河野亮仙の天竺舞技宇儀58

第58回 謎だらけの霊仙三蔵

日本人ただ一人の三蔵法師となった霊仙については分からない事だらけだ。霊船とも書くようだ。まず、名前の読み方が分からない。おそらく、霊仙山(りょうぜんやま)、滋賀県の北東部、現在の醒ヶ井辺りで生まれたから霊仙なのだろう。霊仙とはお釈迦様が法華経を説かれた霊鷲山にちなむ。りょうぜんと呼ばれているが、りょうせんかも知れないし、れいせんかもしれない。生まれも死亡年もはっきりしないが、759–827年前後と見られる。

最澄、空海と同じく延暦の遣唐使船の中に留学生として乗り込んだと思われるのだが、記録は残されていない。乗船名簿が残っていればいいのだが、無理な話だ。法相宗、興福寺の僧とされるが、その当時の足跡は記録されていない。

おそらく、正式な僧名は別にあり、故郷にちなんだ霊仙は通称だったのだろう。大安寺にいたかと思われる空海についても当時の記録はないのだが、本名眞魚の他に僧名があり、遣唐使船に乗る前に正式に得度して空海を名乗ったのではないか。

四つ船と呼ばれる遣唐使船の内、空海の乗った第一船と最澄の乗った第二船のどちらかに乗らないと中国には達しないはずだが、二人とも霊仙への言及はない。第三船は琉球に漂着し、第四船に相当するのか、高階遠成が805年に遣唐判官として入唐し、空海、橘逸勢等を連れて帰っているので、その船に乗って来た可能性もある。

空海と霊仙は共に醴泉寺にいたインド人僧侶の般若三蔵に梵語を習っている。空海の居住した西明寺からほど近い。二人に面識がないとしたら、霊仙は先に法相唯識を学び、その中で梵語の必要性を感じて、空海の帰国後に師事したのかもしれない。醴泉寺には同じくインド人僧侶の牟尼室利三蔵もいた。

霊仙は45歳前後で遣唐使船に乗り込んでいるので、相当なキャリアのある高僧であったはずだ。しかし、短期研修の請益僧ではなく、空海と同じく20年が原則の留学僧として渡った。円仁もまた40歳を過ぎて渡航しているが、請益僧として出発しながら、逆に帰国せずに踏みとどまった。

梵語学習

霊仙は804年頃に入唐し、810年頃に「大乗本生心地観経」の翻訳に携わり筆受を務めている。般若三蔵が口述した経文を書き留めて、それを一緒に翻訳した。その功で皇帝の内供奉、第十一代憲宗の祈祷僧に選ばれている。中国語と梵語の双方に通じていないといけない。日本人でありながら、わずか数年の学習でそこまで達するのは空海以上の語学の天才だ。元々中国系なのだろうか。

義浄の稿でも書いたが、インドでの梵語学習の階梯は定められている。①6歳になるとまずは、「悉曇章」と呼ばれている梵字の読み書きと発音、字の組み立てを覚えるための一覧表を勉強する。これは半年かかるとされる。言うまでもなく当時のインドで文字の読み書きの出来る人はごく少数、程度の差はあれ数パーセント位だろう。

https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%8055/

また、インドでは10世紀過ぎまで紙が手に入らない。仮に椰子の葉に書き写したら、ばさばさして収拾が付かないので覚えちゃった方が早いという事だ。現在のシステムでは「悉曇十八章」で6000字余りを習う。

②暗号みたいなパーニニ文法の綱要『八章論』に書かれた3996個のスートラを丸暗記する。これは8歳の童子が8ヶ月かかるとする。③「三荒章」10歳の童子が3年かけて学ぶ。元になる2200個の動詞の語根や名詞の活用を習得する。  

そして、④パーニニ文法のカーシカーによる注釈書「カーシカー・ヴリッティ」を15歳から5年かけて学び、さらに、⑤パタンジャリによる「大注釈書」を3年かけて学ぶ。

これではどう考えても立派な梵語学者パンディットになるには、10年以上かかる事になってしまう。20歳頃でやっと一人前だ。

少なくとも①から③までを数年でやっつけないといけないのだ。子供の学習者ブラフマチャーリンなら師に仕えてその合間に学習するが、留学僧は中国語で仏教の勉強をしながらである。

霊仙は般若に従って梵語を学んだに違いない。①から⑤はアーリア語族の言葉を母国語とするインド人のためのシステムなので、相当の苦労があったと思われる。外国人指導用のメソッドがあったわけではないのだ。子供の頃の記憶力と40歳過ぎてからの暗記力も相当違はずだ。

空海の場合、この辺は適当に自分の必要なところだけ学んで、密教自体を恵果阿闍梨の元で本格的に学ぶ。般若三蔵も密教を伝えていて、『守護国界陀羅尼経』を訳出している。密教によって鎮護国家をするという教えだけでも十分な成果だと思われるが、唐の密教の最高峰がどこにあるかをリサーチして恵果の元に駆け込んだ。

密教を学ぶには

最澄も順暁阿闍梨から密教を授かったが、本命は天台学を学んで日本に伝える事であり、梵語に関心を持たなかった。空海は『大悉曇章』や梵語経典、陀羅尼を多く持ち帰って、密教の習得には梵語学習が重要である事を強調している。その空海より、さらに多くの梵語経典、陀羅尼を持ち帰ったのが円仁である。円仁は最澄が残した宿題を片付けに行った。

『悉曇章』の他に最澄は梵語文献を11部、空海は37部、それに対して円仁は127部も請来している。唐ではマニアックに音韻学を追究し、梵語の発音を漢字で記している。円仁が入唐した時、初めは筆談していたが、後には唐語を話したから耳が良かったのであろう。当時の中国語の発音は新漢音と呼ばれる。桓武天皇は呉音から漢音を学ぶように決めたが、それより新しい発音という事になる。

開成4(839)年に円仁は揚州開元寺崇山院にて、全雅より金剛界・胎蔵界儀軌等数十巻を借りて書写している。その中で真言は梵字で書かれていたものと思われる。日本には全雅から授かったとされる「悉曇章」の全雅本、大安国寺で元簡から学んだ時の安国寺本が東寺の観智院金剛蔵に納められている。これらは唐僧の書いたものではなくて日本での写しだろう。それと前後して終南山の宗叡からも悉曇学、梵語の読み書きと発音を習った。  

                   

真言・印契は、本来、秘密なので、ちっとやそっとでは教えて貰えない。インドの演劇などではそっと耳打ちして密かに伝える。中国人は梵語を覚えられないので書き留めたが、梵語で書けば秘密は保たれると考えたのだろう。後には漢訳、つまり、漢字に写されて、日本では仮名書きされている。印も刀印とか与願印とか名称だけ書き留めたものだが、今では図入りで示されている。

開成5年8月長安に入り、大興善寺で金剛界法を修学する。学び始めて伝法潅頂を受けるまで3ヶ月半を要している。翌会昌元年には長安青龍寺で義真より胎蔵毘盧遮那経大法と蘇悉地大法を受法する。会昌2年、長安を玄法寺法全より胎蔵界大法を受け、大安国寺元簡より悉曇章を学ぶ。

さらに、青龍寺では天竺三蔵宝月より重ねて悉曇を学び、親しく正音を口授される。インド直伝の発音を学んだ事になる。真言は発音が正確でないと効力がない。その内容が円仁の『在唐記』に記されている。この円仁の学んだ悉曇学が安慧に、そして安然に伝えられて大著『悉曇蔵』が著され、日本の悉曇学が初めて大成された。安然の元には天台僧のみならず、真言僧も通ってきて一緒に学んだ。悉曇学によって日本語の音韻が研究されて、国学や後の国語学の発展に寄与した。   

円仁と霊仙の邂逅 

霊仙は820年、文殊菩薩の聖地である五台山に至り、諸院に移り住んでそれぞれの師に学び、浴室院に止住した。不空阿闍梨ゆかりの金閣寺で密教も学んだようだ。霊仙は手の甲に大日如来を描き、その皮を剥がして金銅塔を作って安置したという。密教の入門許可を得るためだったのだろうか。円仁はその手皮仏を目撃している。

嵯峨天皇の耳にも霊仙の活躍は届いていた。渤海僧で霊仙の孫弟子に当たる貞素に百金を託して霊仙に届けた。その返礼として日本に仏舎利一万粒を送り返した。そしてまた、淳和天皇も百金を届けようとしたのだが、828年には、すでに霊仙は亡くなっていた。毒殺されたといわれる。憲宗暗殺に伴う何らかの謀略に巻き込まれたのか、嫉妬、妬みによるものなのか、大金が届けられた事によるのか、はたまた、大元帥法(たいげんほう)という敵を滅ぼす秘法が外国人に伝わった事が危険と見なされたのか、何とも分からない。

840年4月、円仁は五台山の中台を望む普通院(無料宿泊できる簡素な寺院)に至った。その食堂にある文殊像を礼拝する。西亭の壁上には「日本国内供奉翻経霊仙 元和15(820)年9月15日この蘭若に至る」との書き付けが残されていた。蘭若とはアーラニャ、森の住まい、転じて寺院の意味にもなる。大先輩もここまでやって来たのだと感激した事だろう。

円仁は竹林寺で音楽的な節のある念仏の唱え方を学んだ。大華厳寺では志遠禅師にまみえ、「最澄三蔵」が天台山に至って法を求め、地方長官である陸公の尽力によって経論を写して貰った話を伝え聞く。中国僧が敬意を持って最澄三蔵と讃えているのを聞いて誇らしく思った事であろう。

7月に五台山を降りる帰路、谷の中にある、もはや朽ちた七仏教戒院に至り、壁上に貞素が師霊仙を偲んで序と詩を板の上に書いたものを見る。円仁はそれを書き写し『入唐求法巡礼行記』に記す。円仁が霊仙の終焉の地である霊境寺で埋葬地を尋ねても僧は首を振るばかりであった。何か問題、隠しておきたい事件でもあったのだろうか。円仁も冥福を祈って涙した事であろう。

私も昭和時代に五台山に行きたいと思って、木内堯央先生や村中祐生先生に声をかけたのだが、中国ルートを持っていない私は、手配する事が出来ず立ち消えになってしまった。

お二人とも、とうに亡くなられていて、思い返すに残念な事であった。

また、2004年には米原駅から車で20分の醒井養鱒場側の松尾寺に霊仙三蔵記念堂が建てられて、霊仙像が祀られている事を付記する。松尾寺の本尊は飛行観音と呼ばれ、航空機関連で空の安全を祈る祈祷をして、『心地観経』の一部を写経できるそうだ。

参考文献

足立喜六訳注塩入良道補注『入唐求法巡礼行記』1、2平凡社、1970年、1985年。

玉城妙子『円仁求法の旅』講談社、2000年。

沼本克明『濁点の源流を探る』汲古書院、2013年。

頼富本宏『日中を結んだ仏教僧』農文協、2009年。


河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職

専門 インド文化史、身体論

更新日:2023.04.07