的場裕子のインド留学記 その1

1972年にインドへ留学して咋年でちょうど50年になった。留学当時はインターネットもなく、今日の状況とはかなり違う時代だったが、半世紀前に習った南インドのカルナータカ音楽は今も全く変わっておらず、そのまま演奏して通用する。これから50年後も100年後もそのように受け継がれて行くだろう。音楽を学ぶために行ったインドだが、留学を通してインド人の人生観や価値観を学び、今日までインド人と暖かな交流を持ち続けて来られた事を幸せに思う。


タミルナード州立音楽大学(https://g.co/kgs/4gtnkT

インド音楽への道

インドに留学したのは、芸大楽理科4年生の時だった。3年生になった時小泉文夫先生のゼミに入り、民族音楽を専攻することに決めた。小泉先生は1957年に南インドのカルナータカ中央音楽院に留学され、翌年、ラクナウのバートカンデ・ヒンドゥスターニー音楽院で北インド音楽も学ばれた。大学の民族音楽の授業では、小泉先生はインド音楽に関してかなり詳しく講義をされた。ムリダンガムの実習科目もあり、私はインド音楽への興味が増して行った。その頃ラヴィ・シャンカールの日本公演もあり、ちょっとしたインド音楽ブームも起きていた。

3年生になって研究テーマを決める時、事前に研究テーマを書く用紙を渡され、小泉先生と面談するという運びになった。研究地域は自分で考えてアジアに絞り、最終的にモンゴルかインドになった。「モンゴルだと馬に乗るのも行くのも大変。インドなら暑そうだけどモンゴルより行き易い。」と考えて、インドに決めた。

面談当日小泉研究室に行くと何人かの学生が順番待ちをしていたので私はその後ろに並んだ。扉が開いているので、小泉先生との面談のやりとりが聞こえて来る。前に並んでいたひとりひとりに小泉先生からやたら注文が付けられていた。その時私は学生のテーマの選び方が悪いのかと思ったのだが、今思えば、小泉先生はご自身が興味のあるテーマに誘導して学生に研究させようとしていらしたのだった。私は研究テーマを書く用紙に「インド音楽」だけしか書いて来なかったので、もうちょっと何か考えて来るべきだったと心配になって来た。逃げ帰りたい気持ちでいっぱいになったが、遂に順番が回って来た。下を向いて恐る恐る用紙を差し出すと小泉先生は「あなたは良いテーマを選びましたね!」とにこやかに言われたので、高まっていた緊張がそこで一気に崩れ去った。「インド音楽はやる人がいるようでいないのです。北インドでも南インドでも良いですが、始めは南インドから勉強するように。北インドをやりたければ、その後で。」と言われた。

私は当時北か南かを決めていなかったが、北インドならサロード、南インドならヴィーナーを習いたいと思っていた。小泉先生に南と言われたから南にしたのだが、一端足を踏み入れたら、ずっとそこから出られなくなった。小泉先生の研究室にあったヴィーナーをお借りして家に持ち帰った。楽器の首に彫られた竜の頭、神様の絵が描かれた綺麗な共鳴体をつくづくと眺め、インドはどんなところなのだろうと未知の世界に思いを馳せた。楽理科の先輩に、小泉先生と同じカルナータカ中央音楽院に留学された上原陽子先生がいらっしゃると伺い、早速弟子入りした。レッスンに通ううちに、インドへ行ってインド人の先生に直接習いたいという気持ちが次第に強くなって行った。

上原先生にヴィーナーを習い始めて間もなく、上原先生の演奏にタンブーラを仰せつかる様になり、ステージに上がる機会も多くあった。現代筝曲の初代宮下秀冽先生作曲の「竹林精舎」が芸術祭大賞を受賞して、上原先生のヴィーナーと一緒に弾いたタンブーラも一応演奏者の頭数に入っていた。ホテルの祝賀パーティーにも招待されたのだが、タンブーラ弾いただけでこのようなご馳走食べて良いのかなと思った。また日帰りで名古屋に行くから来いと言われたので、新幹線で一緒について行くとそこは布施明ショーの会場だった。前座で演奏したのだが、どうしてそう言う事になったのかは分からない。


私の結婚式にシタールを弾いて下さった上原陽子先生

上原先生がインドに留学された時、辛島昇先生もインドにいらしたそうだ。上原先生のお話の中で、よく辛島先生のお名前を伺った。私の留学中には上村勝彦先生がマドラスにおられた。私が上村先生に初めてお会いしたのがインドだった。

3年生も終わろうとした頃「インドに行きたい。」と母に言うと、一人でインドに行くなんてとんでもないと一蹴された。それから毎日のように頼んだのだが、一向に埒が明かなかった。ある日「嫁入り道具は要らない。箪笥も要らない。茶箱でいいから行かせて欲しい。」と言った事で局面が動いた。それほど行きたいのなら現地にいる誰かつてを探そうと言うことになった。小泉先生からは、南インドレストランの老舗アジャンタのジャイ・ムルティーさんの叔母にあたるギータ・ムルティーさんを紹介された。ギータさんは日本人で、ラーマ・ムルティーさんと結婚してマドラスに住んでいた。当時マドラスに行く日本人は皆ムルティーさんを頼っていたようだ。インド出発が決まった時、小泉先生からムルティーさんに高級な本革バッグのお土産を託された。

4年の前期を終えたところで、インドへ出発した。後期の授業は小泉先生担当のテーマ研究1科目のみだった。「ちゃんと勉強して来れば単位をあげます。」と小泉先生はおっしゃった。卒業間際に帰国して成績表を教務課にもらいに行かなかったので、どんな成績がついたか知らないのだが、卒業出来たのだから単位を下さったのだと思う。


小泉先生直筆サイン入り卒業アルバムより

当時はまだ格安航空券もなく、片道30万円くらいだった。カルカッタ乗り換えで、翌日マドラスに到着する航空便で羽田から出発した。カルカッタに深夜に到着して機内からタラップを降りようとした瞬間、なま暖かい風が顔に当たった。「遂にインドに来た!」と思ったら急に足がガタガタ震えて下まで降りるのが大変だった。当時は1ルピー42円で、ドルの持ち込みにも制限がかかっていた。

 

的場裕子(ヴィーナー奏者)プロフィール

日本女子体育大学名誉教授

1949年秋田市に生まれる。

東京藝術大学楽理科卒、民族音楽学専攻、故小泉文夫教授に師事

1972年タミルナード州立音楽大学留学。ヴィーナーを故Rajalakshmi Narayanan氏、故Kalpakam Swaminathan氏および、故Nageswara Rao氏に師事。以後50年に渡り、研修を続ける。

2007年よりインドでも演奏活動を開始。チェンナイ、マイソール、カンヌールなど、南インド各地で演奏する。

研究論文

「南インド古典音楽で演奏されるラーガの現状について」 諸民族の音p.635–60 音楽之友社 1986

研究報告

「Musical Aspects of Baul Music」Musical Voices of Asia p.76–82 by Japan Foundation 1980.

「Flexibility in Karnatic Music」Senri Ethnological Studies 7 p.137–168 国立民族学博物館

執筆

岩波講座「日本の音楽・アジアの音楽」別巻Ⅱ≪インド古典音楽≫ p.155—166 岩波書店1989

民族音楽概論≪南アジア≫ p.149–166 東京書籍 1992

共翻訳

人間と音楽の歴史 第4巻 南アジア 音楽之友社 1985

更新日:2023.02.17