河野亮仙の天竺舞技宇儀52
玄奘三蔵西域記/最強の心真言は?
法顕、玄奘、そして鑑真は命を賭して海外、いや玄奘は陸路だが、求法の旅に出た。確率的に十中八九は生きて帰れないという理性ではなくて、仏の教えを伝えるという情熱が突き動かした。誰に言われたわけでもなく、それが自分の使命と感じていた。人生を、自分の未来を俯瞰的に観じて、生還する姿を強く念じていたに違いない。
中国で偉人は2メートルを超える大男として表される。さらに、玄奘は眉目秀麗であったと伝えられる。今いる人間の中でルックス的に近いと思うのは室伏広治である。この顔ならシルクロードでも通用するだろう。アントニオ猪木の公称と同じく身長187センチ。彼が指導したという155センチの高木菜那と並ぶと全く巨人である。
また、架空の人物の中ではゴルゴ13が近いと思う。山伏の修行をしたエピソードもある。身長は想定182センチ。国際情勢を読む力、語学力、人の心理、行動を分析する力、飢えや暑さ寒さに対する耐性、粘り強い集中力、危機脱出能力等々。
ただし、玄奘は人を傷つける技は持たない。西遊記で戦うのは孫悟空等の役割だから、玄奘は力がないように描かれるが、実際は、この人にはかなわないと思わせるオーラを放っていた事だろう。『大唐西域記』の序には、錫杖を持って出たとあるが、残された図像では錫杖ではなく払子を持ってる事が多い。これでは虫を払うばかりで戦えない。
錫杖の原形はシヴァ神の三叉の戟ではないかと思う。福井県明通寺の深沙大将立像は右手に三叉の戟、左手に蛇を持つ。人をあやめる事のないよう左右の刃を閉じで円環にしたのではないか。専守防衛だ。深沙大将、深沙神は髑髏の首飾りをまとう事もあり、シヴァ神からの影響が推察される。
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『大唐西域記』はインド的宇宙観の記述、須弥山説の解説に始まる。唐の勢力範囲を出て、阿耆尼国(今のカラシャール)からの記述なので高昌国に行くまでの道筋は『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』に詳しい。こちらも、当然、綺麗事として語られる。
若き玄奘の悩み
玄奘は名門の生まれで幼少より神童と讃えられていた。5歳で母を亡くし、父が10歳の時に亡くなり、先に出家した兄の浄土寺(洛陽)に行く。例によって諸説あるが602年生。各地の名刹に学僧を訪ねて研鑽を積む。
世親の『十地経論』に基づく地論学派や無着撰述で真諦(パラマールタ)訳『摂大乗論』に基づく摂論学派、成実論の各師に学んだが、解釈の違いに納得がいかず、それまでに訳されていた経典に疑問を感じていた。
やがて、争乱の洛陽を離れ、兄と共に長安へ、そして成都の空恵寺に移り、21歳となった玄奘は具足戒を受けて正式な僧侶となる。
インドに行って原典の『ヨーガーチャーラブーミ』(後に玄奘が『瑜伽師地論』として貞観22年に訳出)を求め、良き師に訊ねてみたいという気持ちを抱く。梵語のみならず諸蕃、すなわち西方からやって来た人に胡語、トカラ語やソグド語などを習ったようだ。『法顕伝』や『西域図記』も研究して天竺行に備える。
唐の武徳9(626)年にプラバーカラミトラ(光智)というインド僧が長安にやって来て、貞観3(629)年、興善寺に訳場を開き、仏典を翻訳した。
玄奘は興善寺で光智にインド仏教の状況を尋ねた。ナーランダ寺のシーラバドラ(戒賢)の評判を聞いて目的地が決まった。また、インドへの道についても詳しく聞いて、プラバーカラミトラの来た道と逆のルートを行けば良い事が分かる。
正味17年の旅
玄奘自身が歴覧周遊17年というものの、意外にも出発年が分からない。というのは貞観元年と書かれた資料と3年と書かれた資料があるからである。長安帰着は貞観19年正月。最新の研究書『玄奘三蔵/新たなる玄奘像をもとめて』に、桑山正進は足跡を検討して貞観元年末出発、あるいは、翌年の初めとする。手頃に入手できる本としては、岩波新書に前田耕作『玄奘三蔵、シルクロードを行く』がある。岩波文庫『西遊記』を訳した中野美代子『三蔵法師』も話題が豊富で面白い。
太宗が即位して貞観となってもまだ軍事的に安定していない時期だ。国内は霜害による飢饉・水害・蝗害があり、北方では東突厥や吐谷渾の脅威もあって治安が乱れていた。東突厥を内乱に乗じて滅ぼしたのは貞観4年の事。
西域に出る旅の許可を求めたが、朝廷が認める事はなかった。しかし、中国のことわざに、上に政策あれば下に対策ありという。鑑真の場合も国禁を犯してといわれるが、今も昔も、あまり、お触れは守られていないのではないかという気がする。なんといっても国境は広すぎるし賄賂の国である。
玄奘三蔵スーパースター
長安を出て秦州、蘭州、涼州と進む。蘭州から西北へ涼州、甘州、粛州、瓜州、沙州、玉門関に涼州まで至る街道の北側には遊牧民の南下を防ぐための長城が築かれていて、河西回廊と呼ばれている。涼州は東西交易の要衝であり、仏教も栄えていたので、あちらこちらで講演をする。それはある意味、旅の資金調達でもある。金銀の貨幣、馬などの布施が山のように積まれたという。その評判は旅の商人によって西域にも伝えられる。
『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』によると、
「西域のオアシス国家は、あらかじめ[法師に]歓心を発し、用意して待たぬ国はなかった。さて講義の散会の日には、お布施がおびただしく集まり、金銀の貨幣や奴婢、馬が無数にあった。そこで法師はその半分を受けて仏に灯明をあげて供養し、残りはすべて涼州の諸寺に寄進した」
娯楽の少ない昔、『枕草子』に「講師は顔良き」とあるように、美男で話の上手い僧侶が最大のスターである。お寺がタレントを呼んで公演をするようなものだ。玄奘の評判を聞いて実際に訪ね、リレーのように次から次へと諸寺を巡り歩いた事だろう。
天竺に行くという僧の噂は涼州の都督である李大亮に伝わる。真偽を確かめ、「都に戻るように」と告げたが、暗にこれは仕方がないなと見逃したと思われる。止めさせようとしても無理だという強いオーラを発していたのであろう。
事情を察した法師恵威は弟子を2人着け、人目を避けて夜歩き、瓜州に赴く。夜歩くといっても道なき道、街灯があるわけでなし、新月や曇りの日だったら真っ暗で進めないのだ。瓜州に至り刺史(長官)の独孤達に会う。幸い熱心な仏教信者であったので、喜んで法事に招いた。そして西方の様子を伺う。
北行して急流の河を登ると上流に唐の勢力が及ぶ西域の関門、玉門関がある。玉門関以西に出るべからずという決まりになっている。関外に侯望の五烽、百里ずつ離れた烽火台(のろし台)があって監視兵がいる。その外が莫賀延磧で、これを出れば伊吾(ハミ)国である。独孤達の所にも、涼州から尋ね人として玄奘の出国を禁じ、送り返せという通達が来ていた。烽台では外敵ばかりではなく、密出国者もチェックしていた。
瓜州に留まる間、行き交うソグド商人、胡僧等に往来の事情を伺い、良馬を求め胡人石槃陀を雇って脱出。玉門関を避けて五烽台の間の間道を抜けようとするが、矢で制止されて烽内に入る。しかし、ここでも武官の温情でさらに北西の第四烽への道を進むべき事を教えられる。
石槃陀は烽台5つまでの案内を引き受けたのだが、伊吾に行く道に詳しいという老人を連れてきた。しかし、老人は尻込みしてこの馬が道を知っているからと玄奘の馬と赤い老いさらばえた馬と交換した。だんだん怪しいムードになる。
馬を乗り換えて6時間ほど行くと玉門関が見えた。唐以前に玉門関と称した所は敦煌の西北70キロ。玄奘の頃は敦煌の東の安西からさらに東へ50キロにあった。疏勒河が側を流れている。
疏勒河のほとりで野宿していると石槃陀が刀を抜いて襲いかかろうとしてるのに気がついた。心の中で観音菩薩を念じると刀を納めた。翌朝、石槃陀は「この先は危険だから引き返せ」という。まず、無事には沙河を越えられない、自分だけは助かろうと考えたのか。やむなく石槃陀を返し、老馬と単独行という事になる。
しかし、もし玄奘三蔵の所に私が居合わせたら、「少しでもお役に立つようご一緒します」と申し出るし、王が「おまえ行け」と命令すれば、大将だって付いて行くはずだ。道案内の石槃陀の他に、盗賊等の危険がないか先行する者、身の回りの世話をする従僧、荷物持ち、身辺警護等が付いて行ったとする方が話が分かる。メイン・キャストではなくエキストラの名前は記録されない。
莫賀延磧は砂が川のように流れるので流沙河ともいう。800余里ある。法顕はロブ砂漠を渡る時の様を「上に飛ぶ鳥なく、下に走る獣なし」と表現した。また、砂漠に道はなく、馬の骨や馬糞が転がっているのが道しるべ。砂漠に蜃気楼が立ったが、それが軍隊や賊に見える。空から「恐れるな」という声も聞こえた。
さらに困った事に、水の入った革袋をひっくり返してしまった。万事休すである。観音菩薩に祈り、般若心経を唱えつつ、倒れてそのまま寝てしまった。ふらふらと彷徨った5日目の夜半、ひやりとする心地よい風に気がつく。夢うつつの中、長さ数丈の戟を持った10メートルを越えるような大きな神、毘沙門天か、あるいは、深沙神?が現れる。
「立て、立て、玄奘、立つんだ玄奘!」
https://www.komazawa-u.ac.jp/plus/topics/lab-ekiden/6584.html
玄奘三蔵の祈り
さて、玄奘はどのように観音菩薩に祈ったのであろうか。観音菩薩は旅の守り神であるが、仏像を持って行ったのだろうか。あるいは、名号を唱えるだけなのか。まず、その名号が問題。観音経は鳩摩羅什の訳で知られるが、彼は観世音菩薩という訳語を使うので、南無観世音菩薩と唱える事になる。玄奘は観自在菩薩と訳した。南無観自在菩薩と念じたのだろうか。
石槃陀のエピソードは、盗賊団が襲ったわけではないが、観音経の文句を思わせる。「或値怨賊遶 各執刀加害 念彼観音力 減即起慈心」。
十数年前に亡くなられた先輩が、癌で病床に伏している時に観音経を読んだら、救いのイメージをありありと浮かばせてくれると感激していた。しかし、精魂尽き果てて倒れた時には観音経を読む事はできず、名号を唱えるのがやっとであろう。あるいは、聖観音の真言「オンアロリキャソワカ」、十一面観音の真言「オンマカキャロニキャソワカ」を唱えたか。
しかし、それより強力な真言があった。それが般若心経の「ギャテイギャテイハラギャテイハラソウギャテイボウジソワカ」である。
ここにも実は、ちょっと待ってくれという問題がある。玄奘三蔵が般若心経を訳出したのは帰国後の649年である。彼が唱えた般若心経とは、一体、何だろう。鳩摩羅什も『摩訶般若波羅蜜大明呪経』を訳出した事になっているが、鳩摩羅什の訳ではなく、後世の成立で、羅什の名を冠したものと言われている。
敦煌でオーレル・スタインが石室から発見した不空訳『唐梵翻対字音般若波羅蜜多心経』は、漢語訳ではなくて漢字訳、サンスクリット語を漢字で表した般若心経である。不空三蔵は玄奘より100年後の人。そこには以下のような序文が付されている。
玄奘三蔵は取経の途中、蜀の益州空恵寺で病僧から梵文般若心経を文字ではなく口伝えで授かった。インドに赴きナーランダ寺院に着くと、その病僧が私は観音菩薩であると言って空中に消えたという。
玄奘は若い時に空恵寺にいたが、取経の旅の途中に立ち寄る事はない。心経の成立は4、5世紀とされるので、成都にインド僧がいて、梵文心経、乃至、心真言「ギャテイギャテイハラギャテイハラソウギャテイボウジソワカ」を伝えた事は十分ありうる。「ナーランダに行ったら、その時の病僧とそっくりの老僧がいたよ。彼は観音菩薩のお使いだったのかなあ」という述懐だったのかもしれない。
真言というのは許可された者のみ秘密に伝授されるものなので、カタカリ舞踊劇などでもそっと耳打ちするようにマントラを授ける。本来秘密のはずの真言や印、儀軌なども不空三蔵の時代に中国人のための備忘録として記録し、体系化していったのだろう。
お母さん助けて
幼少の頃から記憶力抜群の神童と讃えられた玄奘であれば、その場で梵文心経を暗記する事も可能であったかと思われる。しかし、息も絶え絶えで倒れ込んだ時に唱えるのは無理だろう。授かったのは大神呪マハーマントラ、大明呪マハーヴィディヤーマントラである「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」のみではないか。
そもそも日本では摩訶般若波羅蜜多心経と呼ばれているが、唐の時代、法隆寺にもたらされた梵字般若心経の末尾には「プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ」と経題が記されている。いや、経題ではない。経=スートラの字がなく、訳せば「般若波羅蜜多心」のみである。心=フリダヤは、具体的には心臓を指すが、心呪、肝心要の真言の事だ。つまり、お経の体裁をとらず、心真言に前説を付けたものと考えられる。経ではなく陀羅尼が本体という事だ。
この心呪は最も良く知られている中村元の訳では、「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ」とある。佐保田鶴治はインド的、密教的に解して、「ガテー!ガテー!パーラガテー!パーラ・サンガテー!ボーディ!スヴァーハー!」を「至りたもうた尊妃、至りたもうた尊妃、彼岸に至りたもうた尊妃、彼岸に至り終わられた尊妃にまします菩提ボサツさま、わが献げものをご嘉納あれ!」と訳す。
最後のスヴァーハーは、護摩の儀式において、供物を火に投じてそれが神仏の口に達するように、それによって神々が満足して、幸いがもたらされるようにという意味である。
すなわち、ガテーもボーディも女神である般若波羅蜜プラジュニャーパーラミターに対する呼びかけ、文法的に女性形の呼格と解釈する。
https://www.renukatour.com/indonesia/indonesia.html
真言陀羅尼というが、ダーラニーという語は文法上女性形であって、「法を心に留めて忘れさせない能力、または修行者を守護する能力」とされる。その能力、シャクティとは女神である。インドの宗教の根底には大地母神に対する崇拝がある。
観音菩薩は慈母観音のように女性として表象される事がある。また、宋代の施護訳に聖仏母般若波羅蜜多経があるが、心経は聖仏母、天地万物、仏を生み出す母性神である般若菩薩の真言である。玄奘が絶体絶命の時にこれを唱えたのは、いわば、「お母さん助けて」である。
参考文献
慧立他著長澤和訳『玄奘三蔵/大唐大慈恩寺三蔵法師伝』光風社出版、1988年。
桑原正進・袴谷憲昭『玄奘』大蔵出版、1981年。
佐久間範秀・近本謙介・本井牧子『玄奘三蔵/新たなる玄奘像をもとめて』勉誠出版、2021年。
佐保田鶴治『般若心経の真実』人文書院、1982年。
中野美代子『三蔵法師』集英社、1986年。
中村元・紀野一義『般若心経 金剛般若経』ワイド版岩波書店、2001年。
前田耕作『玄奘三蔵、シルクロードを行く』岩波新書、2010年。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論
更新日:2022.04.15