河野亮仙の天竺舞技宇儀㊻

ビートルズが発見したインド~その2

サマー・オブ・ラブ ’67

ビートルズ1967年のアルバム「サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の表紙にユングやハクスレー、ガンディー、マックス・ミュラーなど有名人60余名が並んでいるが、ボブ・ディランの左下にヨーガーナンダがいる。また、ここに収録された曲にはLSD体験が反映されたものが多い。この前のアルバム「リヴォルヴァー」の頃からハーバード大学の心理学者でLSDの実験を行っていたティモシー・リアリーに彼らは傾倒していった。

彼がカリフォルニア州知事選に出馬する時、「カム・トゥゲザー、ジョイン・ザ・パーティ」と呼びかけた。政党に加われともマリファナ・パーティに入れとも取れる。ジョンは彼に選挙を応援する曲を作ってくれと頼まれたようだが、そんな退屈な曲?を作る事は出来ず、代わりにパンチの効いた「カム・トゥゲザー」が1969年夏に生まれた。

1967年6月にモンタレー・ポップ・フェスティバルが行われ、サマー・オブ・ラブと呼ばれた。そこに至るまでの動きがある。前年秋、カリフォルニア州議会でLSDが違法であるという議論がなされていた。

それに反対するデモをやる代わりに野外コンサートをやろうということで、ハイト・アシュベリーを景気づけるためにバンドを呼び、パンハンドルのゴールデン・ゲイト・パークで最初の野外コンサートを行った。それには2,000人が集まった。

もっとスケールの大きいことをやろうとサンフランシスコのアンダーグラウンド新聞「オラクル」の発行者アラン・コーエン等が呼びかけた。1967年1月19日(14日説もあり)に同所で「ヒューマン・ビー・イン」が催された。人間性回復を唱える。

ビート詩人ゲイリー・スナイダーが開会式でホラ貝を吹く写真が『サイケデリック・シンドローム』に載っている。インドの小さなホラ貝ではなくて山伏の使うもののようだ。彼は1956年から、京都の相国寺や大徳寺で座禅の修行をしていた。

アレン・ギンズバーグもそこでオームを唱えて演説をした。ティモシー・リアリーも演奏者として参加し、何故か鈴木大拙が舞台の上でずっと座禅を続けていたという。参加したジェファーソン・エアプレインのポール・カントナーによると2万人集まったというが3万人説もある。瞬く間に広がりを見せた。

ビー・インというのは、黒人青年が白人専用席に座り続け、暴行されながらも無抵抗で抗議したシット・インに由来する。ガンディーの非暴力、不服従である。それは、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの「ラブ・アンド・ピース」を訴えるベッド・インに発展する。

続く1月29日には、やはりギンズバーグの助力により、サンフランシスコのアヴァロン・ボールルームでマントラロック・コンサートが行われ3,000人が集まった。バクティヴェーダーンタがキールタンを唱える間もサイケデリックなライトショーが行われ、みんなでハレー・クリシュナと唱えた。グレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレイン、ビッグ・ブラザーとホールディング・カンパニー、モビー・グレイプ等が出場した。大麻もくもくだった。

ポップ・フェスティバルの3ヶ月前には、モンタレー・ジャズ・フェスティバルが行われた。午後の部がブルースで、B. B. キングやT. ボーン・ウォーカー、クララ・ウォードというブルースやゴスペルの大御所に交じって、ビッグ・ブラザーたちが出演した。本物ではない白人のロック・バンドをなんで出すんだと古くからのブルース・ファンは怒った。しかし、彼らが抱える歌手が凄かった。ジャニス・ジョプリンである。

冷ややかな視線の中で始まるも、彼女が髪を振り乱し、足を踏みならして熱唱すると、立ち上がって踊り出す人が出てきて、一曲終わる頃には皆が踊り出した。ジャズ・フェスティバル10年の歴史で最も熱狂的に迎えられたという。

時代はジャズからロックの時代に移りつつあった。1969年3月2日から、毎日曜日夜、8週に渡ってフィルモア・イーストで、ニューポート・ジャズ・フェスティバルが予定された。ところが、3月16日、3週間で中止となった。最後の日の客は、たった400人。

4週目にはジャック・ブルース、ラリー・コリエル、ロイ・ヘインズという信じられないトリオが出演するはずだったが、惜しくも中止となった。現在、90を越えるベテラン・ジャズ・ドラマー、コルトレーンと共演したロイ・ヘインズは未だ健在と伝えられるが、エリック・クラプトンと共にクリームで活躍したベーシスト、ジャック・ブルースとジャズ・ロックの草分けであるギタリスト、ラリー・コリエルは、もはや亡き人だ。

ラーガ・ロック

ビートルズが試みてからインド熱、シタール熱は高まる。ジョージと仲の良いローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズもラヴィの弟子にシタールを習い、エド・サリバン・ショー出演時の映像「黒くぬれ」でシタールを手にしている。

トラフィックも「ペーパー・サン」でデイブ・メイソンがシタールを弾いた。シタールこそ使わないが、バーズも12弦ギターを用いて「霧の8マイル」ではインド的な雰囲気を出している。バーズはツアー・バスの中でコルトレーンをかけっぱなしだったという。

バタフィールド・ブルース・バンドのマイク・ブルームフィールドは「イースト・ウェスト」でのワン・コードによるラーガ風のアドリブをして、それらはラーガ・ロック、あるいはサイケデリック・ロックと呼ばれた。

マイクは「インド音楽の神髄を極めた。オレは啓示を得た」と豪語していた。ラーガというよりはモード奏法のアドリブのやり方が分かったということだろう。やる度に進化というかアドリブが長くなって時には1時間を超えた。トラフィックは1967年、他の三者とも1966年、時代は動いていた。

ラヴィ・シャンカルはクラシック音楽の殿堂カーネギー・ホールにも出れば、サイケデリックの巣窟フィルモア・オーディトリアムにも出た。そこでバタフィールド・ブルース・バンドやジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッドを聞いて時代の空気を吸っていたと思われる。マリファナを吸うのは嫌いで、ヒッピーを嫌っていた。モンタレー・ポップ・フェスティバルでも禁煙にしろと文句をたれていた。

しかし、フレーズそのものがインド音楽であっても、その執拗な繰り返しやタイミングなど、トリップ音楽の秘訣を手中にしていたように思う。モンタレー・ポップ・フェスティバルからさらにウッドストックでの演奏に至ると、催眠を誘導する音楽になっている。やんやの喝采を受けている。

「ワンダーウォール」

ジョージ・ハリソンは、1967年12月、ジョー・マッソー監督の映画「ワンダーウォール(不思議の壁)」のサウンドトラックを依頼され、ロンドンで制作を始める。1968年1月5日にはリンゴとエリック・クラプトンも参加した。

すぐにインドに飛び、ボンベイのEMIスタジオでの録音を9日から13日までかけて行った。スタジオとは名ばかりで、防音設備のないビル最上階の部屋、モノラルのテープレコーダーしかなかった。

参加した当時は若手だったかもしれないが、サロードのアーシシ・カーン、サントゥールのシヴクマール・シャルマ、タブラーのマハープルシャ・ミシュラ他、シタールやシャーナイを演奏する腕利きが10余人集められた。

ビートルズの「インナー・ライト」のベーシック・トラックもこの時に録音された。この曲は「レディ・マドンナ」のB面としてシングルカットされた。この電子音楽的なものとロックとインド音楽の混じり合った「不思議の盤」は、ビートルズの設立したアップルの第1弾となった。
https://www.youtube.com/watch?v=sa3948JzWCc

ジョージは一度戻って2月15日、ジョンと共にマハリシ・マヘーシ・ヨーギーのアーシュラムで修行するために旅立つ予定だった。ポールと・リンゴはその4日後に出て4月下旬まで滞在する予定。

それまでに急遽録音したのが「レディ・マドンナ」「アクロス・ザ・ユニヴァース」だった。この年の6月にジョージは渡米してラヴィ・シャンカルの伝記映画に出演する。それは3年後、カーネギーホール・シネマで「ラーガ」として上映された。2010年に再編集されてDVDとして発売され、今はデジタルでダウンロードして入手できる。
https://eastmeetswestmusic.com/discography/raga/

ユーディ・メニューインとは、ウダヤ・シャンカルの舞踊団がパリにいたときからの知り合いで、共演、共作を発表している。古典音楽ということで、ラヴィ・シャンカルはクラシック畑において先に評価されていた。このビデオには、1968年6月、カリフォルニアのエサレン研究所においてジョージがラヴィに指導を受けているところ、つまり、シタールを弾いているというレアな映像が収められている。

一緒に習ってる10年もやってるような弟子は皆うまい。とはいうものの、ラヴィが、ふと、何十人もいる中でものになるのが一人いれば、ともらすのを聞いて、ここは自分の住む世界ではないとジョージは思った。

その代わり、ジョージの1本の弦を上下して短音を弾くスライド奏法は、ブルース・ギターというより、シタールやサロードの演奏からヒントを得たものではないか。

ヒマラヤの麓で

1968年春、ビートルズはリシケーシで過ごす。リンゴ・スターはニンニク、タマネギ、スパイスが苦手で食事が合わず10日ほどで帰る。ポールも1ヶ月ほどで帰国し、ジョンとジョージが2ヶ月ばかり滞在する。ビートルズは伴侶の影響もあり、基本的にヴェジタリアンのようだ。

ビーチホーイズのマイク・ラブ、フォーク・シンガーのドノヴァンも一緒に静閑なヒマラヤの麓に赴いた。柵に囲まれた豪華な邸宅にマハリシは住んでいた。それがVIP用の宿舎だったのだろうか。

久米仙人や一角仙人ではないが、偉大なるリシ(聖仙)も女に弱いようだ。リシケーシの道場でマハリシは女優のミア・ファーロウに手を出した、アメリカから来た若い看護婦がセクハラを受けたなどという噂が絶えず総スカンを食う。

留学時代のインド哲学の教授はマハリシのオフィスから、彼の講演にある言葉をヴェーダやウパニシャッドなどの聖典から見つけてくれと依頼されたが断ったそうだ。

グルぐるぐる

ジョージ・ハリソンはISKCON、ハリ・クリシュナ意識国際協会の信者として多額の寄付をしたことが知られているが、バクティヴェーダーンタが1977年に亡くなってからは離れたようだ。ビート詩人アレン・ギンズバーグも彼の信奉者だった。

その頃、カルロス・サンタナはシュリー・チンモイに帰依していたが後にその下を去る。ウッドストック・フェスティバルに客として来ていたスワーミー・サッチッダーナンダは、壇上に上げられスピーチをした。

1969年8月15日午後5時の冒頭、他に出演者が到着していなかったので、ギターを抱えたリッチー・ヘブンスがギタリストとパーカッション奏者を従え45分に渡って孤軍奮闘した。ネタの用意がないまま「心の友」を歌っているが、ハミングやラララでしのいでいる。印象深い「フリーダム」は、続けて何かやってくれと請われて、「マザーレス・チャイルド」などを織り交ぜた即興だった。

何かしゃべらせてくれとアピールしていたスワーミー・ジーは5時50分から20分登壇した。彼は1966年、51歳の時に、当時最先端のイラストレーター、ピーター・マックスに招かれて渡米した。サッチッダーナンダはインテグラル・ヨーガを教えるようになる。そのピーター・マックスが彼と弟子たちを連れてきたのだった。

手元にあるウッドストック・フェスのブルーレイ・ディスクを見ると、如何にも行者顔で人の良さそうなスワーミー・ジーが「最近、ガンディーの孫が私の所に訪ねてきて、アメリカはどうなってるんだと聞いてきた」「アメリカは物質面で進んでいたが、これからは精神面でもリードしていくだろう」とアメリカ讃歌を唱えていた。平和を訴えて収まりがよかったようだ。

彼の弟子にはキャロル・キングもいた。ちゃっかり、ウッドストック・グルとして宣伝に使っている。
https://swamisatchidananda.org/

アリス・コルトレーンもこのサッチッダーナンダやサイババに教えを請うたという。ギンズバーグもサッチッダーナンダに師事していた。何人ものグルがアメリカ中をグルグルして、信者たちも追いかけてぐるぐる回っていたのだった。
https://www.youtube.com/watch?v=g8MpRSPneHs

1965年、当時69才のバクティヴェーダーンタがニューヨークに現れ、クリシュナ神に対するバクティ(献愛)を説いたのがISKCONの始まり。ボストン支部は1969年、古い葬儀場を買い取ってピンクと紫に塗って改装し、寺院とした。1970年にはロンドン、パリ、東京など世界30カ国に支部が出来た。サンフランシスコのハイト・アシュベリーにも支部が出来ていた。

インドの友人は、入会すると世界中どこに行っても5ドルほどで支部の寺院、古い家を買い取ったものに泊まってヴェジタリアンのインド食が与えられるということで会員になっていた。

バングラデシュ・コンサート

1970年の秋、ベンガル湾を巨大サイクロンが襲い、死者・行方不明者が50万人を超えた。東と西に分かれたパキスタンの内戦が始まり、東パキスタンからインドへ1,000万人以上が戦火を逃れて難民として流入する。

ラヴィ・シャンカルの父の家もパキスタン政府軍に家を焼かれてインド側に逃げ込んだ。師から聞いてジョージ・ハリソンは立ち上がり、1971年8月難民救済のためバングラデシュ・コンサートを開いた。ラヴィ・シャンカルは勿論のこと、アリ・アクバル・カーン、リンゴ・スター、エリック・クラプトン、ボブ・ディランらが参加する画期的なコンサートだった。「ウィ・アー・ザ・ワールド」などのライブエイドの先駆けである。
https://www.dailymotion.com/video/x1clwc7
https://www.dailymotion.com/video/x1cpi5t

さらに、ジョージとラヴィの結びつきは続き、インド音楽紹介のプログラムをプロデュースし、アルバムを出している。

アップル・レーベルからは1971年には讃歌を集めた「ラーダー・クリシュナ・テンプル」と前述の映画「ラーガ」のサウンドトラック、1973年にはラヴィの「イン・コンサート」。そして、ジョージ自身のレーベルであるダーク・ホースからは「シャンカル・ファミリー・アンド・フレンズ」、1976年には「ラヴィ・シャンカルズ・ミュージック・フェスティバル・フロム・インディア」、1997年にはマントラやヴェーダの讃歌を集めた「チャンツ・オブ・インディア」。

自己のレーベルとなるダーク・ホースのロゴは7頭の首を持つ馬で、太陽神スーリヤの7頭立ての馬車に由来する。

この3枚に未公開だった1976年の映像DVDを付けた2010年のボックス・セット「コラボレーションズ」を持っている。そこには10032のナンバーが振られた証明書が付いていた。小冊子の序文はミニマル・ミュージックのフィリップ・グラスが書いた。彼もラヴィの影響を受けて自己のスタイルを確立した。

その後も1987年に、ラヴィのアルバム「タナ・マナ」をプロデュースしている。
https://www.amazon.com/Ravi-Shankar-project-TanaMana/

義理堅いジョージは1992年にもマハリシ・マヘーシ・ヨーギーを助けている。この年に総選挙があり、超越瞑想の普及を唱えるナチュラル・ロウ・パーティー(自然法党)を支援するため、4月6日、ロイヤル・アルバート・ホールでソロ・コンサートを行った。クラプトンと共に行った日本ツアーの翌年である。

ビートルズと菜食

イギリスにおける菜食主義は古く、1847年、英国ヴェジタリアン協会が設立されている。動物愛護と結びついていたようだ。両者に加えて女性の地位向上を唱える運動は神智学協会のアニー・ベサントやルクミニー・デーヴィーにも及んでいる。

ジョージとパティが1966年秋にラヴィ・シャンカルの元へ行った時には菜食だったと思われる。その夏の日本公演の時にはホテルの部屋に加山雄三がやって来て、ビートルズとみんなでスキ焼きを食べたという話が有名だ。その時、ジョージが牛肉を食べたかどうかについては記録がない。

ジョージとパティは、食肉用牛の飼育に際して子牛がいかに虐げられているかという本を読んで菜食を決めたというが、ヒンドゥ教の影響が大きい。

ポールの妻であったリンダ・マッカートニーは『リンダ・マッカートニーの地球と私のヴェジタリアン料理』の著書がある。彼女がスコットランドの牧場で暮らしていた時に、ローストされたラムが食卓に乗っていた。

外を見ると飼って可愛がっていた子羊が楽しそうに戯れている。急に恐ろしくなってポールと共に肉を食べる事を止め、また、動物愛護者となった。1998年に乳がんで亡くなってしまった。

日本では、家にも本があったが、桜沢如一が玄米食を提唱していて、オノ・ヨーコも知っていたのだろう。マクロビオティックをジョンと共に実践した。リンゴの場合は、1981年にボンド・ガールだったバーバラ・バックと再婚。アルコール依存症だったが、断ち切って、1989年にヴェジタリアンというよりフルータリアンなのかもしれないが、ヴィーガン完全菜食主義に転向した。

最後に余計な事かもしれないが、ビートルズの4人とも再婚しているのが分かる。パティについては、パティ・ハリソンとは呼ばれずパティ・ボイドと呼ばれる事が多いが、エリック・クラプトンと再婚したからであろう。

コルトレーンも4人と同時に付き合っていた事が知られるが、ラヴィ・シャンカルも初めは師匠アラウッディン・カーンの娘アンナプールナーと結婚した。私が学生時代に公演を見た時は、タンプーラを弾いていたのがカマラーで、実質的に長い間パートナーだったのだろう。やはり、入籍していないがノラ・ジョーンズを生んだのが看護師を本職としたスー・ジョーンズである。

晩年連れ添ったのはシュンカヤーである。二人の間に生まれたアヌーシュカーは一流のシタール奏者として活躍している。西洋音楽というか、ポップスとインド音楽の結合も自然にやっている。そこが前の世代と違うところだ。バークレーで演奏された新世代によるラフマーンの音楽も素晴らしい。
https://www.youtube.com/watch?v=kEJSWIftX98
https://www.youtube.com/watch?v=hbcW7nxcP3E

ビートルズの四男坊、静かなビートルと呼ばれたジョージ。ジョンはヨーコと共に、反戦運動などの派手な言動で世界中から注目された。ポールはキャッチーなメロディを生み出すポップスター。リンゴはいつもマイペースで自分のリズムを刻む。それぞれの才能がはじけて、ビートルズの枠に収まらなくなり、1970年に分解。

ジョージはジョンとポールのリードボーカルに絶妙に絡む役割。ディミニッシュ・コードを使い、不安定でいながら前向き。陰の功労者はビートルズが解散するや後ろから飛び出して、1970年に3枚組アルバム「オール・シングス・マスト・パス」でトップに躍り出た。

インド音楽やシタールというより、ヒンドゥ教のヨーガ、瞑想、菜食主義といったものを、静かに世界中に知らしめたのはジョージ・ハリソンの功績なのかもしれない。この事実に誰も気がつかない。2001年11月24日、がんのため死亡。58歳。

かつて、インドのグルたちに帰依するような層は、より本格的にはチベット仏教の清廉潔白なダライ・ラマに向かい、一方ではソフトで宗教色のないマインドフルネスを実践するようになったのではないか。ヨーガはインド色を脱色した「何とかヨガ」が主流で、かつてのようにインド好きがヨーガやインド舞踊に取り組むのとは違って、ファッショナブルになった。

ジョン・レノンは1980年12月8日、ダコタ・ハウスの前で凶弾に倒れた。その報を私は留学中のバナーラスで聞いた。友達が、今、ラジオで聞いたとか言って、自転車で駆けつけて教えてくれた。ジョン・コルトレーンが亡くなったのと同じ40歳だった。

参考文献

アラン・クレイソン『ジョージ・ハリソン/美しき人生』プロデュース・センター出版局、1999年。
黒崎真『マーティン・ルーサー・キング』岩波新書、2018年。
ジェフリー・ジウリアーノ著豊岡真美訳「ジョージ・ハリソン・ストーリー/ダーク・ホース」CBS・ソニー出版、1991年。
ジョージ・ハリソン著山川真理訳『ジョージ・ハリソン自伝』河出書房新社、2002年。
テリー・バロウズ著山本安見訳『ザ・ビートルズ/奇跡の10年史』シンコー・ミュージック、1999年。
デレク・テイラー著水上はるこ訳『サイケデリック・シンドローム』シンコー・ミュージック、1988年。
マイケル・ラング、ホリー・ジョージ・ウォーレン著室矢憲治訳『ウッドストックへの道』小学館、2012年。
マーク・ルイソン著ビートルズ・シネ・クラブ監修・翻訳『ビートルズ全記録』1・2、プロデュース・センター出版局、1994年。
松生恒夫『ビートルズの食卓』グスコー出版、2020年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2021.09.21