河野亮仙の天竺舞技宇儀59

第59回 悉曇声明を世界文化遺産に

声明と書くとたいていの人は、せいめいと読んで政治的なメッセージかと思うだろうが、仏教ではしょうみょうと読む。仏教の儀式の中で唱えられる節の付いたお経のことである。

これが音楽として認識されるようになったのは、昭和41年に国立劇場で「聲明」の公演を始めた頃、60年前の頃からだ。サンスクリット語のシャブダ・ヴィディヤー、言葉の学問に由来する。

声明、悉曇学(しったんがく)はサンスクリット学であり、バラモン教学の中で第一に学ぶべきものである。続いて内明(仏教学)、因明(論理学)、医方明(医学・薬学)、巧芸明(科学技術)を僧侶が学ぶ。

日本でいうイロハ、学び始めであった。まずは音から入って、インド版の五十音図の様なものを暗記する。ア、アー、イ、イー、ウ、ウー、日本語の五十音図はサンスクリット文法由来である。

声明は教会における男性による単旋律の合唱であるグレゴリオ聖歌と共に、30年位前に静かなブームを迎え、CDも多く発売された。天台声明とグレゴリオ聖歌の合同コンサートも行われた。これもCD化されている。聖歌は天を目指し、声明は地を這う。

西洋音楽の場合は綺麗な声、純粋な音、正弦波を目指すが、声明は地声で良い。いや、地声が面白い。楽譜に合わせて忠実に再現する必要はないので、西洋の音楽概念から外れる。その時々でピッチが違い、人によって歌い回しが違う。何人か集まれば、それぞれの呼吸で唱えるので、ズレが生じてピッタリと合うことはない。

一条の光が空からピカッと差すのがグレゴリオ聖歌なら、声明は海である。大波小波、さざ波が渦巻いている。

また、クラシック音楽と比べれば、声明はジャズである。解釈というほど大げさなものではないが、みんな自分の歌を歌っていて同じ曲でも人によって同じにはならない。平安時代には天台も真言も奈良各宗派も一緒に唱えていたのに、伝わっているうちに天台と真言では四智讃の節が全く違うようになった。

声明の面白さは、人それぞれの個性ある声の面白さと、それが束になった時、トーン・クラスターによって生じる倍音の豊かな響きであろう。いわゆる「合唱」とはかなり異なる。メロディーはあるような、ないような感じで、ひたすらアーとかウーとか母音ばかり聞こえる。

また、僧侶は音楽の技術という点では素人だが、長時間の読経に慣れている。声明を唱える時も短時間で半瞑想状態に入れる。その呼吸が聴衆にも伝わって気持ちが良いのだと思う。声明も読経も呼吸法の訓練であり、瞑想の入り口となる。一音成仏といって、一音を唱えて悟りに至るとされる。波動の中に悟りの境地を歌い込む、あるいは呼び込むのだろう。

今は大学で声明を習ったり、講習会が行われるようになった。テープレコーダーのない時代には、声明師といわれる特別なエリート僧だけが学ぶ事が出来た。悉曇も漢文の経を読むだけの一般の僧侶には無縁だった。

私が子供の頃の老僧は、みんな勝手な自分の音程で、好きな節で唱えて合わせて?いた。声明公演というものが行われるようになって、ピッチを合わせようという習慣ができた。それまで、声明は合わないのが当たり前だった。

少人数で音程が合わないと変に感じるが、これが30人位集まって混沌状態を作ると、かなり面白い。真言宗高野山派の先輩の葬儀で体験した。高野山派はピッチを合わせないで唱えるのだが、それがとても面白い効果を発揮して、本堂にはピーという倍音が響いていた。チベット声明みたいだ。

ラフカディオ・ハーンがニューオリンズで140年前の元祖ジャズをレポートした。

当時の黒人が正式な音楽教育を受けているはずもなく、南北戦争を終えた南軍払い下げのボロ楽器を使っている。当然、譜面は読めないので使わない。天国に行けてうれしいねと葬送の列で賑やかに演奏した。

調整していない楽器は音程も不正確で、ブレスを一致させることもなく、誰かが吹き始めたら追いかける。俗に集団即興というが、それぞれが自分の感覚でやっている集団デタラメと言った方が真相に近いのではないか。

今日の吹奏楽からは、かけ離れたものだったろう。葬列の隊に入ると小遣いが貰えるぞ、ブッブッとドとソだけ吹いてりゃいいんだと臨時で参加した者もいたことだろう。それが面白い。リズムがあれば浮き立つ。ジャズの始まりはそんなものだったのではないか。

悉曇声明を世界文化遺産に
坊主の世界では悉曇声明愚僧の技という言葉がある。これは、頭の良い学僧は学問を学ぶところ、そうでないから悉曇や声明を一所懸命やるんだと謙遜していう。しかし、これはとんでもない間違いで、悉曇声明こそ大切である。

かつては入門していない者、僧侶でない者には入り込めない領域だった。礼金を払って悉曇の伝授を受け、さらに悉曇潅頂を受けた。そこまでたどり着くのはごく一部の恵まれた僧であった。潅頂を終えると悉曇阿闍梨、師アーチャーリヤとして悉曇を伝授する資格を得る。高僧への道だ。

寛政9(1797)年正月に、京都紫野の上品蓮台寺で悉曇潅頂が催された。正月17日から30日までかかった。受者は前行として、6000余字からなる悉曇十八章を7度書かないといけないので、少なくとも数ヶ月は準備期間が必要だ。天保大飢饉の数年前の事である。

智山派、おそらくは智積院の僧侶を中心に20名が参集した。その記録が『悉曇潅頂見聞記』として藤井文政堂からオンデマンドで刊行された。それによると礼金は一人金百疋銀五分である。どう換算したらいいのか分からないが、今の金銭感覚で2、3万円程度なのか、無理のない範囲だ。おそらくは、学問奨励のため基本的には智積院が経費を負担したと思われる。その背景には、ここで頑張らないと悉曇の伝統が途絶えるという危機感があったのではないだろうか。
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江戸時代初期に悉曇学を普及させた澄禅(1613—1680)は智積院に依拠し、『悉曇愚鈔』という入門書を著した。インドで子供の事をバーラといい、それには無知蒙昧という意味もある。単に子供のための手習い帳という意味なのにバーラを愚と訳してしまった誤解に由来する。イロハのイの字から始めなければ終わらないのである。

習い始めの字は判別しがたかったり、綺麗には書けないだろうが、小学校高学年ともなれば展覧会に出せるような芸術的な書を書く子も出てくる。悉曇も声明も名人は国宝級で、世界に誇る文化遺産である。どんどん盛んにしていって世界文化遺産を目指してほしいものだ。

悉曇学・密教学は霊雲寺に依拠した浄厳(1639—1702)が受け継いだ。契沖と共に高野山で学び、その音韻学は国語学の基礎となった。霊雲寺からほど近い寛永寺に依拠した邦教(1701?-1761)は、その学問を受け継いだと思われ、般若心経の校定を行った。

書体としては両者共に澄禅流に近く、これが江戸時代、版本の梵字の標準書体、いわば江戸梵字である。また、邦教は、1884年に般若心経の校定版を出版したマックス・ミュラーより百年以上早く、1774年、般若心経の校定を行って出版した。

さらに、西洋の学者を驚かせたのは慈雲飲光(1718—1805)である。仏学は梵学にありといって日本にあるサンスクリット原典を渉猟し、『梵学津梁』千巻をまとめた。

日本に残された古い写本を研究して独特の書体を造形し、それは慈雲流と呼ばれる。良寛や白隠に並ぶ書の名手とも称される。その弟子筋に海如、智満がいて、豊山派では海如流、智山派では智満流を習った。天台宗では百如慈芳が梵字の普及活動を行った。

密教と芸能
以前にも書いたように、紀元前に仏教で芸能が重く見られる事はなかったが、およそ5、6紀頃からヒューマン・ボディが復権する。踊る像が形成される。断食や身体を痛めつける苦行、心身を滅する道より活性化させる道を選んだ。
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『金剛頂略出念誦経』には諸天を妙なる音声で歌詠し、金剛の舞いをもって娯楽とした事が記される。密教寺院は仏教学のみならず、文学、音楽、舞踊、絵画、建築等の研究センターであったと思われる。学芸一般に通じるラサの理論もここで発展した。

それはおそらく、食を乞い借宿に泊まり、食うや食わず、かすかすの生活をしていた時代から、果樹園というと大げさだが、マンゴーなどのなる森が与えられて庵を結ぶようになる。出家者(家長の義務を放棄した人)は、エッセンシャル・ワーカーではなく生産活動に従事しないから、落ちた果物や、各家庭の余り物を乞うて食べていかなければならないという掟だった。

時代が経つと、貿易商や王族からの布施で生活の場、寺院が建設されるようになり、生活の保証がされ、余裕が生まれた事によって学芸に専念する事が出来るようになった。

それは馬鳴が活躍するようになるクシャーナ朝の1、2世紀頃からか。グプタ朝の栄えた4、5世紀には今日のインド文化の基礎が築かれる。カーリダーサ等の文芸、天文学などの学術、『ヨーガ・スートラ』や仏教の唯識学派が形成されて発達するのもその頃だ。

やがて、ローマ帝国との交易が衰退してゆき5世紀後半に西ローマ帝国は滅亡する。6世紀、エフタルの侵入によって交易が閉ざされてグプタ朝も滅び、貴族、豪族も中央の文化を持って地方に下る。

スポンサーを失ったバラモンは東の果てや南インドなど地方に移住し、女神崇拝などのインドの根っこの伝統とアーリヤ系のバラモン文化が結合する。7世紀にヒンドゥー教も仏教もタントラ化する。純密といわれる『大日経』、続いて『金剛頂経』が成立する。

善無畏の『大日経疏』には真言阿闍梨の修行するべき徳目が記され、「一々の歌詠はこれ真言、一々の舞いは、皆、密印」という。つまり、歌唄は真言と同じ、舞踊というのは手印(ムドラー)と同じであるという。日本において和歌を詠むのは真言と同じというのと同じ発想だ。


参考文献
立川武蔵『生と死の仏教哲学』角川選書、2023年。

                       

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職

専門 インド文化史、身体論

更新日:2023.05.16