河野亮仙の天竺舞技宇儀㊿

留学生のお財布事情

留学生と書いて「るがくしょう」と読む事があるのをご存じだろうか?還学生と書いて「げんがくしょう」と読む。平安時代の留学生の事である。

およそ20年に一度派遣される遣唐使と共に中国に学びに行く学生に二種類あって、還学生はその名の通りに帰ってくる。請益生、請益僧(しょうやくそう)とも呼ばれ、大使らと一緒に行って一緒に帰る。短期間の視察旅行、研修旅行である。

留学生は中国に次の遣唐使が迎えに来るまで留まって勉強するのが原則だ。帰らぬ人となる場合もある。何より、派遣された遣唐使の4分の1は嵐などでたどり着く事が出来ない、命がけの旅である。これについてはおいおい述べるとして、まずは我々の時代。

1974年9月、島岩は名古屋大学からプーナ大学への文部省派遣留学生の二人目として飛び立った。それから20年も経って留学記『インド/心と文化のオクターブ』という本を書いている。

これは楽しいドタバタ体験記である。インドに留学している日本人は行き来して交流しているが、BHUからプーナに土橋恭秀と茂木秀淳が訪ねて行った時のエピソードが印象深い。かいつまんでいうと、土橋先輩は髪はぼうぼう、汚いインド服で「汚さは乞食よりちょっとましかな」。お腹がすいているというので、まだ5時頃だが大学の前の食堂で定食ターリー、2ルピー60円を凄い勢いで食べていく。

夕食後はみんなでバンダルカル研究所を訪ね、先輩のおごりで高級ホテルでご馳走になる。さっきのは夕食で今度は晩飯とでもいうのか、同じターリーでもおかわり自由の10ルピーの定食を「堂々と悪びれず喜んでガツガツとすべてたいらげてしまっていた」「聞くとインドでもあまり痩せない」「ついつい彼を尊敬の念で見てしまった」とある。

しかし、土橋、島の二人はこの世を去ってしまった。安楽国スカーヴァティーで楽しく歓談してインド飯で飲み食いしているだろうか。

1977年8月、宮坂宥洪は名古屋大学・プーナ大学間交換留学生の五人目として渡印する。やはり、お盆が終わってから出発している。当時、1ルピー25円で大学教授の給料が2000ルピーだったそうだ。彼の奨学金は月5万円で大学教授並みという事になる。その間の事情は『インド留学僧の記』に、先生の家に住み込み寸暇を惜しんで勉強した話などが丁寧に描かれている。貴重な本だ。彼の『般若心経の新世界』も名著で文庫に入った。

私が先輩と一緒にプーナを訪ねた時は、なんでも宮坂が天つゆを作るのが得意だという事で、天ぷらをご馳走になったような気がするが、記憶もあやふやである。向こうは覚えていないだろう。

丁度、その二年後に出発した私の時にはルピー30円で、インド政府の給付金は月500ルピー。斉藤昭俊が留学した1955年頃は、ルピー75円で、奨学金は200ルピー。ルピー35円だった頃の奨学金は300ルピー。それが1994年頃にはルピー3円強で奨学金は3000ルピー。長い間、日本円に換算してほぼ月1万円から1万5千円の奨学金だった。

現在は月2万ルピー前後の奨学金、ルピー1.5円程なので月3万円。物価はそれ以上に高くなっている。円は強くなり日本とインドの差は大きくなった。
https://ryugaku.jasso.go.jp/scholarship/scholarship_foreign/india/scholarship_in/

遣唐使のお財布

さて、平安時代の留学僧の事情について書きたいのだが、円仁が詳細な記録を残し、円珍も書いている。最澄、空海の旅については、大まかな行程は分かるものの詳細は不明である。本人でないにしろ、誰かが日誌を付けて、出入金を記録したはずだが残されていない。

遣唐使や留学生の旅費や生活費は保証され、出発時に給与が支払われている。大唐の仏教を日本に伝えるという使命を担った僧侶達は、写経生を雇って経典や論書を写し、仏像や曼荼羅、仏具等を買うので、それだけでは足らない。

僧侶の場合、妻子がいないし、基本、寺に居住するので生活費は足りると思うが、そもそも大使などの役人が「危険手当」「出張旅費」としてたんまり貰ったとして、その間の妻子はどうして暮らすのか、通常の給与も支払われていたのだろうか。

お役人さん達が、官官接待の他に、今日は町に飲みに行こうぜと歓楽街に繰り出したら何にいくらかかるか知りたいところである。誰か記録したんじゃないかと思うが、そのようなものが公式に残される事はない。

金の価格や米や絹など反物の価格で現在と比較して物価を判断するが、それが中国と日本となると相場も金銀の交換レートも異なり、判定のしようがない。仏教史家はそういうことを書けない。そこで、今だったらいくらかかるかという見方から、唐への留学生の財布を想像してみよう。

大都市への留学

ニューヨークで少しましな生活をしようとしたら年間2千万円はかかる。平安時代に世界一の大都市へ留学する教授待遇というのはそれ以上と考えて良いだろう。最澄は天台山に詣でて学び、長安の都には行っていないが。

遣唐使には何が支給されたのか記録されているが、それが今日でいかに価値があるものなのか見当がつかない。絹や綿、麻等の反物をそのまま舶載したわけではないと思うが、それは換金されて持って行ったのか、あるいは残された家族の財産として切り崩して使ったのか。

遣唐使は二十数年に一度派遣され、一つの船に100人から150人ほど乗り込み、4船で構成される。基本的には夏に出て、お正月の朝賀に間に合うように行き、皇帝に拝謁する。

大使を始めとする外交使節団と乗組員、通訳、神主、医師・薬剤師、陰陽師や占い師、画師、射手の他、学者、楽師、技術者、僧侶が唐の優れた学術・技芸を学びに行く。

延喜式によると、大使は?(あしぎぬ)60疋、綿150屯、布15端、さらに特別支給品の彩帛117疋、貲帛20端の支給を受ける。同じく留学生はそれぞれ、40/100/80で特別支給品はなし。留学僧は40/100/80に彩帛10疋、還学僧は20/60/40に彩帛10疋、請益生は5/40/16で彩帛はなし。雑使と呼ばれる庶務は3/15/8、技芸の研修生はそれに並び、船長、通訳はそれより上で、水夫等は 一番下に来る。

長期滞在の留学僧の待遇は副使に匹敵するが、それで20年分の経費がまかなえるかというとそうではないだろう。円仁と共に入唐した留学僧円載は唐朝から5年間食糧費が支給され、時服月料として法服費が給されたようである。

伝教大師最澄は桓武天皇の庇護の元、還学僧に指名されたが、皇太子安殿親王から金銀数百両を賜ったという。正確な数字は本人しか知らないからそのように記録されたのだろうが、ポケットマネーをポンと一億、まあ数千万円相当提供した。他にも親族や支援者から選別を貰ったと思うが、それも一億円位欲しいものだ。日大理事長だってそのくらいあちこちから頂戴している。

一僧侶が仏教学を勉強しに行くという話ではなくて、国家プロジェクトとして最新の仏教をもたらし、国家の精神的支柱とする、天皇の玉体安全と国家安泰を祈るということである。奈良時代から日本に陀羅尼信仰はあったが、唐からインド直伝の秘法を持って帰ってきて欲しかったのだ。それは今でいえば、開発したばかりのコロナ・ウィルスに対するワクチンや治療薬の製造法を希望するようなものだ。

最澄、空海の渡唐

伝教大師最澄と弘法大師空海の足取りを追ってみよう。

桓武天皇が都を平安京に定めた後、二十数年ぶりの遣唐使派遣を決める。それは延暦20年の事だった。最澄は弟子の二人を留学させる事を願い出るが、桓武天皇は「最澄さん、あなた行ってください」と仏教界の立て直しと国家安泰の期待をかける。最澄は漢文の読み書きは得意でも唐語を解しないので、弟子の義真を通訳として連れて行く事を願い出る。

実際に態勢を整えて四つの船で難波津を出発するのは、旧暦で延暦22年4月14日。しかし、暴風雨で船は破損し、被災者も出して舞い戻ってくる。

最澄の船だけ修復して先に九州に着いたのか、あるいは船を乗り換えたのか不明だが、北九州に一年余り留まって、太宰府の豊満山など山々を巡り航海の安全を祈り、薬師如来を刻んだと伝えられる。九州には中国人もいて「中国語会話」を学ぶ事も可能だったのではないだろうか。

長安と天台山では訛りも違い、僧侶の出身地によっても違うだろう。しかし、呉音と漢音、当時の唐宋音や方言の違いが飲み込めれば、構文は漢文と同じなので講義は大体理解出来ただろう。いくら通訳を付けたって講義中に逐一訳すわけにはいかない。

遣唐師団は翌年、3月12日に再び難波津を出航する。五島列島で風待ちし、旧暦7月6日に唐へと旅立つ。出航日は陰陽師が決めたようだが、まさに台風シーズンで、すぐに暴風雨のため第三船、第四船は行方不明となる。第一船には遣唐大使と空海、第二船には副使と最澄が乗り込んでいた。

その間の空海の動きはなかなか分からない。確かな記録は『続日本後紀』「空海卒伝」によって「年31にして得度、延暦23年入唐留学」とある事だ。さらに延暦24年9月11日付の太政官符の写しによると、留学僧空海が延暦22年4月7日出家入唐とも記される。

それをどう解釈するかの見解はまちまちだ。たいていは、二回目の出航前に急いで出家したとされている。

それでは、初めの出港時に空海はいたのか、遣唐師団に乗り込んだとしたらどんな資格だったのか。

東野治之『遣唐使』には、安然『真言宗教時義』に「元為薬生/はじめ薬生たり」と記されていたとある。日本密教を集大成した安然(あんねん)の元には天台宗のみならず真言宗の学徒も学びに来ていたので、「うちの師匠は薬生だったんでっせ」と伝えたのか。

私度僧であって大唐留学を目指した空海は、伝手をたどって(おそらくは伊予親王)薬師の名目で乗り込んだのかもしれない。実際には大使付書記の役割を果たした。唐語も解したようである。

空海は山林修行の中で道教や医薬、錬金術についても学んでいたと思われる。医者といっても傷の手当てくらいはするが、薬を調合する薬剤師である。もっとも、空海薬生説は真言宗では採用されない。

苦難の渡海と帰国

出航した第一船は遠く南方まで流されて8月福州に着く。第二船はそれまでに明州(寧波)に着いていたと思われる。他の船は漂流して筑紫に戻り、またの機会を期す。

第二船の副使は過酷な旅の疲れか到着後間もなく亡くなる。最澄は9月15日、天台山を目指すが、正味8ヶ月程の滞在期間の半分は修善寺の座主道ずいの元にいて学んだようだ。帰国直前24年4月に越州で密教の伝法を受ける。5月18日に明州を出発し、6月5日対馬に達し、8月3日長門国に帰着。

福建に着いた大使一行は正月に行われる皇帝の朝儀に間に合うよう陸路を強行軍で進み12月下旬長安に入る。空海は長安宣陽坊で大使に付き添い、2月10日に大使一行が帰国の途に着くと、別れて西明寺に移り住む。醴泉寺の般若三蔵と牟尼室利より3ヶ月ほど梵語を習う。おそらく仏教のみならず、当時はヒンドゥ教とは呼ばないが、ブラーフマニズム、外道の教え、インド的常識、地母神信仰なども学んだものと思われる。真言とは正しく発音されなければ効果がないと。

そして、ようやく5月に師となる青龍寺の恵果阿闍梨と相見える事になる。般若と恵果は旧知の仲で、しかも般若は金剛頂系の密教を受け継いでいる。空海の事、遠く日本から密教を学びに来た僧侶がいるという事も般若から聞いていたことだろう。二人の対面は如何に。

「空海さん、密教を学び取るには書物だけでなく身に付けないといけない。それにはヴァーチャル宇宙を再現する曼荼羅等々の用具が必要だが、その準備はあるのかね」

秘法を授かるのにはそれなりの謝礼が必要である。空海は20年分の資金を2年で使ったとされる。謝礼分はともかく曼荼羅等の実費については、さらに、仕送りして貰う必要もあったと思う。その時点から日本へ人を派遣して、砂金を持って来て貰うなどということが可能だったのだろうか。恵果は12月に亡くなる。

恵果からすべてを授かって空海は帰国を急ぐ。幸いにも、遅れて判官高階遠成の遣唐使船がやって来た。留学中の空海と橘逸勢は20年の留学期間を短縮しての帰国を願い出て、大同元(806)年8月明州の港を出港する。帰りの海も荒れて難渋したようだが、帰国の日時は分からない。

しかし、空海は『御請来目録』を高階判官に預け、帰朝報告としてその成果を上奏した。目録は大同元年10月22日付である。本来の期間に満たないためか、しばらく上京を許されず、筑紫の観世音寺に留め置かれる。大同4年4月13日、嵯峨天皇が即位する。翌日平城の皇子高丘親王は皇太子となるが、やがて出家して空海の弟子となり、渡印を志す。嵯峨天皇のおかげで、やっと上京する事ができた。空海の時代が始まる。

最澄、空海はどうして筑紫に長居したのか。おそらくは、九州の有力寺院や有力者からお呼ばれしていたのだろう。当然、お布施も貰える。京から偉いお坊さんが来た、中国で修行して秘術を授かった坊さんが来た。そうなれば、是非、お目にかかりたい。こちらの寺でも講説してくれ、雨を降らせてくれ、病気を治してくれ、呪いを鎮めてくれ、子宝を授けてくれとモテモテだったのではないだろうか。これはアルバイトなので公式記録には残らない。

並の人間が旅をすれば懐は寂しくなるが、高僧が巡錫するとスポンサーを得て路銀を稼ぐ事が出来る。空海も帰国後、九州滞在中はあちこちの寺を回り、たんまりお布施を頂戴し、九州から青龍寺にお金を送って借りを返したかもしれない。そんな事は歴史家は書けない。

大使と学者の給料

さて、大使や留学僧に対する給付はいくら位に考えたら良いのだろうか。今の金銭感覚で大使は5000万円、副使や留学僧は3000万円といったところではないか。しかし、留学僧はそれを20年以上の間、切り崩しながら使わないといけない。やはり、足りないので仕送りして貰ったようだ。新羅船や唐船が書簡やら砂金やら、日本から唐まで運んできた事が知られている。

今の中国では、諸外国から引退した教授を迎え、その報酬は年に120万元、2100万円以上になる。住居費、赴任手当、交通費、研究費を積み上げると、すぐに1億2億になってしまう。

出金の方からも考えてみよう。印刷技術は陀羅尼や経文の印刷から始まっている。称徳天皇発願の百万塔に納められた陀羅尼が世界最古の印刷物とされている。唐の時代になると木版の経を買う事は可能だったかもしれない。貴重本は自ら、あるいは写経生を雇って書き写さないといけない。それには日当を払う必要がある。

仮に時給1000円で10時間働き、月の内25日勤めると一人月25万円かかる。それを20人雇うと2ヶ月で1000万円かかる事になる。それはたいしたことではないのだが、問題は曼荼羅や絵画である。

例えば、五大祖師影像を制作したらいくらになるか。シンプルに5本で5000万円とする。曼荼羅はいくらだろう。金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅の大曼荼羅は絹7枚を縦継ぎして7幅ある。いくらに値を付けたらいいのだろう。両界曼荼羅で2億円としてもよいのではないか。合わせて10点の曼荼羅を発注したようだが、果たしてすべて帰国に間に合ったのか、約束だけしてお金も品物も後送、後で取引したのか。

『御請来目録』には7幅の大曼荼羅2点と3幅の曼荼羅3点、3幅の祖師像5点のみあげられている。仮に1幅47センチとすると大曼荼羅は一辺3.3メートル、3幅は141センチである。写しとされる大曼荼羅は一辺4メートル以上ある。60センチ幅を七幅継ぎ合わせたのかそれは分からない。曼荼羅は1メートルから1メートル半位が扱いやすい。

問題はそれだけではない。大曼荼羅の制作期間はどの位なのだろうか。空海が恵果阿闍梨を師としたのは805年の5月のこと。師は12月に亡くなり、翌年3月に空海は長安を出ている。

弘法大師『御請来目録』には、「二十余の経生を集めて金剛頂等の最上乗の密蔵の経を書写す」「供奉の丹青、李真等十余人を喚んで胎蔵金剛界等の大曼荼羅等一十舗を図絵す」と記されている。宮廷に出入りする一流の絵師や鋳物師を頼んで製作している。

一年足らずで曼荼羅を十点も制作できるのだろうか。密教学者はこの点について無関心なので、是非、画家に聞いてみたいものである。極彩色の曼荼羅を製作するには截り金細工も必要だろうし、それだけでも日数を要するのでは。いくら工房に多くの絵師を抱えていたとしても、金剛界の九会曼荼羅をパーツごとに9人で画いたとしても、間に合うのだろうか。

円仁の小遣い帳

円仁の『入唐求法巡礼行記』によると、840年10月より大興禅寺の元政の下に赴き、新訳経、念誦法の書写を始めて4月22日に終えている。

金剛界の潅頂を受け、12月22日には永昌坊の王恵に金剛界大曼荼羅4点を描かせ、2月8日に書き上げられたとある。現物は失われているので、どの位の大きさなのか、彩色されているのか白描なのかも分からないが、一月半である。

円仁が元政に支払った額は25両とある。承和の遣唐使の場合、仁明天皇から大使へ御衣のほか、砂金200両、副使へ砂金100両が下賜されている。

また円仁は青龍寺の義真を訪ね、胎蔵法の学習を申し出る。胎蔵曼荼羅と金剛界九会曼荼羅を描いて貰う段取りをしている。

祖師の人徳によって写経も仏像、仏具もただで貰い受けたように思われがちだが、そうではあるまい。恵果阿闍梨は無欲の人で、一銭も自分の懐に入れないと伝えられる。「空海さん、私は死期が近づいているから何もかも全部譲るよ」「あなたに阿闍梨の一番大切なものをあげるわ」と言ったところで、職人の工賃、材料費は別である。

紙も貴重品で高価である。大きな絵を描く以前に紙なら漉かないといけない、反物を織って絵絹を用意しないといけない。今の日本画家は床に敷いて描くが、昔は枠張りした絵絹を立てたまま描いたという。どうやって大曼荼羅を製作したのだろうか。曼荼羅をみんなで描く図を誰か描いて欲しい。

曼荼羅のお値段

最澄の留学時は1億から2億円かかっている。空海の請来品に値段を付けたら今の物価でおよそ10億円、実費で5億円相当。円仁、円珍の場合はその半分かと思われる。そのお金はどこから出たのか、どうやって持って行ったのか詳細は不明である。

仏教史家は、ほとんど金銭問題をスルーしているのだが、エドウィン・ライシャワーは『円仁 唐代中国への旅』で「僧の官給」「円仁の費用の出所」という項目を設けて記述している。彼の場合、フィート、ヤード、ポンドを使い、金の両を大雑把にオンスと訳している。

この本は1955年に出版され、日本語訳は東洋学者のライシャワーが駐日アメリカ大使として来日中の63年に出版されている。金や米の相場は変動し、為替レートも変わっているので円ドル換算しても混乱するだろう。

常用ポンドは456.591グラム、薬剤、宝石貴金属の薬量ポンドは373.24グラム。薬量オンスは31.1グラム、1両は41から42グラムとされる。金の相場は変動するが、今はグラム7000円を超えている。さらに小の両と大両があり、大使が天皇から頂戴した砂金200両は小両と思われる。2000万円に近い。副使が100両なので円仁もそれ以上に頂戴しているだろう。

中国の単位は大両に変わっている。小両は大両の1/3程度。江戸初期の1両は十万円程度に見られているが、江戸末期には1万円以下になったようだ。円仁が元政に払った25両は約1キロの大金、今の金相場で700万円。これでどこからどこまでの費用がまかなえたのか明確ではない。ライシャワーは授業料とするが、写経の費用と謝礼ではないか。写経の紙や絵絹は寄進して貰う事もあったようだ。

また、袈裟については五条袈裟は絹28フィート半、七条は47フィート半、二十五条は40フィートで仕立屋の工賃は300/400/1000文であったとする。二十五条では12メートルの長尺になる。袈裟は布を様式によって縫い合わせるが、五条、七条も、今日、日本で使われる短くて紐の付いた形、長さではないかもしれない。

絹一巻が1貫、銅貨なら1連で、1000文が1貫のはずだが、円仁の頃には金の相場が上がり1貫1700文とされている。円仁は町中で『維摩関中疏』4巻を買い450文。1文50円とすると7万円ちょっと。今、木版本を買ってもそんなもんだろう。唐の時代に本屋があるとしたら、それは大寺院の側にある木版所だろう。学僧の指定教科書販売店だ。

また、60人の僧にご馳走を振る舞って6000文としているが一人5000円とすると納得できる。米は1斗(18リットル)で60から100文。日本の米は割高で品質により随分違うが18キロで5000円前後、カリフォルニア米はその半分以下の値段。籾か玄米かも、いまいち分からない。

しかし、曼荼羅の値段は算出しがたい。円仁は長安で絵師王恵に最初の5点について50貫与えた。後の5点については絹の値段を除いて60文払ったと記されるが、これは写し間違いで60貫文かと思われるが、すると50X1700X60で510万円。1点100万円前後という事になる。白描画であろうか。儀軌に指定されていれば日本でも彩色は出来る。

私は江戸時代の白描の木版による金剛界曼荼羅を100万円で買った。これに後で彩色するのである。仏教学者は下世話な事を考えない。まして私は歴史学者でも経済学者でもないので、唐の時代の単位について辞書にある程度の事しか分からない。あえて当てずっぽうで値段を考えてみた。これを踏み台にしてもっと精緻に検討していただきたい。

参考文献

足立喜六訳注塩入良道補注『入唐求法巡礼行記1.2』東洋文庫、1970年、1985年。
エドウィン・O・ライシャワーは『円仁 唐代中国への旅』講談社学術文庫、1999年。
佐伯有清『円仁』吉川弘文館、1989年。
島岩『インド/心と文化のオクターブ』明石書店、1994年。
高木訷元『空海の座標』慶應義塾大学出版会、2016年。
伝教大師真蹟集成復刊委員会編『伝教大師真蹟集成』法蔵館、2021年。
東野治之『遣唐使』岩波新書、2007年。
深谷憲一『入唐求法巡礼行記』中公文庫、1990年。
宮坂宥洪『インド留学僧の記』人文書院、1984年。
頼富本宏『空海と密教』PHP研究所、2015年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2022.02.05