河野亮仙の天竺舞技宇儀㊾
留学記
ビートルズに導かれ、ラヴィ・シャンカルからインド世界に入った私だが、この数回はビートルズとインド関連の事を書いた。単なるポップ・スターやヒットソング・メーカーにとどまらない彼らに影響を与えたのがビート・ジェネレーションである。
先日、瀬戸内寂聴が亡くなり、ふと思ったのだが、寂聴こそビート作家の日本版ではないか。ウィリアム・バロウズは1914年生まれ、アレン・ギンズバーグは1926年、寂聴はジャック・ケルアックと同じ1922年、大正11年生まれだ。
男ではないから無頼派とは呼ばれないし、麻薬中毒で逮捕された事もないが、大酒飲みで不倫をした。それ以外は不道徳とはいえない真面目な天台宗の尼僧であった。反骨、反権力、反戦、反原発、死刑反対、そして反安倍を唱えた。二度と戦争をしてはいけないと。宗派とは関係なくフリーランスで勝手気ままに行動した。幼い娘を捨てて家出したが、考えてみれば、お釈迦様も息子を捨てて出家しているのだ。
寂聴はそんな自分の過去を悔やみつつも糧にして作家活動を続け、女流作家の道を開き、人生相談のカリスマとなった。不倫関係を絶つための出家とされているが、絶妙な解決策だった。尼さんという既成概念に収まらない規格外の人、目立ちたがり屋でネイキッド、天然の人だった。
実は1回だけ間近にお目にかかった事がある。三十三間堂の本坊妙法院に随身してる時、門主に挨拶に来た。それは昭和48年の秋かと思う。寂聴が比叡山での修行を終えて山から降りてきた時。私は小僧としてお茶出ししただけですぐに下がったので、そこで話しているのを聞く事はなかった。
また、彼女が井上光晴と不倫をしている時の事を設定を変えて小説にしたところ、当時、妙法院の南叡学寮で習っていた声明の先生の話と比叡山関係の人は理解した。その本は買ったけど、およそ愛だの恋だのという恋愛小説には興味がなかったので読み損なっていた。
部活をしたかったので妙法院の学寮は1年で出て宝ヶ池駅側の牛乳屋のアパート六畳一間に下宿した。そこもまた大きな道路に拡張されて、かつて通ったガラス張りの喫茶店はなくなっていた。青春のかけらがなくなった。
部活は茶道部、正確には心茶会といって、哲学者久松真一の創設した禅修行と共に行うクラブである。思い出に残っているのは徹底した掃除。また、茶会の準備というのは総合的なイベントのプロデュースであって、後で随分役に立った。
インド留学記
さて、振り返って留学時代の事を少し書いてみたい。インド留学記は意外と少ない。先生に何々のテキストを読んでもらったなどと書いても門外の人には面白くもなんともないので書かないのは分かる。音楽関係者が少しいて、近い世代のインド学で留学記を書いたのは、何故か2人とも1950年生、名古屋大学卒の故・島岩『インド/心と文化のオクターブ』と宮坂宥洪『インド留学僧の記』だ。前者はとても楽しいインド体験記、後者は真面目な勉学記である。
1980年頃の留学時、マドラスには山下博司、マドゥライに高橋孝信がいる、デリーに清島秀樹と高橋堯英がいる、プーナには宮坂宥洪がいる、カルカッタには大西正幸がいるなど、大学間を越えた情報があってお互いに行き来していた。我がBHUには宮本久義、橋本泰元がいた。みんな偉くなっている。
私の記憶もかなり怪しくなってきているので、遺言ではないがその生活ぶりを書き残しておこう。
留学は1979年8月から1982年1月まで。バナーラス・ヒンドゥ・ユニヴァーシティ、通称BHUの修士課程インド哲学専攻のコースである。
国立大学だがインドの日大といわれ、発砲事件やら、ロックアウトやら紛争が多かった。留学の申請書を日本から送っても机の上に山積みのまま処理されず、留学するまで2年近くかかった。メールでやりとりできる昨今はどうなっているのだろうか。
研究室の先輩、故・土橋恭秀、茂木秀淳の2人が相次いでBHUから帰国して、バナーラスの話を聞いた事が大きい。田舎生活をしてみたかった。
外国人学生のための寮はあったが、ガンジス川のほとり、アッシー・ガート側のヴィディヤー・ニケータンという未亡人の館の2階に住んだ。木々を飛び回っている猿が一度部屋に飛び込んだ事があって、どうしたら追い出せるかと考えているうちにウンコをして逃げていった。家賃は200ルピー、電気代は別に20ルピーくらい取られたかもしれない。そんなにはかからないはずだが。
奥の部屋にはスペイン人のセルジオ、学生ではなくヒッピー、がしばらく住んでいたが、交流は持たなかった。鬼瓦みたいな顔の太った大家のおばさんの他に2人の老いた未亡人が階下に住んでいて、10歳くらいのお手伝いの娘もいた。彼女は1年くらいしたら結婚した。幼児婚である。
大学の門までは歩いても10分程度だが中がだだっ広く自転車で通った。がっしりとした実用自転車だった。ギアはない。東洋一広い大学といわれた。下宿にはコンクリートの床だけで何もない。窓には泥棒除けの鉄格子がはまっている。道ばたの家具屋というのか、材木屋というのか、ベッド、机椅子、本棚を作ってもらう。
この近辺をグーグルで探ると、もはやその下宿はなく、カフェやお寺が建っていた。あれから40年経っているが、その後訪れていない。青春プレイバックをしたいものだ。
インドの大学の授業は英語と現地の言葉と二本立てで同じ授業を行う。日本では東方学院で我妻和男にヒンディー語を習ったが、日常会話程度なので英語の授業を取る。ヒンディー語圏の生徒の他、クラスにはタイのお坊さん数名、マニプリ州から来た女子2人、ケーララ州から来た男子2人がいた。他州から来ても、言葉や食べ物、習俗も違って外国留学のようなものである。
タイの坊さんはほとんど英語が話せない。マニプリの女の子は男子とは交わらなかった。ケーララから来た2人は初めヒンディー語が分からず、私が通訳していたが、1年もすると流暢に話していた。町で英語は通じないので、買い物が出来る程度のヒンディー語は必要だ。
博士課程でインド哲学を専攻するアメリカ人は週に一度黙行、しゃべらない日を作っていた。シンガポールや南アフリカからもインド系の学生が留学してきた。インド系ではないアフリカからの留学生も少なくなかったように思う。時々、韓国から来た留学生と会うと、一緒にインドの悪口を言って、全く仲間であった。
修士課程といっても概論で、年齢からも日本の学部程度である。サンスクリットは別に先生を見つけるのが普通だ。私は伝統的なサンスクリット文法学の初歩を教えてくる老先生をまず見つけた。この先生は健康法で、毎朝、飼っている牛の小水を飲んでいると聞いた。
伝統的なパンディット、英語が話せない代わりにサンスクリット語を話す若い先生には、カーリダーサの「シャクンタラー姫」をサンスクリット語で解説してもらった。小学生くらいの子供がいて、プーナの研究所にテキスト校定のために呼ばれ、大変なもてなしぶりでご馳走になった事を子供に自慢していた。月謝は月50ルピー程度か、小遣い帳が出てこないので不明である。
アディヤールの神智学協会に移る
1981年にマドラスに移ってからは、南インドのヴィシュヌ派の一つ、パンチャラートラ派の先生2人について専門のテキストを読んでもらった。プロフェッサー・サンパットとドクター・ナラシンハーチャーリヤである。マドラス大学の2人の先生には月謝を払わなかったような気がする。お礼に果物を持って行ったら、私たちはちゃんと食べているからこういうことはしてくれるなと怒られた。プライドが高い。
その頃、同じ南インドのヴィシュヌ派のブラーマンであってもパンチャラートラ派とヴァイカーナサ派では通婚しないと聞いたが、今ではそんなことは言ってられないようだ。
マドラスでは郊外のアディヤール・ライブラリーの寮に住んだ。学生用は10ルピー、ゲスト用の広い部屋は40ルピー。どちらも冷房はない。食堂にはケーララから来たコックがいて、菜食の料理が安くておいしかった。
バスで30分くらいかけて町中に出ては、時々、音楽会、舞踊会に出かけたが、畏れ多くて?同じアディヤールにあるバラタナーテイヤムの総本家カラークシェートラに足を運ぶ事はなかった。一度、ルクミニー・デーヴィーにお目にかかっていれば良かったと思う。舞踊家のデビュー・コンサート、アランゲットラムは無料で公開されるので何回か見に行ったが、みんな文句なく上手い。
昭和30年頃の暮らしぶり
さて、話をバナーラスに戻すと、食事は自炊もした。木炭を買ってコンロでご飯を炊いた。お湯は電熱器、電気コンロで沸かす。ネスカフェを飲む時は金属コップにギザという金属棒を突っ込んで沸かした。これは旅行時の必需品。
たいした料理は作れない。スーパーがあるわけではなく、肉や魚の入手は困難で卵料理や野菜だったんじゃないかと思う。日本から送ってもらって、味噌汁や野菜スープの一汁一菜だったかと思う。インスタントのカレー・ルーやシチューの素がご馳走である。当時から大豆の代用肉があった。船便で送るとたいていは検閲ということなのか開けられていて、電池などが入っていると盗まれた。
ケロシン・コンロ、石油を使う友人もいたが、流通が悪く闇で高値の石油を買うのが馬鹿らしくて炭にした。町の洗濯屋は炭を中に入れるアイロンを使っていた。なんせ、ほとんど毎日のように停電があったし、夏は断水した。冷蔵庫は氷を入れるタイプである。
写真機は乾板カメラなのかどうか分からないが、朝のテレビ小説に出てくるようなボックス型、木箱のカメラが使われていた。30秒じっと動かないでポートレートを撮る。昭和30年頃の日本の暮らしで、1928年生の私にもかすかにそのような記憶があって懐かしい。お店では新聞紙を包装紙にして、時々子供の落書きがあった。その頃から次第にビニール袋も使われるようになり、道を歩いている牛がそれを食べて往生した。町は牛糞だらけで、それを藁と混ぜて燃料にする。
外食はマサラドーサなど昼飯に食べると1ルピーちょっと。30~40円相当。食堂に行くとヴェジかノンヴェジか、お茶を飲むかによるけれど3~5ルピー程度。京都大学吉田寮の具がほとんど入ってないカレーが100円だったが、それよりはまし。大学前に店を構えるラッシー屋のラッシーがおいしかったが、これも1ルピーくらいだったか。チャイは50パイサ、これがデリーに行くと1ルピーでガラスコップに入っている。バナーラスでは素焼きのコップが普通。当時、小遣い帳を付けたが日記は付けていなかった。
インドまずい物自慢
ラベラーという中国料理屋もあったが、割高でまずい。中華かインドか分からないようなスパイスの使い方。カーストの低いヒンドゥーの家で皮に毛がついたままの豚肉カレーをご馳走になった事もある。その辺を走り回ってドブで水浴びしてる豚だろう。インドでマトンと言っているのは、めえめえヤギさんの肉である。カルカッタの硬いビーフ・ステーキはバッファローの肉。今はどうなのだろう。おいしいといわれる羊の脳みそカレーは怖くて食べなかった。
どこだか忘れたが、旅行先の屋台にウィンナーのフライがあったので食べたら、いやそれは妄想でそう思い込んだだけで、とても辛い唐辛子のフライだったので、水を求めて走り回る事になった。
ケーララのど田舎で、椰子のどぶろくが出るような大衆食堂に、友達がダックがあるってさ、と言うので食べたら、実はドッグだった。ラダックに行って、麦のどぶろくをご馳走になった時は寒いからか、おいしかった。
今はポール・ジョンというビートルズみたいな銘柄の高級ウィスキーもインドに誕生しているが、当時のウィスキーは毒みたいにまずかった。まだラムの方がましということで、オールドパーみたいなボトルのオールドモンクというラムをおいしいと言って飲んでいたが、今、息子がお土産に買ってきたのを飲むとやはりまずい。
そういえば、インドにマギーのカップラーメンが出来た時、友達がお土産に買ってきて「まずいから食べてごらん」というので食べた。ダシという概念のないインドのラーメンは味気なかった。同じように私も「これまずいから食べてみて」と友達にあげたら、食べる前に変な匂いがするということで、母親が捨ててしまったそうだ。インドまずい物自慢である。
知らない土地に行って下宿している人が、異郷でまずいまずいというのはお決まりだが、京大生協の食堂もまずかった。しかし、インドから帰国したばかりの先輩がうまいうまいといって食べていたのを思い出す。
BHU名物ストライキ
9月から新学期という事で駆けつけたのに、授業はなかなか始まらない。ストライキばっかりで1年のスケジュールをこなすのに、もう何ヶ月か余計にかかってしまう。2年半いても課程が終わらないので、修士は取らずに帰国した。修士も博士号も興味はなかった。
今から考えると、もし博士論文を書くとしたらサンスクリット語劇クーリヤーッタムだと思った。その演者チャーキヤールに初めて出会ったのは、1981年夏の国際サンスクリット学会での事で、ヤクシャガーナも見たし、パニッカル率いる劇団ソーパーナムによるサンスクリット劇もその時に見た。よって、私の運命が西南インドに引き寄せられる事になったのだ。
しかし、博士論文を仕上げようと思ったらマラヤーラム語から勉強して、もう1年は留学しないといけないので、それはもはや無理だった。後進に頑張ってもらわないといけない。私がケーララ・カルナータカで手掛けた分野は何人もの若い人や先輩が追いかけ、追い抜いて行ったが、この分野は残されている。
インド政府の奨学金は月500ルピーで大卒の初任給程度といわれた。寮に入っていればそれだけで生活はできる。しかし、本代や旅行費には足りないので仕送りしてもらった。BHUの構内にある銀行に口座を作ったが、そこではらちがあかないので、デリーの東京銀行に千ドルずつ送金してもらって、トラヴェラーズ・チェックを作った。本当に昔話である。国際電話もバナーラスなど田舎では回線が悪くなかなか通じなかった。
どこの大学に誰それが留学しているという事は日本にも知られているので、時々、各大学の教授達が調査や旅行、学会の折に我々を訪ねてくる。山折哲雄、原実、斉藤昭俊らだ。サールナートにあるクラークス・ホテルなどでご馳走になるのが楽しみだった。留学生仲間で、10キロほど離れたサールナートまで自転車でピクニックをする事もあった。プーナ大学の留学生などはバイクで通学していたというから、田舎と都会では格差がある。
年末だったか、大コンサートがあって有名音楽家がやってくる。野外コンサートで寒かったような気がする。それは一種の社交場で、演奏が始まっているのにナマステー・ヴァルマ・ジーとか、前を横切って邪魔をし、ピーナッツなどボリボリ食べ散らかす。明け方までやっているが、音響が悪くひどい音である。
大学はだだっ広くて各学部や学生寮、教授の宿舎、病院など各施設の他に美術館や寺院まである。大学にはコンピューターもあったらしいが、その真空管!がいつも切れていて使い物にならないと聞いた。
しかし、日本でいうところの部活、スポーツをやってるのを見た記憶はない。広場で子供がクリケットに興じているのはよく見たが、カバディも見てないと思う。
クシュティと呼ばれるインド・レスリングの試合は町で、時々、やっていた。たまに地方演劇、ベンガルのジャートラとか、あるいはイスラームの朗唱カッワーリー大会などもあったようだが、見に行った事はない。書いているうちに、だんだん、いろいろな事を思い出してきた。こんなくだらない事ばかり思い出すのだろう。
帰国すると在籍していた大正大学で修士論文を1982年12月に提出し、翌年、ケーララ・カルナータカに飛び立つ。
インド祭りへ
そして、1983年になるとインド祭りの企画が始まった。アジア文学者の会議に関わったジャーナリストの荒木重雄と作家の渡辺建夫が言い出しっぺで、インド映画の紹介をしたかった松岡環と合流した。インドに関わる人、関わりたい人があちらこちらから集まった。全共闘世代、ぶら下がり組にはエネルギーがあった。
初め、コンサートはホールで、展覧会はギャラリーで、映画は映画館というような企画だったと思うが、私が増上寺と交渉して一度にみんなで集まってやろうという事になった。その年、京都の壬生狂言を見て、同時多発的にいろいろな事が起きるとわくわくして楽しいという事を言った。インド文化祭である。
1983年は10月8/9/10日の3日間。それは大変だという事で翌年は10月20/21日の2日間。それぞれ30名近くが世話人として走り回った。当日だけ来てお店を開く人は大いに儲かったけれど、準備に走り回る人は手弁当である。最初にみんなで1万円ずつ出して運営資金を作り、後はパンフレットに広告を集め、出店料を取るという形で収支はプラスになる。ここにパンフレットの一部を紹介する。
30人いた世話人の内、2年目も続けた人は6人、3年目をやろうという人は少なく、次の年は、有志がラーマーヤナ劇を開催するということで、増上寺インド祭りは2回で終わってしまった。しかし、そこで形成された人脈は生きていて、また、後のナマステ・インディアの原形となった。ナマステ・インディアもコロナ禍のため2年続けてお休みになってしまったが、来年はきっと開催されるだろう。良い事も悪い事もずっと続くわけではない。
私自身についていうと、2回目にケーララ芸能の写真展を行って、それが平河出版社『カタカリ万華鏡』の出版につながった。また、インド政府観光局から紹介されてクンクマ・ラールに会い、出演してもらった事によってインド舞踊、オリッシーと縁が出来た。私は大井町で練習場を探し、オープンリールのテープをカセットテープにダビングして、どこでも練習やリサイタルが出来るようにした。練習の模様はサキーナ彩子が『グル・ケルチャラン・モハパトラ』に書き添えている。高見麻子『インド回想記』にも描かれる。
コロナ禍で2年間動きが止まって、何もかも夢の中の出来事のようである。インドでも終息の兆しは見え抗体保有率90パーセントで集団免疫が出来ているのではないかといわれるが、実数としては非常に多い。また、経済活動が盛んになると二酸化炭素を排出する。世界で大気汚染のひどい都市30の内、22がインドだという。水の汚染も深刻だ。
「つながる・インディア!」もインターネット上は賑わっているようだが、現実の動きは少ない。かつては「インド通信」などあちらこちらでミニコミ誌を発行していたが、それもインターネットに移行している。読み物のみならず、音楽も舞踊フェスティバルもオンラインで催されている。大学の授業でもなんでもいわゆるハイブリッド、実際のイベントとインターネット上と同時に行われるのが主流となるかもしれない。インターネット・ナマステといってもピンとこないが。カレーが食べられないじゃないかと。
参考文献
イリアナ・チタリスティ著田中晴子訳『グル・ケルチャラン・モハパトラ』Daysブックス、2021年。
島岩『インド/心と文化のオクターブ』明石書店、1994年。
高見麻子著田中晴子編『インド回想記』七月堂、2019年。
宮坂宥洪『インド留学僧の記』人文書院、1984年。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論
更新日:2021.12.16