河野亮仙の天竺舞技宇儀㊽

ビート・ジェネレーションとZen

アレン・ギンズバーグは1955年、サンフランシスコのシックス・ギャラリーで詩の朗読会を行い、“HOWL/吠える”を読んだ。ビートの父といわれる詩人ケネス・レクスロスの周りにいた若者が集まり、彼が司会をした。その中にはゲイリー・スナイダーもいた。

それに先立つ1953年、ジャック・ケルアックはビートという言葉を使い出した。心臓の拍動、ジャズのビートであるが、むしろ、打ちのめされたという意味で使われた。LSDを決めてヘロヘロになり、beatitude至福の境地に至るとも解釈される。文学史上では、ロスト・ジェネレーションに次いで、彼らはビート・ジェネレーションと呼ばれた。
https://www.youtube.com/watch?v=UyktuCjOisc

時に1957年、ソ連は世界初の人工衛星スプートニク1号を打ちあげた。宇宙開発、すなわち軍事競争で遅れを取ったアメリカは脅威を感じた。ボヘミアン的に汚い格好で放浪し、反社会的、性の解放を唱え、ドラッグ常用者で不道徳な若者はビートニクと呼ばれ敬遠された。

名門アイビーリーグの三つボタンのダークスーツにレジメンタルのネクタイ、白いシャツにカフスで七三分けというスクエアな人々に対しては、ヒップ、ヒップスターともいわれた。スティーヴ・ジョブズの黒いタートルネックとジーンズもその流れである。

ビートルズはメンバーが固まる前、Silver Beetlesを名乗っていた。これはアメリカで人気のあったバディ・ホリーとクリケッツ(コオロギ)に倣った名である。今や高価で取引されるカブトムシもイギリスではゴキブリのように嫌われた。黒人ではないのでビートがないと自嘲気味にBeatがlessの意味も含めてBeatlesを名乗ったといわれる。ジョン・レノンやボブ・ディランはビート詩人の影響を受けていた。1969年、ジョンとヨーコがモントリオールでベッドインを行った時にはギンズバーグとティモシー・リアリーもやって来て、Give peace a chanceと歌っていた。

ビート詩人

ウィリアム・バロウズはウィリアム・テルばりに銃を妻に向け、誤って殺してしまうという経歴を持つ。男娼の家で『ジャンキー』を書き、それは1952年に発行された。彼がロンドンに住んでいた1960年代、鈴木大拙の影響を受けた作曲家ジョン・ケイジの前衛芸術運動「フルクサス」に作曲家一柳慧、その妻だったオノ・ヨーコ、タジマハール旅行団のバイオリニスト小杉武久らが関係し、バロウズもそこに連なっていた。

ビートルズ『サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の表紙にも登場する。通称『ホワイトアルバム』に歌われるバンガロービルとは簡素な小屋に住んだバロウズのあだ名である。ジョン・レノンがマハリシのアーシュラムにいた時、マハリシの弟子が息子と象に乗って虎狩りで虎を撃った事をなじる歌とも解釈されているが、バロウズは何で妻を撃ったのかと問いかけていたのだろう。この曲にはオノ・ヨーコも参加し、つながりを感じさせる。また、ポール・マッカートニーは1966年頃、バロウズの詩に音楽を付けようと試みていた。

1956年、ギンズバークの詩集『吠える』が出版され一躍有名になる。
https://www.youtube.com/watch?v=Yr5Y4XQO7xQ
https://www.youtube.com/watch?v=x-P2fILsLH8
https://www.youtube.com/watch?v=WkNp56UZax4

ポールがギターでギンズバーグの伴奏をしている映像を発見して驚いた。彼らがいかに、ギンズバーグやバロウズを尊敬しているか分かるというものだ。

1961年『カディッシュ』完成後、ギンズバーグはインドに向かい、1962~1963年のインド旅行記も書いている。ベンガルまでバウルを聴きに行った。ダライ・ラマにも面会に行き、シヴァナンダ・アーシュラムに赴いてはハレー・クリシュナのマントラを授かる。ヒンドゥ教徒よろしくガンジス川で沐浴し、バナーラスのガートの路地裏の汚い部屋に住んで、川岸では死体焼却に付き合う。

インドの帰りに来日してゲイリー・スナイダーに会い、大徳寺ではスナイダーの師、後藤瑞厳の警策を受ける。高野山にも行って瞑想する。

ここで1つ訂正を入れさせていただく。第46回ビートルズの発見したインド~その2では、オラクル紙主催のヒューマン・ビーインを1967年1月19日としたが14日の方が正しい。ギンズバーグ、スナイダー、ティモシー・リアリー、ビート禅のアラン・ワッツが顔を揃えた。そこで座禅をしていたのが鈴木大拙とネタにした本に書いてあったが、鈴木違いの俊隆の方が参加したようだ。

1957年にジャック・ケルアックの小説『路上』が出版される。1958年、ケルアックはゲイリー・スナイダーをモデルに“The Dharma Bums”を発表。これは『ザ・ダルマ・バムズ』、あるいは『禅ヒッピー』として訳されている。バムとは風?(ふうてん)、酔いどれの放浪者を意味する。格好良く訳せば遊行上人、落とせば乞食坊主だ。

寒山拾得の世界

ゲイリー・スナイダーは、インディアンの民話を採集し、ヒーリングを学び、バークレー校に進学して中国語や日本語を学んで寒山詩を訳した。唐の時代、天台宗国清寺の豊干禅師が拾った子は拾得物ということで拾得の名が付けられ、厨房で働いた。寒山はその名の通り寒山の洞窟に住んでいたという。共にボロをまとい、僧院の残飯をあさったという話が伝わる。

中国の天台山は天台宗の祖山であるが、昔から仏教僧のみならず道教の道士も瞑想し、気を練って修行していた。天台大師の『摩訶止観』は、気功の根本経典でもある。

寒山拾得の姿は禅画のテーマとなり、自然に親しむ脱俗の寒山詩は好まれた。スナイダーはこの境地を理想としたのだろう。本人はビートと呼ばれたくなかった。クレイジーでワイルドでありながら学究肌、カリフォルニア大学教授となっている。

寒山詩には、
登陟寒山道 寒山路不窮 谿長石磊磊 澗濶草濛濛
とあるように寒山を窮まりなく登り、石がごろごろ転がり草がぼうぼうと生い茂るところに行って、
誰能超世累 共坐白雲中
誰か世の係累を捨てて、共に白雲中に坐すものはいないのかと歌う。また、
茅棟野人居 門前車馬疎 林幽偏聚鳥 谿濶本藏魚
と人の訪れることのない幽谷に住み、ただ寝台に書物が積まれている様などが描かれる。
https://www.bodaijyu.co.jp/houchouyogo_06.pdf

来日前の1955年頃、スナイダーはミル・ヴァレー山腹の小さな掘っ立て小屋に住み、それは険しい山のどん詰まりにあった。小屋は3メートル四方ほどの庭師の道具小屋で土の上にござが敷かれて家具はなく、果物箱に本を詰めた。キャンプ道具を持ち込んで料理をした。お金が必要な時は船員や森林監視人、木こりをした。それ以外は山に登ったり、小屋で本を読んだり詩を作った。その頃から座禅の習慣はあった。

1956年、タンカーに乗って働きながら来日した。1957年10月まで相国寺で修行する。郊外の水道ガスもない小さな家に住んで、少しばかり野菜を作り、石油コンロでご飯を炊いたという。自給自足の生活を理想とした。1959年再来日して6年間大徳寺で修行しつつ、寒山詩や宮沢賢治の詩の翻訳をする。1962、1963年頃にはインドへ向かい、ギンズバーグ、ピーター・オロフスキーに合流して仏跡巡りをした。

後には鹿児島県のトカラ列島、諏訪之瀬島に移住し、野山を切り開いてコミューンを作る。環境保護運動の草分けであり、元祖SDGsだ。詩集『亀の島』で1975年にピューリッツァー賞、2004年に正岡子規国際俳句賞を受けている。また、諏訪優は彼の詩を俳句、芭蕉に通じると評している。

ナーローパ大学

ジャック・ケルアックは『ザ・ダルマ・バムズ』でスナイダーとの会話や旅を描いたが、涙を浮かべながら三帰依文をパーリ語で唱えるという人だった。また、金剛般若経、楞伽経、首楞厳経などを読んで研究していた。R. H. ブライス訳の俳句集も、当時、よく読まれ、禅の境地を描いた十牛図もよく知られていた。

ギンズバーグはケルアックに金剛般若経を教えられた。ギンズバーグはヒンドゥ教のマントラも唱え、日本語読みで般若心経も唱えたが、1970年にチベット僧チョギャム・トゥルンパ・リンポチェに偶然出会い、1972年には彼を師として三帰依文を唱え、チベット仏教に帰依した。

1950年代半ばから『チベットの死者の書』を手放さなかったようだが、LSD体験との近さやカラフルな曼荼羅世界に惹かれた。トゥルンパはカルマ・カギュ派の伝統的な僧院教育を受けたが、インドに亡命した後に奨学金を得て、1963年、オックスフォード大学に留学。当時としては珍しい英語で説法できるチベット僧だった。また、そこで酒、女、車と遊びを覚えた。

交通事故で左半身麻痺となったことをきっかけに考えを変え、俗塵にまみれて暮らす決意をする。還俗して英国婦人と結婚する。マリファナもLSDもやり、セックス・スキャンダルもパワハラもありという風狂の人で、クレイジー・ウィズタムを唱えた。まさにビートのようであり、またチベット的でもある。彼の本もヒッピーのバイブルだったが、真面目な日本人にはあまり受けなかったようだ。

1974年、トゥルンパはギンズバーグに風来坊を止めて詩を教えてみないかと誘った。ナーローパ・インスティチュートという仏教学院の設立を考えていたからだ。高橋尚子の高地トレーニングで有名になったコロラド州ボルダーにある。高地は瞑想に適している。1998年には大学として認可される。全米初、おそらく唯一の仏教系大学だ。ギンズバーグは彼に協力して芸術家を集めた。

彼のアドバイスで髭を剃り、背広を着てネクタイをするようになったが、ほとんど、カウンター・カルチャー、サブ・カルチャー「全部入り」の男である。1980年代になるとネイキッドの好きだった(すぐ素っ裸になる癖があった)ギンズバーグもニューヨークのブルックリン・カレッジの教授となった。

ギンズバーグはナーローパにケルアックの名を冠した詩学部を作り、ジョン・ケイジは音楽を教え、グレゴリー・ベイトソンは心理学部を作り、書道とか華道、茶道、太極拳や武術、さらに弓道やガムランの講座も出来ていたようだ。まるでカルチャー・センター「仏教芸術総合学院」が大学になったような感じだ。芸術に理解のあるトゥルンパはイギリスで草月流の生け花を習ったので自ら教えていたか。弓道は弘文の師が渡米して教えていた。

勿論、ヨーガや座禅も行われ、鈴木俊隆や乙川弘文も親密に関わった。ギンズバーグは資金難のナーローパ・インスティチュートを支援するため、多くの禅センターで詩のリーディングを行っていた。

ギンズバーグは48歳にしてトゥルンパというグルに巡り会えたが、スティーヴ・ジョブズが師としたのは前回記したように乙川弘文である。今度はもう少し詳しく紹介しよう。

行雲

乙川は新潟県加茂市の由緒ある大きな禅寺の生まれ。宗門の駒澤大学卒業後、京都大学大学院修士課程に進み、長尾雅人の指導を受ける。研究室の先輩には真面目で知られる荒牧典俊がいた。研究者の道を歩むかと思いきや、書を捨てて僧堂に入った。釈尊の道を追い求めたかったのだ。永平寺では後の78世貫首、106歳の天寿を全うした宮崎奕保(えきほ)に可愛がられた逸材である。鈴木俊隆に請われ、改めて1970年「俳句禅堂」に赴任する。

俊隆は著書もあり、曹洞宗でも評価され業績も分かっていたのだが、風来坊の乙川弘文については記録がない。彼が経営する寺院や禅センターについて宗派に届けていなかったからだ。アメリカにおける曹洞宗の年次総会にはいつも顔を出していたが、僧侶と共に参加するその奥様方に評判は悪かった。外人女と結婚して。今度は、あんな若い娘を連れてきて、しかもできちゃった婚なんてと。その間の事情を様々な人にインタビューして調べ柳田由紀子が『宿無し弘文』という本にまとめた。

弘文は精神的には賢者のようでいて、また、少年のように純真でもある。京都時代に弓道を習ったが、ほわんとして素直な弓だったという。彼の師である京の御弓師尾州竹林派の第20代柴田勘十郎は渡米してナーローパで弓を教え、アメリカで弓道の普及に努めた。弘文は書も達者だが、作為のない清々しい素直な線を書き、その性格を表している。

一方、お酒にだらしなく、金銭感覚がない、約束の時間を守らないという評が付きまとう。彼は、結婚は修行であるといって、端から見るといつも手強い相手と結ばれた。

何事もふわっと受け止めるので、昼も夜も押しかけてまとわりつき、止めどもなく悩み事やLSD体験などを話すヒッピーに心を開いた。スティーヴ・ジョブズもその1人で、何か彼の持つ予知能力を当てにしていたようだ。結婚相手も同棲相手もトラウマを抱えていて、弘文にすがりついてきたのだろう。

若者を理解するためにドラッグもやったが、それも非難の対象となっている。日本流を押しつけなかったので、伝統的な指導者は彼のやり方を否定する。

鈴木大拙は臨済禅で、座禅を指導するというより、悟りの心理学説明をし、公案を与えた。公案はマインド・ゲームとも訳されるが、「片手の音を聞け」とか「犬に仏性があるか」というような命題を考えさせて悟りに導く。大拙と親しいアラン・ワッツも啓蒙だけで座禅はしなかった。わたしは、「コロナ・ウイルスに仏性有りや」と聞きたいところだ。

一方の曹洞禅は只管打坐といってひたすら座る。もともと桑港寺などは、在米日系人の要望に応じて葬式法事を行うために開いたものだが、座禅を指導するようになるとアメリカ人も集まって禅センターが出来るようになる。

格闘技の道場などは竹刀を振り回して指導するが、座禅の指導者は警策を振るう。座禅中、平べったい棒で肩や背中を叩いて緊張をほぐす。こらっ、居眠りするなと罰を与えているわけではなくて、うまい人から受けると気持ちの良いものだ。

しかし、弘文はこれを用いなかった。やさしく肩に触れて姿勢を正した。座禅中も自由に立ち上がって休む、あるいは歩行禅に移る事を許した。日本では線香一本、約40分と時間を決めて、その間は動いてはいけない約束である。

それだけではなく、彼の弟子達がチベット仏教やアメリカン・ネイティブの儀式などを取り入れている事を長老は危惧している。これも何十年かすればアメリカ禅、アメリカ仏教として評価が定まるのかもしれない。

ナーローパ大学には看板の心理学部の他に、宗教学部、文学部、人類学部、環境学部、芸術学部がある。弘文は晩年、特別待遇「ワールド・ウィズダム・チェア」という名誉教授的なポストに着き、宗教学部で禅を講義し、芸術学部では書を教えた。ある意味、収入がないので、救いの手を差し伸べたのだ。

一時期はジョブズの豪邸に居候してアドバイザーとなっていたが、当時は、トゥルンパの開いたシャンバラ・マウンテン・センターの一角にあるトレーラー・ハウスに住み、40キロの道のりを四輪駆動車に乗って大学に通ったという。それについても全くこだわりがない。

トゥルンパと俊隆や弘文は仲良かったので、チベット仏教の瞑想ではなく曹洞禅を取り入れた指導をしたようだ。。このようなハイブリッド仏教がアメリカ仏教の確立となって、やがてはその波が日本にやってくるのかもしれない。

破天荒なトゥルンパはアルコール依存症で身体を壊し、1987年に48歳で亡くなっているが大きな足跡を残した。弘文は接心の間は酒を飲まなかったので、アル中ではなかったようだ。2人は似ているようだが、トゥルンパには組織力とその経営能力があり、欧米社会に仏教を根付かせようと努力した。

流水

2002年7月26日、弘文は弟子の持つ別荘に再婚した妻と3人の子供と滞在していた。5歳の摩耶が池に落ちた。姉が母の元に行って助けを求めたが、母は水が冷たくて断念。続いて父を呼び出し、弘文が飛び込んだが娘と共に溺れ死んでしまった。

それは大人が溺れるような池ではないので、おそらく酒を飲んで居眠りしているところを起こされて、冷たい水に飛び込み心臓麻痺を起こしたのが死因ではないかといわれている。時に64歳、無理の出来ない歳だ。

あまりにあっけない死に、弘文らしいという声も聞こえた。知るべくもないが、元来風来坊の彼に「家庭生活」が限界となっていたのかもしれない。そういう時に不慮の事故は起きるものだ。彼の名はコミックの“THE ZEN of STEVE JOBS”によって、世界中に知られるようになった。

禅寺の修行者を雲水さんと呼ぶ。行雲流水、雲が漂って行き、水が流れてやまないように、一所にとどまらない自由な人のことだ。

宗派に属さないフリーランスの僧侶、群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌い、禅僧の資格と、叩き上げのスキルだけが弘文の武器だった。坊主Xは最後に失敗してしまったようだが、失敗も成功もない流れる水の如くの人生だった。

参考文献

越智道雄『アメリカ「60年代」への旅』朝日新聞社、1988年。
ケイレブ・メルビー原作、ジェス3作画、柳田由紀子訳『ゼン・オブ・スティーヴ・ジョブズ』集英社インターナショナル、2012年。
諏訪優『ビート・ジェネレーション』紀伊國屋書店、1980年。
チョギャム・トゥルンパ著武内紹人訳『チベットに生まれて/或る活仏の苦難の半生』人文書院、1989年。
ビル・モーガン著今井栄一訳『アレン・ギンズバーグと旅するサンフランシスコ』ブルース・インターアクションズ、2010年。
柳田由紀子『宿無し弘文』集英社、2020年。
和久井光司編『ビート・トゥ・ポップ』音楽之友社、1997年。
現代詩手帖1月臨時増刊「ビート・ジェネレーション」第31巻第2号、思潮社、1988年。
現代詩手帖特集版「アレン・ギンズバーグ」思潮社、1997年。
Allen Ginsberg “Indian Journals” Penguin Books, 1990.
J. ケルーアック著小原広忠訳『禅ヒッピー』太陽社、1973年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2021.11.18