河野亮仙の天竺舞技宇儀㊼

スティーヴ・ジョブズの見たインドと禅マインド

スティーヴ・ジョブズ没後10年。2011年10月5日に56歳で亡くなった。アップルはテクノロジーがリベラルアーツ、あるいは人間性とひとつになることで、心が歌い出すような成果を生み出す事ができると言った。

スティーヴン・ポール・ジョブズの名は養父ポール・ジョブズによる。実父はアブドゥルファター・ジョン・ジャンダーリ、イスラーム教徒のシリア人である。資産家の家に育ちウィスコンシン大学政治学科に留学してティーチン・アシスタントをしている時、ジョアン・シーブルと巡り逢った。

ジョアンの親は結婚を許さず、身ごもった子は養子に出された。養父は機械工で、自動車の修理をしていたので、機械やエレクトロニクスには幼い頃からなじんでいた。シリコンバレー北部に住み、IT系企業やその関係者も回りに多くいた。

二人のスティーヴ

ホームステッド・ハイスクールに進むと、高校の先輩で共にアップルを立ち上げる事になるスティーヴ・ウォズニアックと知り合う。コンピューターのことばかりでなく、ボブ・ディランを教えられた。一緒に海賊盤のテープを収集し、歌詞の書かれた冊子を求めた。集めたテープは100時間を越え、1965~1966年のコンサートの録音はすべて集めたという。
https://www.amazon.co.jp/1966-LIVE-RECORDIN-BOB-DYLAN/

電気少年の二人はオーディオにも興味を持ち、ティアック製オープンリール、昔流行った2トラック38のテープデッキを持っていた。日本で20万円位した。ジョブズは高級なヘッドフォンで何時間も聴き続けた。また、詩を書きギターを弾いた。ぼくディランというわけだ。
http://katanadachi.g1.xrea.com/antique/recorder-open.html

見るからにオタクというウォズニアックも変わった奴、というより大天才だが、アップルの株式公開によって得た莫大な資金を背景に、1980年、USフェスティバルを開催した。ユーエスではなくて、我々のアス、日本ではアース・フェスティバルと呼ばれている。

1982年9月3~5日には、サンタナやポリス、トーキング・ヘッズ、キンクス、フリートウッドマック等、1983年5月28~30日、6月4日にはストレイ・キャッツ、スコーピオンズ、ヴァン・ヘイレン、プリテンダーズ、デヴィッド・ボウイ、ウィリー・ネルソン等を集めた。この時には67万人の集客。ウッドストック・フェスを上回る規模だったが、とてつもない大赤字である。やるなあ。
http://www.tapthepop.net/extra/10582

ジョブズは自由な校風のリード・カレッジに17歳で進学する。学費が高いのに無理を言って、いやいつも無理を言う極端な性格だ、入れてもらった。ビート詩人のゲイリー・シュナイダーもここの出身であった。彼はカリフォルニア大学バークレー校に進学し東アジアの言語を専攻した

ジョブズ入学の5年前にはティモシー・リアリーがやって来て、学食にどかっと座り、「神性とは自らの内に見いだすものである。ターン・オン、チューン・イン、ドロップ・アウト」と唱えた。

LSDによってスイッチを入れて心の扉を開き、身の声を聞いて神性に目覚め、意識を解放し、身についたしがらみ、縛りを振り落とせ、社会から離脱せよと教えた。時代の風潮か、ドラッグを使い、サブ・カルチャーに興味を持つヒッピー風の学生の多い校風のためか、3分の1の学生が中退した。

この頃、ババ・ラム・ダスの『ビー・ヒア・ナウ』から強く影響を受けた。彼は本名リチャード・アルパート、ラーマのしもべ(ダーサ)を名乗ってインドの行者然としている。ティモシー・リアリーと共にハーバード大学を1962年に解雇された。

ジョブズは図書館で鈴木大拙の本、鈴木俊隆やパラマハンサ・ヨーガーナンダ、チベット仏教の本、易経などを読んだ。もう一つ影響を与えたのはスチュワート・ブランドの『ホール・アース・カタログ』である。ジョブズのスタンフォード大学での講演で言った「ステイ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ」は、その1971年最終号に書かれた言葉である。

確かに彼はお腹をすかしていた。リード・カレッジから遠く離れたクリシュナ寺院を毎週日曜日には訪ね、振る舞われた菜食料理を腹一杯食べた。クリシュナ寺院ではバガヴァッド・ギーターを唱え、宗教歌キールタンを歌い、ハレークリシュナと唱えて踊っていた。

オーガニックなシリアル、また、ナツメヤシやアーモンドを買って、ニンジンやリンゴとジュースにしたようだ。今でいうスムージーである。

友人のロバート・フリードランドがリンゴ農園の管理を任されていて、そこをコミューンにした。ジョブズの友人など、東洋思想に傾倒して悟りを求める若者が週末に泊まった。リンゴの木を剪定して有機ジュースを作って販売した。そこにはクリシュナ寺院からも出家や弟子が手伝いに来て、クミンやコリアンダーなどのスパイスを使った菜食を作ってくれた。

アップルという会社名はビートルズのアップルに倣ったという面もあるが、この農園での経験に基づくと言われている。しかし、実父がジョンで養父がポールなら、まるでビートルズではないか。フリードランドは1973年にインドに行き、ラム・ダスの師である聖者ニーム・カロリ・ババに会った。

ジョブズは大学の校風は気に入っていたものの、好きではない授業、ギリシアの古典などが必修となっているのでドロップアウトした。大学を止めたはずなのに学生部長に気に入られ、出たい授業を聴講していた。カリグラフィーの授業が好きで、古い書体を学んだ。フォントを変えられるIBMの電動タイプライターも持っていた。それはDTP、ワードプロセッサーの走りで、後のアップル・コンピューターには最初から綺麗なフォントが搭載された。

1974年2月、大学を止めたジョブズはロスアルトスの実家に戻り、インドに向かう。自分探しの旅。親の顔を知らないだけになおさらである。フリードランドに勧められてニーム・カロリ・ババに会いに行ったのだ。

4月、ニューデリー空港に降りると、タクシーの運ちゃんに捕まって、無理矢理、彼の言ういいホテルに連れ込まれる。たちまち、下痢、いや赤痢にかかるというお決まりのコースをやってしまった。

聖地ハリドワールに赴くと、幸い1912年に一度のクンブ・メーラーに当たり、あっちにも聖人、こっちにもグル、得体の知れない無数の行者と出会う事になる。

世界創造神話によると、天界で神々とアスラが不死の薬アムリタ(甘露)の入ったクンブ(壺)を求めて争った。壺から4滴アムリタがこぼれ落ちて、その場所がハリドワール、アラーハーバード、ナースィク、ウッジェイン。それぞれの所で12年に一度、壺の大祭クンブ・メーラーが行われる。

しかし、会うべき聖人ニーム・カロリ・ババは、1973年9月11日に入滅していたのだった。おそらくは有名なグルを訪ね、あちこちの僧院やアーシュラムに出入りしていたのだろうが、インドに師は求められなかった。

もともとのシリア人の血によるものか、インドの田舎での数ヶ月の生活は肌に合っていた。帰国時に両親がオークランド空港まで車で迎えに来た時、彼は頭を剃って日焼けで真っ黒、インドの行者風の出で立ちだったので、義理の親には分からず何度も前を通り過ぎたという。英語ではローブとされるのでインドのサムニアーシン、行者のサフラン色の布をまとっていたのかどうかは定かでない。

インドにはまっていたので、むしろ、帰国してからのカルチャー・ショックの方が大きかったという。ジョブズが学んできた西洋的思考より、インド人の直感の方がパワフルだと感じた。論理ではなく直感的に操作できるアップルを開発したのもそのためだろう。

じっと座って観察すると自分の心に落ち着きがないのを感じる。じっくりと落ち着かせると捉えにくいものの声が聞こえる。この時、直感が花開いて物事がクリアに見え、現状が把握できる。今まで見えなかったものが見えてくる。そのために修行しようと思った。

後述の鈴木俊隆は、毎週水曜日、サンフランシスコ禅センターに来ていたが、乙川(千野)弘文に頼んで常設とした。ジョブズは友人らと共にここに通う。

二人のスズキ

Zenを世界に広めたのは英語の達者な鈴木大拙で、1950年代から著作や講演で活躍し、禅と日本文化を啓蒙した。私が中学高校の頃にも禅ブームがやって来て、彼の著書はよく読まれていた。1952年から1957年までニューヨークのコロンビア大学で客員教授を勤め、華厳哲学を講じた。生徒の中には作曲家ジョン・ケージがいた。4分33秒ピアノの前に座る無音の曲が有名。禅に影響を受けたと言われている。
https://shoichi-yabuta.jp/beginners/contemporary/john-cage-433.html

大拙と交友のあったアラン・ワッツも禅や東洋思想について著作や講演活動で活躍し、ファッショナブル禅と呼ばれていた。1962年に『心理療法東と西』という本を著している。

大拙の師である釈宗演の弟子に佐々木指月がいて、ニューヨークでthe First Zen Institute of Americaを設立する。彼の指導した中にそのアラン・ワッツがいた。アラン・ワッツと結婚したのがルース・フラー・エヴェレットの娘エレノア。ルースは参禅の師である佐々木指月と結婚し、死別の後、京都に住んだ。師の意志を継いで大徳寺にアメリカ第一禅協会を置き、臨済録の英訳などの活動をしていた。

そこの協会の奨学金を得て来日したのが後のビート詩人ゲイリー・スナイダーで英訳を手伝った。彼はバークレーで中国語を学び寒山拾得の詩を翻訳していた。また、相国寺の三浦一舟について参禅した。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/1071_17107.html

長い間、大拙はお坊さんだと思っていたが、鈴木貞太郎の大拙は居士号である。今北洪川の下で臨済禅を学び、洪川亡き後に円覚寺を継承した釈宗演が万国宗教会議(1893年)で読む原稿の翻訳をした事が、アメリカ進出の契機である。

後に妻となるビアトリスとは1906年、ニューヨークのヴェーダーンタ協会で出会った。神智学徒であって、結婚して京都に住んでいた時には、その邸宅で京都ロッジを運営した。一時期、クリシュナムールティの東方星教団の支部として例会も行っていた。外国から東洋の神秘を求めてくる女性たちのネットワークの中心にいたようである。神智学徒らしく菜食主義、動物愛護、女性の地位向上を唱えたが、高野山で真言密教を研究した。

2人の間に子供は生まれなかったのでハーフの私生児を養子にしたが、やんちゃな子を育てるのには人並み以上に苦労し、不肖の息子としてほとんど隠していた。後に鈴木勝は翻訳家、作詞家として活躍し、笠置シヅ子「東京ブギウギ」の歌詞を書くことになる。作曲は服部良一で、戦後間もない1947年の事だ。

歌詞には「ブギを踊れば世界は一つ 同じリズムとメロディーよ」とあり、大拙が主張した如く、西と東が文化的に混じり合って理解し合うようにという願いが込められている。さらには、西洋人と日本人の間に生まれた自分も、実際には黒人ブルースの一形式だがブギという西洋音楽と日本の歌の橋渡しをした事になる。お父さん、一緒にブギを踊ってわたしを理解してくれと思ったか。
https://www.youtube.com/watch?v=9FCmuZXLt9g
https://www.youtube.com/watch?v=MQlZur41wJw

曹洞宗では1920年代から北米で布教を始めた。鈴木俊隆は、1959年渡米し、サンフランシスコ桑港寺住職となる。62年サンフランシスコ禅センター設立、1967年カリフォルニア州タサハラに禅心寺、禅マウンテン・センターを開く。彼の『禅マインド ビギナーズ・マインド』はその説法を弟子が書き留めたものの日本語訳。

ジョブズはインドを放浪した後、家のあるロスアルトスに戻る。そのロスアルトスのハイク禅堂に勤めて5年目の乙川(千野)弘文と巡り合う。1975年のこと、昭和でいうと50年、ジョブズ19歳、乙川弘文37歳。私は大学3回生、インド哲学史専攻に入ったばかりだった。
http://www.yukikoyanagida.com/article/398698982.html

ジョブズは弘文を師として禅堂に入り浸る。師の妻はスタンフォード大学で夜勤の看護婦をしていて、夜中に妻が帰ってくるとジョブズが追い出されるという暮らしだった。ジョブズの結婚式には師が導師、戒師を務めている。彼の説法は英語が達者でないため断片的で、まさに俳句のようといわれた。

しかし、山深いタサハラの禅堂に師が行く時には着いて行って、他の弟子と一緒に座禅をして般若心経を読み、作務に励んだようだ。出家して永平寺で修行しようとまでジョブズは思ったが、「事業の世界で仕事をしつつ、スピリチュアルな世界とつながりを保つ事は出来る」と師に押し止められた。
http://www.cuke.com/Cucumber%20Project/other/heart-sutra/heart-sutra-sr.htm

自分探しのモラトリアム期を過ぎれば、立ち上がる人物だという事が分かっていたのだろう。というと綺麗事だが、実際のところ彼は1時間以上座り続ける事ができなかった。また、そのエキセントリックな性格から集団生活は無理だと判断したのだろう。そういう乙川も型破りな禅者、割れ鍋に綴じ蓋で、相性が良かったのだ。

1976年4月1日、2人のスティーヴは調印してアップルが設立される。

サイケデリック

スイスのサンド社(現ノバルティス)が開発したLSD-25は、1960年代前半に世界中の大学、病院、研究機関にばらまかれた。アル中や精神病の治療、受刑者の更生、スパイを自白させるため、あるいは芸術的、創造的能力の開発に役立つのではないかと思われたからだ。

服用して通常意識からぶっ飛んだ体験をするのは簡単だが、それを役に立てるのは難しかった。ジミ・ヘンドリックスがLSDで体感した極彩色の世界を音で表したとしても、音楽的才能のない人間がジミ・ヘンドリックスになれるわけではない。

初期に研究したのがハーバード大学の心理学のチームで、ティモシー・リアリーとリチャード・アルパートを中心とする。当時、医学部の大学院生だったラルフ・メツナーもいた10人くらいのグループだ。ティモシーとメツナーは1965年にインドを旅している。

この三人でサイケデリックの指南書を1964年に出版し、それは日本語訳され『チベットの死者の書/サイケデリック・バージョン』として1994年に刊行された。

教会を借りきって1週間LSDを飲み続けるなどの実験を行った。しかし、リチャード・アルパートは、せっかく新しい世界に入っても、薬が切れると目覚める、元に戻るのが気にいらなかったという。

例えば、幻覚の中で極彩色の世界を体験して絵にしたとする。オレは天才だ。しかし、薬から覚めて魔法が解けると、それは全く平凡な色のつまらない絵にしか過ぎない。元の木阿弥だ。

そこで、薬がなくても効いている状態を求めて、インドのニーム・カロリ・ババの下に行って修行し、行者ラム・ダスとなる。「精神的な修行こそがLSDで体験する一種の至福状態を永続的にもたらす方法である」と主張した。

一方のティモシー・リアリーは、「そんな修行は自己を矮小化しているだけ、マゾ的に自分をいじめてもしょうがない」「知性の持つ想像力によって宇宙の果てまで行けるのだから、その想像力を徹底的に伸ばす事だ」「アシッドは宗教的顕現を保証してくれる進化のための手段だ」と主張した。この頃の大学の様子は映画『アルタード・ステイツ』や『いちご白書』に描かれる。

サンフランシスコにはケン・キージーがいた。映画『カッコーの巣の上で』の原作者である。彼を中心としたメリー・プランクスターズというパンク的なグループがあった。そのグループの中には『ホール・アース・カタログ』のスチュワート・ブランドもいた。

キージーはサイケデリックに彩色したバスに山ほど液体状のLSDを積んで走り回り、あちこちでばらまいた。サイケデリックとは意識の拡大を意味する。運転手はニール・キャサディで、服用して寝ずに走り続けた。何が出来るか遊んでみよう、それを映画にしようという事だったが、みんなラリっていたのでものにならなかった。

ビートルズの映画『マジカル・ミステリー・ツアー』はこれにヒントを得ている。ミステリー・ツアーは日本の旅行社もやっているが、行き先を知らせないバス旅行である。

キージーとプランクスターズは1966年1月にトリップス・フェスティバルを催した。聴衆自身もサイケな衣装を着て踊り、パントマイムやアングラ演劇を披露するものだ。そこではグレイトフルデッドも演奏していた。この催しはハイト・アシュベリーの住民、ヒッピーたちに火を点け、アシッドロックと呼ばれた多くのロックバンドが勃興した。ビル・グラハムが彼らを拾い上げてフィルモアで公演をして、ロックを商業化していった。

チベットの死者の書と老子の道徳経

ビートルズがテープでループを作ったり、逆回転などを駆使した前衛的な曲、1966年の「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」は、ティモシー・リアリー版『チベットの死者の書』に触発された。ジョージは電子音楽のレコードをプロデュースしたし、ポールはシュトックハウゼンなどの前衛音楽をよく聴いていたようだ。

ダライ・ラマならぬレノン・ラマが宇宙から説法している感じである。鼻にかかったジョン・レノンの声は、ロックというより、お経のよう。
“Turn off your mind, relax and float down stream, it is not dying it is not dying”

頭のスイッチを切って身体を緩め、流れに身を任せなさい。それは死んだというわけではありません。思考の働きを止めて、「空」に身を任せなさい。輝いてます。光に包まれています云々と続く。

これはリアリー版『チベットの死者の書』序文の「心のスイッチを切り、ゆったりとくつろぎ、下降する流れに身をまかせよ」(菅靖彦訳)などによっている。

この書は死の瞬間から再生するまでの49日と他の身体への再生が述べられている。エヴァンス・ヴェンツの英語訳は1970年代インドの多くの本屋に置いてあった。

川崎信定原典訳の解説には、米国留学の間「読む本というよりも礼拝の対象として崇められているのを見てきた」とある。

「よれよれの長い髪と、風呂に入らない身体からの匂いと着たきりのままの汚い衣服に辟易とさせられながらも、妙に優しい眼差しの彼らのなかに友人もできた」

彼らはLSDの体験を語り、時には絵に描いて説明する。自我の広がり、普遍的我と一体になった時の甘美で崇高な体験について語る。『チベットの死者の書』に書かれている事は真実だと。そんな彼らの中にはチベットの僧院に入り、言葉と教理を学び潅頂を受けて修行し、いつの間にか立派な学者になっている者もいる。

学者にこそならなかったが、スティーヴ・ジョブズもそんなヒッピーの1人だった。

ジョージ・ハリソンもやはりティモシーの影響を受けて「オール・シングス・マスト・パス」を書いた。ティモシーは「Psychedelic Prayers」という本を1966年に出版した。そこにある「All things pass A sunrise does not last all morning」「A coudburst does not last all day」などというフレーズにヒントを得てジョージは、「Sunrise doesn’t last all morning A cloudburst doesn’t last all day」と愛が去ってしまった事を歌っている。

ティモシーのこの本は老子の道徳経にヒントを得ている。諸行無常じゃあるまいし、老子は何と書いたのだろうと調べてみると、「万物」の語は10カ所ほどに出てくるが、それに相当する語句はない。その代わり23章の「つむじ風も朝中ずっと吹くわけではなく、暴雨も終日降り続けるわけではない」という文句がそれに相当する。この本もまたサイケデリック・セッションのためのガイドとして書かれたもので、セッションの間に起きた事をあるがままに受け止めよと述べている。老子の翻訳ではなくてポエムである。

このように、ジョンとジョージは一緒にインド・チベットの精神世界と接触しているが、ジョンは一歩引いている。ISCKONのバクティヴェーダーンタがロンドンのダウンタウンにあるビルを買い取ってクリシュナ寺院とするに当たって、ジョージは法的な問題をクリアするのを手伝い、資金援助もした。ジョンはその間、そのスタッフを自分の屋敷に預かった。1969年の秋冬に寺院は開設された。

エサレン研究所

ティモシーやラム・ダスの他に、早くからLSDの実験に取り組んだのはチェコスロバキアの精神分析医スタニスラフ・グロフだ。サンド社からLSDが送られてくると幻覚を見る患者の気持ちが分かるのではないかと自分で試してみた。そして治療薬として精神分析の枠組みで使ってみた。

1962年、カリフォルニアにサイコセラピーの実践の場としてエサレン研究所が設立されるとグロフが居住研究員としてやって来て、ホロトロピック・セラピーを開発する。エサレン研究所とラジネージのアーシュラムとはある時期まで協力し合ってニューエイジの実験場となっていたが、ラジネージ自身が神のように信仰され、その信奉者たちとうまくやっていけなくなった。

1960年代末に、あまりにも行き過ぎたLSDの使用が禁止されると、グロフは過換気による呼吸法と音楽とボディワークを組み合わせて同様の効果を得られる方法を開発した。伝統的な修行やシャーマニズムに近いといえば近い。ホロノミック・インテグレーション、あるいはホロトロピック・セラピーと呼ばれた。

エサレンはもともとアメリカ・インディアンの聖地で、エサレン研究所はゲシュタルト心理学の研究所だった。グロフはここでドンファン・シリーズのカルロス・カスタネダと出会っている。ドンファン・シリーズは1960年代に『チベットの死者』と共によく読まれていた。また、ラヴィ・シャンカルがやって来てジョージ・ハリソンにシタールを教えるの図を撮影したのもこの研究所である。

参考文献

安藤礼二『大拙』講談社、2018年。
ウォルター・アイザックソン著井口耕二訳『スティーヴ・ジョブズⅠ』講談社、2011年。
川崎信定訳『原典訳チベットの死者の書』筑摩書房、1989年。
鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』サンガ新書、2012年。
蜂屋邦夫訳注『老子』岩波文庫、2008年。
山田奨治『東京ブギウギと鈴木大拙』人文書院、2015年。
吉福伸逸『ホロトロピック・セラピー入門』平川出版社、1989年。
脇英世『スティーヴ・ジョブズ/青春の光と影』東京電機大学出版局、2014年。
Timothy Leary, “Psychedelic Prayers” Forgotten Books.com, 2017.
現代詩手帖1月臨時増刊「ビート・ジェネレーション」第31巻第2号、思潮社、1988年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2021.10.19