読は受けなかった。『ヨーガ・スートラ』を読むので精一杯、余裕はなかった。
私が大学にいたのは半世紀前。インド哲学史専攻の隣に仏教学と梵語梵文学の合わせて三講座。大変賑やかで同級生は他に真言坊主が印哲に二人、真宗坊主が仏教に二人。一学年上が大豊作で、もう記憶も定かでないが、印哲二人、梵文一人に仏教学が五人。
ところが京大文学部の会報によると、何年か前、印哲と梵文が一緒になってインド古典学、そして仏教学という体制になり、今年度は学部の学生がインド古典学に一人、修士、博士課程に二人ずつ、仏教はというと学部生ゼロ、博士課程は三人のうち一人がハンブルグ大学に留学中、修士には浙江大学からの留学生含めて二人。目を疑い読み直しました。よく、お家取りつぶしにならないものだと思いますが、それは先輩や後輩が世界的業績を上げているのが評価されての事でしょう。以下は敬称略とさせていただく。
手元には写経の本も含めて何十冊も般若心経の本があるが、梶山による心経本というのはない。おそらくあちこちから依頼されていたと思うが先生は急逝された。
平成12年夏に心臓手術をされた。16年、春の叙勲の候補となり、5月の伝達式と拝謁式には出席のつもりでいた。ところが、3月29日に突然亡くなられた。79歳で、もう少し頑張れたかと思うが、人の命は分からない。胃癌だった。
昭和28年4月から31年3月まで、ナーランダー・パーリ研究所に留学されていた。私の生まれた年に渡印したことになる。その後、ロンドン大学、ウィーン大学にも留学されている。『八千頌般若経』の翻訳があるので、般若経、空の専門家と思われているが、幅は広い。
おそらく、仏教学関係者は読んでいない『墨』第83号「般若心経 写経の鑑賞と実践」90年3/4月号から引用させていただく。私が拙い解説を書くより、遙かに有益と思うからである。前回の終わりの方で触れた述語について参照していただきたい。読みやすいように段落は変えてある。
十二処、十八界、十二因縁
心経は「無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法」といって十二処の範疇に実体はないと説き、「無眼界乃至無意識界」といって十八界を否定する。
十二処は眼・耳・鼻・舌・身(肉体)・意(心)という六種の認識器官とその対象である色(いろかたち)、声(音声)、香・味・触(触れられるもの)を挙げて、十二領域を数えたものである。
処とは領域・入口の意味である。十八界の界は種類の意味で、十二処に眼識(見る心)、耳識(聞く心)、鼻識(嗅ぐ心)、舌識(味わう心)、身識(触れる心)、意識(考える心)の六つを加えて十八界という。
十二処、十八界は広略の差はあるが、いずれもすべてのものを認識の世界として理解する範疇である。五蘊の場合と同じように、心経はそれらの範疇を実体とする小乗仏教の思想を批判して、十二処も十八界も無いというのである。
「無無明、亦無無明尽、乃至無老死、亦無老死尽」というのは十二縁起の小乗的解釈の批判である。小乗仏教では無明(根本的な無知)・行(過去世の行為)・識(現在世に生まれた意識)・名色(心と身体)・六処(六種の認識器官)・触(認識器官と対象との接触)・受(感受)・愛(愛着)・取(執着して自分のものとして取り込むこと)・有(現在世の行為)・生(未来世に生まれること)・老死(未来世における苦の総称)の十二の連鎖を数えて、その系列を三世にわたる輪廻転生の過程と解釈した。
しかしそのような縁起説を釈尊が説いたとは思えない。そこで心経は十二縁起の項目すべてに実体は無い、というのである。
釈尊の説いた縁起説の一例は、苦・集(苦の原因)、滅(苦の消滅)、道(苦の消滅にいたる道)という四諦(四つの真理)で示される。苦には人の基本的無知と愛欲という原因があり、その苦の消滅である絶対の安らぎ(滅)は八正道の実践によって得られる(道)というものである。
しかしその四つの真理も実体的に執着されたときには否定されねばならない。だから心経は「無苦集滅道」というのである。
実在論的な思考は、ひとが事物を認識し、執着することに始まる。その認識・執着を「得」といい、事物の実体を認識しないことを「無所得」という。
事物の実体を認識しないことによって、いいかえれば、空の知恵によって菩薩はすべての障礙・恐怖・顛倒夢想を離れる。般若波羅蜜多つまり空の知恵によって彼は無上にして完全なさとり(阿耨多羅三菩提)を得る。
般若心経の位置付け
般若経は大乗経典の始まりで、紀元前後に比較的短い「小本般若経」が成立し、増広された「大品般若経」など長い経典が、300年頃までに次々と成立した。翻訳された経典は何十もある。
その後、『金剛般若経』など比較的短い経典が300年から600年頃までに現れてくる。その中でも般若心経は最も短く、おそらく4世紀前半には成立していたと梶山は想定する。伝統的に般若心経は般若経の精髄(フリダヤ=心臓)を伝えると考えられるので心経という。
梶山の論考は書道雑誌の般若心経写経特集にあるので、サンスクリットのテキストについては述べていない。また、釈尊の教説を考察したアビダルマを批判して、釈尊の空の知恵によって悟りを得ようという般若経の位置を確認する。般若心経によるお説教や人生訓には興味ないので、出版社から頼まれても、あえて心経本をお書きにならなかったのかもしれない。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論
更新日:2026.01.20