河野亮仙の天竺舞技宇儀60

60回 日印文化協会「インド文化」について

大阪に行った時、初めて梅田駅地下の古本屋街に足を運んだ。何件か回っているうちに藤沢書店で「インド文化」という100ページ足らず、A5版の小冊子3冊を発見した。これこそ我が日印文化交流ネットワークの前身ではないか。   

第1号から第3号までを1600円也で買った。昭和33年7月発行の創刊号によると発会式は1月26日、インド共和国宣言8周年の記念日に中央大学で行われ200名が参集した。駐日インド大使はもちろんの事、何故かエジプト大使まで見えた。前年にネールーネール首相が来日したのを機に、外務省、駐日インド大使館の支援を得て、文化面において両国の交流と総合理解を図ろうという趣旨であった。

発会式は日印国歌斉唱に続き、理事長中村元の挨拶、インド大使、外務大臣藤山愛一郎、全日本仏教会会長らが祝辞を述べ、インド音楽としてミス・マルディ、インド舞踊には入江瑞鳳とあるが、このお二方はどなたか分からない。日本舞踊家みたいな名前ですが。榊原帰逸が理事に名を連ねているので榊原舞踊団有志もカタカリ、マニプリー、バラタナーティヤム等を踊った。

副理事長は田中於菟彌とインド共同通信代表ナライン、庶務幹事に土井久彌、財務幹事に岩本裕と敬称略では申し訳ないお歴々が名を連ねた。編集委員は、荒松雄、岩本裕、坂本徳松、ザベリ、田中於菟彌、土井久彌の中村元、ナラインである。

創刊号の目次を見ると、中村元「日本に於けるインドの発見」、岩本裕「ヨーロッパとインド文化(序説)」、坂本徳松「インド独立以前および以後に於ける民主主義と社会主義の問題」、増山元三郎「カルカッタ花暦とカーリダーサの季節集」、高崎直道「大学の町プーナ」、さらに、辻直四郎と岩本裕による書評があり、その志の高さと視野の広さ、優れた論考に驚き、また、感動した。

特に、高崎の留学先である学園都市プーナの大学事情について詳述したレポートは昔の記事であるだけに価値がある。

第2号でも、岩本裕「ヨーロッパとインド文化(その1)」、中村元と土井久彌の翻訳、そして、カルカッタ大学留学中の奈良康明(日印文化交流ネットワーク初代世話人代表)による18ページにも呼ぶ、とても貴重な「カルカッタ通信」があり、これは皆様に読んでいただきたいと思った。

その時点でカルカッタ留学3年を経過していて、服部正明も留学中であった事が分かる。第2号発行は昭和35年3月なので、タイムラグがあって34年頃の執筆か。この留学記だけでもこちらのHPにアップしたい。

なお、創刊号はDICのホームページからPDFをダウンロード出来る。

http://www.discoverindiaclub.org/annoucement/2019/0505/

第3号には金倉圓照「インド文化と女性」、岩本裕「アジアに於けるインド文化」、細川沙多子「ヒマラヤ紀行」、また、昭和31年7月から34年3月までラクナウ大学に留学し、帰国した深澤宏による「ラクナウの回想」がある。大学の様子や、かつてのイスラーム文化の残り香についての記述が面白い。毎号発行が遅れて申し訳ないと書かれていて、第3号は37年9月発行なので苦労のほどが偲ばれる。

インド留学記を柱に編集し直したら良い本が出来ると思い、他の号もないかと奈良家に問い合わせた。

1-3号は岩本裕編集と思われるが、第4号からはインド近代思想を専門とする若手?の増原良彦が担当する。先年亡くなられた仏教評論家ひろさちやの事である。高崎直道の編集後記によると、39年4月発行と遅れた事を詫び、新体制で薄くてもいいから年2回発行、「インドの大学」「ヒンドゥーイズム」「インド美術のしおり」という特集を予定するとあるが、どれも実現しなかった。

私が一番期待していたのは、プーナ、カルカッタ、ラクナウに続くデリー大学、バナーラス・ヒンドゥー大学、マドラス大学等々の留学記であるが、それが実現しなかったのは残念至極である。おそらくは、「誰々君、次頼むよ」とあちこちに声をかけて、誰も書いてくれなかったのだろう。よく分かる。先の三先生のあまりに見事な留学記を見ると、誰でも尻込みしてしまう。

増原編集では、早速、専門のヴィヴェーカーナンダ特集。続く第5号は、ネール首相の追悼号。第6号の特集は、「外国人の見たインドⅠ」であるが、そのⅡは続かなかった。

高崎直道「外国人のみたインド」、松井透「C・グラントの思想」、高崎直道「独立運動と西洋人/アニー・ベサントの場合」、田村芳朗「日本人のインド観」、金岡秀友「光明真言の日本的解釈」、増原良彦「近代日本とアジア」。

雑多ではあるがどれも優れた論考である。この号で事務所が東京外国語大学のヒンディー語科に移り、方向転換が起こる。ヴィヴェーカーナンダ特集に続いてネールと来れば次はガンディーかタゴールかということになるが、そこはヒンディー語科の事、プレーム・チャンド特集で来た。彼等にとってはインド最高の作家という事なのだろう。

続く第8号も特集はインド近代文学なので、まるでインド現代文学の同人誌になってしまった。この号で特筆すべき事は、裏表紙にエア・インディアの広告が入っている事である。それまで何故かキリンビールの広告が時々入り、出版社の広告が散見したが、インド政府観光局とその階上にあったインドレストラン・アショカの広告もこの号には入っていた。

また、どこで開催されていたのか、月例会の記録もあり、映画を見たり、鶴見和子や森本達雄のインドからの帰朝報告、クリシュナムールティ「神智と現代科学について」の研究会、インド料理懇談会、新大使を迎える歓迎会などが行われていた。

第9号でいよいよガンディー特集。山折哲雄、森祖道、内藤雅雄が参加したほか、湯田豊「ヴィヴェーカーナンダとカルマ・ヨーガの思想」という論考もある。この頃は学園紛争が盛んで、その事を理由にはしたくないが発行が遅れて申し訳ないと、またまた高崎直道が謝っている。先生の責任じゃありませんよ。

全くのボランティアの集まりで、当然、原稿料も出ないので長く続けるのは難しい。原稿を書くだけでなく、走り回る人が必要だ。財政基盤の確立を目指したものの、一回だけのお付き合いのようで、第9・10号に広告は入っていない。


                       

その高崎の関西転勤に伴って奈良康明が編集に入り、軌道修正が行われたように見えるが、昭和48年3月発行の第10号をもってはかなく終焉した。その後継として半世紀近くを経て日印文化交流ネットワークが立ち上がった。インド好きの偉大なる先人達にはとうてい及ばないものの、その志を受け継ぎたい。資金不足まで受け継いでしまったが。

経済的な面で日本企業はインドに進出し、結びつきはこの半世紀ではるかに深くなった。人口ボーナスで近いうちに日本のGDPを追い抜くといわれている。政治的にも中国、ロシア、西側諸国の綱引きの間でインドはつま先立ちをしている。モディ首相は政治経済的に結びついたロシアとのしがらみを切る気はない。安いエネルギーと食料を調達できる立場にしめしめと満足している。グローバルサウスの代表という考え方はしない。

また、日本は果たして西側諸国なのだろうか。インドへの思い入れというのは「インド文化」の諸論考に見るように深い。西洋人の見るインドと日本側から見たインドの様相も異なる。

インド料理屋とインドの娯楽映画は、今日、広く受け入れられ、西葛西を中心にインドから優秀なIT技術者が大勢やって来ている。そこの住民達がインド文化を保持するために、野火杏子にインド舞踊を教わり、竹原幸一に南インドの両面太鼓ムリダンガムを習っている。

この3月にインドからムリダンガムの超人ヴィナーヤクラムが来日し、インド人子弟を中心とした竹原の生徒20余名と共に江戸川総合区民センターでリサイタルが行われた。中にはとても上手い日本人の子もいた。小ホールが約500名超満員で熱気がムンムンして、最後はスタンディングオベーションで迎えられた。良いリサイタルはいくらでもあるが、このような感動的な光景は見た事がなかったので、日印新時代が来たと思った。

                       

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職

専門 インド文化史、身体論

更新日:2023.06.05