河野亮仙の天竺舞技宇儀㊹

ジョン・コルトレーンとインド

1966年の夏のこと、ビートルズは6月30日午前3時40分、羽田空港に到着。台風のためアンカレッジで9時間足止めされたのだった。その30日から7月2日にかけて5回のコンサートが日本武道館で行われた。

殺人的スケジュールのビートルズは、3日午前10時40分に東京を離れ、香港経由でフィリピンに向かう。5日午後4時45分、逃げ出すようにマニラ空港を離陸し、バンコック経由でニューデリーに向かう。トランジットで2、3日デリーに滞在し、8日午前6時、ロンドン・ヒースロー空港にたどり着いている。

その話は次回に回すとして、この7月8日、ビートルズと入れ替わるように来日した巨人がジョン・コルトレーン。これまた、16日間18公演という殺人的スケジュールで寿命を縮めたといわれている。

中学1年生の私がコルトレーンを知っているわけがなく、翌年、7月17日の死亡記事が新聞に出て、初めて知ったかと思う。

コルトレーンとアフリカ

1926年9月23日に生まれる。彼岸の中日か。父ジョン・ロバート・コルトレーンは腕の良い仕立て職人、母アリスは大学出で、クラシックをピアノで弾き、オペラのアリアを歌った。オペラ歌手を夢見ていたようだ。父方も母方も祖父は牧師、母に連れられていつも教会に通っていた。

コルトレーンの修業時代は様々なバンドを渡り歩き、ハーレムのアポロシアターでビリー・ホリデイやサラ・ボーン、ブルース歌手の伴奏をした。ジャズよりリズム&ブルースのバンドの方が週給が高かったが、それも決して嫌いではなかったと思う。マイルス・デイヴィスのバンドに入る前を、ついつい修業時代と書いてしまうが、次々と新たな地平を切り開く彼は、一生が修業時代で留まることはなかった。

ジョン・コルトレーンは研究心の塊、そして練習魔だった。早くから様々な民族音楽に興味を持ち、ナイジェリア出身のパーカッション奏者オラトゥンジと親交を結び、アフリカのリズムを研究した。

彼はアメリカではよく知られた音楽家で、ジャズの新興レーベルであるImpulse! 第3弾カイ・ウィンディングのアルバムに参加し、1960年12月に録音している。また、コルトレーンが移籍して1961年11月に発表された「アフリカ/ブラス」には、A-6のレコードナンバーが振られているのでレーベル第6弾ということになる。

オラトゥンジはまた、サンタナがデビューアルバムに収めた「ジンゴー」の作曲者だ。サンタナは後にジョン・マクラフリンとコルトレーンの「至上の愛」を演奏したアルバム「魂の兄弟たち」を出している。サンタナのみならず、グレイトフル・デッドのジエリーガルシアやバーズのロジャー・マッギンもコルトレーンの大ファンで影響を受けた。コルトレーンはインパルスと5万ドルで専属契約を結び、「アフリカ/ブラス」をリリースする。

東洋思想

彼は、1950年代に親友のユセフ・ラティーヌやソニー・ロリンズから聞いて東洋思想にも興味を持ち、レコードでラヴィ・シャンカルを聴き、そのラーガに惹かれた。友人たちがイスラームに転向していくのでその思想にも興味を持つ。

マッコイ・タイナーも当時の妻ナイーマもイスラーム教徒である。ナイーマのおかげで麻薬と酒を絶った後は、ちょっとしたベジタリアンになったようだ。妻の名をとった曲「ナイーマ」はリズムも曲の構成もインドの影響を受けているという。人気のある曲「マイ・フェイバリット・シングス」でソプラノ・サックスを用いたのはシャーナイのような音が欲しかったからともいわれる。
https://www.youtube.com/watch?v=UlFNy9iWrpE
https://www.youtube.com/watch?v=dqRnZWrHhEI

聖書は勿論のこと、コーランを読み、クリシュナムールティ、「バガヴァッド・ギーター」も読んでいた。カバラの神秘思想、スーフィズムにも興味を持っていた。パラマハンサ・ヨーガーナンダやガンディーも読んだ。「ブラックイズビューティフル」とブラック・パワーが叫ばれた当時、キング牧師やマルコムXに共鳴していた。アラバマの教会でKKKによって教会が爆破され、黒人少女が殺害されたことを悼んで「アラバマ」という曲を捧げた。

民族音楽

民族音楽について彼はいう。
「純粋に異国的な要素を除くと、(中略)、すべてがペンタトニック・サウンド(五音音階。ピアノの黒鍵だけ弾くとペンタトニックになる)を有していることに気づく。互いに似通ったモーダル構造を持っていることにね」「私に興味を抱かせ、引き付けるものは、そうした音楽の持つ万国共通的な一面なんだよ。私はそこを目指しているんだ」

モーダル構造とはモード奏法のこと。複雑なコード進行を単純化して、より自由に即興演奏をすることを目指す。

伝記などを読むと、コルトレーンは「東インドの水ドラム」にヒントを得てダブルベースにしたという。いや、1台でも何故かダブルベースと呼ぶのだが、そうではなくてベーシスト二人という意味だ。

これはどうもタブラーのことではないか。メロディを奏でるドラムみたいないい方をしている。左手のバヤンでベースのリズムを刻み、右手のタブラーでピチャピチャと複雑なリズムを刻む。基本的なビートを刻むベースとその上を走り回るベースという手法を考えたのだ。「オレ!」から導入され、効果を上げている。
https://www.youtube.com/watch?v=wr5BotYA3U8

また、1961年7月のヴィレッジ・ヴァンガードにおけるライブの「インディア」という曲では、アーメッド・アブドゥル・マリックがウードで参加している。彼はマックス・ローチの「ウィー・インシスト」やセロニアス・モンクの「ミステリオーソ」という歴史的名盤でベースを弾いている。コルトレーンがモンクのバンドにいたときに2人は共演していた。コルトレーンのイメージではインドから中近東、アフリカまで音楽的につながっているようだ。

その頃のインタヴューで、近々、ラヴィ・シャンカルに会うことになっていると言ってるので、すぐに会っていれば1962年ということになる。
https://tsunagaru-india.com/knowledge/河野亮仙の天竺舞技宇儀⑧/
https://tsunagaru-india.com/knowledge/河野亮仙の天竺舞技宇儀㉙/

1965年10月録音、1998年にCDで再発された「OM」のライナーノーツで、コルトレーン研究家の藤岡靖洋は、ラヴィ・シャンカルとのインタヴューにより、1964年に2人は初めて出会ったと記すが、それまでにコンサートの後、楽屋で紹介され挨拶したということはありうると思う。

1965年に生まれた息子にラヴィと命名するほど心酔していた。コルトレーンがライブにラヴィ・シャンカルを招いた。「OM」を演奏したのではないかと思われるが、ピース、カームがないと酷評された。コルトレーンはひどく落胆したという。オームの後にシャーンティ、シャーンティと唱えるが、それは寂静、静謐を意味する。コルトレーンの怒濤の音波の後には、たいてい珠玉のバラードが続いて安らぎを与えるのだが、この頃はもう、ひたすら突っ走っていたのかもしれない。しかし、インド音楽しか知らない彼にフリージャズが理解できるはずもないのだが。

もし、ミュージシャンに「フリージャズとは何ですか」と聞いたら、「いや、私も知らない、回りがそう呼んでるだけだ」と答えることだろう。みんな自分の音楽をやっている。

1966年12月にはヴィレッジ・シアターに出演しているが、これは後のロックの殿堂フィルモア・イーストである。コルトレーンもLSDを服用していたらしく、アメリカではグレイトフル・デッドもラヴィ・シャンカルも難解なコルトレーンもトリップのための音楽とされた。音楽性は全く違うのに、同じようなもの?長時間だらだらするもの?として若者には受け止められていた。

コルトレーンはマイルス・デイヴィスのバンドにいた頃、若き怒れるテナーと評されていたようだが、私は彼のサックスに怒りを感じたことはない。シーツ・オブ・サウンドともいわれ、コードを分解してアルペジオのように音を敷き詰めるスタイルから、次第に咆哮するようになる。何か焦っていたのだろうか。高速で突っ走ることによって時空の壁を突き破りたいと彼は考えていたのではないか。

ジャズ喫茶

1967年に亡くなっているので、彼を聴くようになったのは高校に入った1969年から。

日暮里にあるジャズ喫茶シャルマンに放課後通った。私にとっての「部活」だった。いや、放課後というのは建前上で、午前の授業が終わると、漢文の授業などでは自分の机を廊下に出して友達に代返を頼み、「部活」に励む者も少なからずいた。絶対、教師にはばれていたはずだが。

当時、大きくマイルス派とコルトレーン派に別れた。マイルス派にもモード・ジャズまでしか認めず、エレクトリック・マイルスといわれ、ロックというかファンクのリズムを取り入れたマイルスを否定する大人も多かった。

コルトレーン・ファンにも「至上の愛」までしか認めない保守派と、「アセンション(神の園)」などでフリージャズ化したコルトレーンをも追尾する、アヴァンギャルドを支持する立場があった。

アセンションは昇天(特にキリストの)と訳されるが、スピリチュアル系では独特の意味を持つ。地球という生命体・意識体の次元上昇、個人の魂の進化を目指すものだ。当時のコルトレーンの言葉遣いにこうしたニュアンスがあったものか分からない。

音楽理論など全く知らない高校生にフリージャズが理解できる訳がなかったのだが、コルトレーンの圧倒的な高速サックスの音色と発するオーラにひれ伏していた。音の塊の背後にある何か畏れ多いものを感じる人と受け付けない人の差だろう。コルトレーンの演奏自体が祈りであり、精神集中のための真言陀羅尼のようなものだった。

当時、右手に少年マガジン、左手に朝日ジャーナルといわれ、いや、反対だったかな、全共闘が暴れまくり、学園紛争の波が高校にもさざ波のように届いていた。
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO36251720Z01C18A0000000

「あしたのジョー」と藤圭子が時代のアイコンだった。男は黙って前衛ジャズとばかり、ジャズ喫茶の机に突っ伏して、寝てるんだか起きているんだか分からないような状態でコルトレーンの咆哮を聴いていた。

聖人伝説

コルトレーンには聖人伝説があった。これは来日公演に際する記者会見に基づき、世界中に広まった。当然、僕らは信じ込んでいた。

来日公演の前日にコルトレーンは「わたしはセイントになりたい」といった。これは、第一義的にはラヴィ・シャンカルのようなグルになりたいという意味であろう。彼は、生真面目で実直、頑固。一方、優しく、若手奏者の面倒をよく見ていて「アセンション」の集団即興にも招き、また、レコード会社との契約を紹介した。

「ああ、わたしは聖人になりたいもんだよ」と発言したとき、隣には妻のアリスがいた。多分、目配せして冗談ぽく言ったのだろう。2人とも笑っていた。彼はアリスを含めて4人の女性と付き合っていて、それを精算したばかりだったのだ。ごめんね、これからは真面目にやりますからというニュアンスか。列車から駆け下りて駅の売店でお菓子を物色して食べるなど、決して聖人君子、禁欲的なサックス行者、世捨て人ではなくて金銭欲もあり、音楽的な達成欲も含め、意欲は旺盛だ。

「OM」の冒頭にコルトレーンは何かつぶやいている。荘厳さを演出するためか、くぐもった音でよく聞き取れないのだが、Lewis Porter “John Coltrane”にその文句が記されている。これは「バガヴァッド・ギーター」9.17に相当する。上村勝彦の訳によると、

「私はこの世界の父であり、母であり、配置者であり、祖父である。知らるべき対象である。浄化具である。聖音オームである。讃歌、歌詠、祭詞である」

ここでいう私とはクリシュナを通して顕現する神バガヴァッドのこと。バガヴァッドは仏典では世尊と訳される。

また、死後に発表された「コズミック・ミュージック」の中の「キング牧師」には、ラブ&ピースを祈るとともに、「オン・マニ・パドメー・フーン」というマントラが唱えられていたようだ。これもわざと音声が不明瞭になっていて、しかもパンクチュエーションが違うので私は聞き取れないのだが、やはり、藤岡のライナーノーツなどに書かれている。

その真言の一般的な解釈は、坂内龍雄によると「宝珠蓮華尊に帰命したてまつる。離垢ならしめたまえ」「玉は智慧、蓮は慈悲の徳で、観音の象徴である」

オンは日本の天台宗や真言宗の真言の冒頭にも付く。「オン アボキャ ビロシャナ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラハラバリタヤ ウン」と唱える光明真言も「オン・マニ・パドメー・フーン」に近いとされる。

聖音オーム(aum)は、宇宙の最高原理ブラフマンと同じとされる。

ラヴィがアメリカを訪れるとホテルの部屋まで訪ねて、教えを請うた。何時間も哲学的な話やラーガ、即興について話すのに耳を傾けたという。そのときサックスを持って行くことはなかった。ラヴィもシタールを用いることはなかったというから、おそらくラーガを歌って聞かせて説明したのだろう。

するとそれを復唱して初心者よろしく手で拍子を取ってサレガマパダニサなどと歌うコルトレーンを想像するとなんか楽しい。
https://www.youtube.com/watch?v=_yEa7ZUOwlg

インドに来るよう誘っていたらしいが、それは無理な相談。1967年にラヴィはカルフォルニアにスタジオを構えて、何ヶ月かラヴィにインド音楽を教えようと考えていたが実現することはなかった。マハリシ・マヘーシ・ヨーギーではないが、有名な弟子を抱えると宣伝になって生徒が大勢集まる。

コルトレーンは、シタールを弾いたり、サックスでインド音楽を演奏したいというわけではなく、その音楽理論や背景の哲学を学びたかったのだろう。肝臓癌のため体調が悪く、ツアーを続けるのは無理だったので、作曲などの創作活動に生かそう、ヒントを得ようと思っていたのではないか。細分化されたリズムや、何十種も使われているラーガを研究して新たなモード奏法を探りたかったのかもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=jE_6kIOaIJk

ラーガは基本的には彩りといったような意味だが、コルトレーンは自らの音楽について、「ミュージシャンはリスナーに絵を届けようとしていると思う」「この世がいかに広大で美しく、私たちはそういう世界に暮らしているんだということを、別の言い方で伝えているに過ぎない」といっている。

イナーヤット・ハーンはいう。「私たちが音楽とよんでいるものは、あらゆるものごとの背後で働いている、自然界の根源にして起源である宇宙の調和、すなわち宇宙の音楽から、知性がつかみとった小さな縮図にほかなりません」「科学としての音楽が惑星の影響力に深く関わっていることを彼ら(古代人のこと)は知り、惑星の不断の運動や働き、そして地球へのそれらの作用が、彼らの音楽を形成するラーガの基礎となったのです」

宮廷楽士の家系に生まれ、バローダの音楽学院で学んだイスラームの神秘思想家で、彼の「音の神秘」などの著作をコルトレーンも読んだことだろう。直接、そのような話をラヴィ・シャンカルからも聞いたに違いない。天体の運行、季節の巡り、朝昼夕という時間の流れと音楽の関係を聞いて、「ステラー・リージョンズ(惑星空間)」を企画し、ほとんど最後に録音した。死後に大分経って発表されたが、おそらく完成形ではなく、これをテーマに発展させる構想を練っていたことだろう。

キリスト教の芸術観でも、芸術や学問、数学や科学は神の世界を解明したり表現したりするためのもの。音楽も絵画、彫刻、建築も神の世界のリアリティを顕す、一種の神話の表現という観念がベースにある。コルトレーンはまた、「音楽は世界の鏡なんだ」「例えば自分が見た光景を音楽に当てはめているんだ」ともいった。曼荼羅は言葉で表せない仏世界を顕すものだから、彼の音楽は神の世界を示す音の波を敷き詰めた曼荼羅だ。

彼はおそらく共感覚者だったのだろう。音楽を聴くと色彩が見える。ジミ・ヘンドリックスもドラッグによるものかどうか、そういう感覚を持っていたと思われる。

コルトレーン、その後

来日したコルトレーンは熱狂的に受け入れられたが、実は客の入りは悪く大赤字だった。ギャラが高いので16日間18公演のスケジュールが組まれた。来日時の写真を見ると肝臓に手を当てていることが多い。相当辛かったはずだが、いざ、コンサートが始まると全く感じさせない。それどころか休憩時間にも楽屋で練習している。

レストランでは菜食、野菜やジュース、バナナなど果物を食べた、クルミなどのナッツを食べたと伝えられるが、実は大の甘党で、ケーキを食べ、ツアーでは列車が止まるたびに売店でお菓子を買って食べていたという。110キロ位あった。

コルトレーンは1967年7月17日、40才で人生を駆け抜けた。後継者と目されるサックス奏者は何人もいて息子のラヴィ・コルトレーンもその一人だが、マイケル・ブレッカーがその筆頭だろう。財産相続ではないが、晩年ピアニストとしても連れ添った妻のアリスも後継者といわれるし、その前任者でコルトレーン・ミュージックに貢献したマッコイ・タイナーともいわれる。

何年か前に、1966年日本公演にも加わったファラオ・サンダースを東京ブルーノートで聴いたが、コルトレーンの「セイ・イット」など珠玉のバラードを演奏していて、正調コルトレーン節を堪能できたのは幸いだった。
https://www.youtube.com/watch?v=abp2gdf1x48

裏トレーン

1969年にアメリカ上陸を果たしたナイジェリアのフェラ・クティをコルトレーンが聴いたら、本場ものの「ナイジェリア/ブラス」なので、これだこれだと手を叩いて喜んだのではないか。コルトレーンとはすれ違いになってしまった。

彼はロンドンのトリニティ音楽大学に留学し、大学ではクラシックを勉強し、外ではマーキーズなどで「クラブ活動」、パーティにも呼ばれてジャズを演奏していた。父方母方双方の祖父が牧師。当時の楽器はサックスではなくトランペットだった。

その頃は堅物だったようだが、渡米してブラックパンサーに入っていたガールフレンドから影響を受け、アフリカ意識に目覚める。アフロ・ビート、アフロファンクといわれ、ロックとかワールド・ミュージックの枠組みで語られるが、ブラスが炸裂するアフリカのジャズだ。当時、ロンドンではオシビサが流行っていた。

また、ナイジェリアではマリファナ所持などで度々逮捕され、アメリカではマルコムXやブラックパンサーに共鳴しメッセージを発する。危険分子と目された。

1976年、自宅が襲撃されたことから軍隊をゾンビに喩えた「ゾンビ」を発表し、世界的なヒットとなる。ジェームス・ブラウンのアフリカ版みたいな感じだ。バンドメンバーのダンサー、シンガーなど女性27名と合同結婚式をあげて一緒に暮らした。コルトレーンのやりたかったことをやった裏トレーンだったのかもしれない。

マイルス・デイヴィスもインドのタブラーなどを取り入れ大編成になったが、コルトレーンも生きていたらワールド・ミュージック的な方向に進んだかもしれない。ジョー・ザヴィヌルもフォークという言葉を使ったが、バンドメンバーにアフリカ人やインド人も迎え、ある意味ユニバーサルな音楽を追究していた。フェラ・クティのオルガンはシンプルだが、ザヴィヌルにヒントを与えたに違いない。

しかし、みーんな神の園に旅立ってしまったのだった。神の国の音楽とは何だったのだろう?

参考文献

板垣真理子『武器なき祈り/フェラ・クティ、アフロ・ビートという名の闘い』三五館、2005年。
上村勝彦訳『バガヴァッド・ギーター』岩波文庫、1992年。
カルロス・ムーア著菊池淳子訳『フェラ・クティ自伝』KEN BOOKS、2013年。
クリス・デヴィート著小川公貴・金成有紀訳『ジョン・コルトレーン インタヴューズ』シンコー・ミュージック、2011年。
坂内龍雄『真言陀羅尼』平河出版社、1981年。
ハズラト・イナーヤット・ハーン著土取利行訳『音の神秘』平河出版社、1998年。
ビル・コール『ジョン・コルトレーン物語』ジャズライフ別冊、立東社、1984年。
藤岡靖洋『コルトレーン/ジャズの殉教者』岩波新書、2011年。
〃  『コルトレーン・クロニクル/写真でたどる生涯』DU BOOKS、2011年。
J. C. トーマス著武市好古訳『コルトレーンの生涯』スイングジャーナル社、1975年。
Lewis Porter “John Coltrane” The University of Michigan Press、1999年。
ジャズ批評46「ジョン・コルトレーン」ジャズ批評社、1983年。
ジャズ批評92「ジョン・コルトレーン」ジャズ批評社、1997年。
レコード・コレクターズ「ジョン・コルトレーンとインパルス」Vol. 30 No 11、2011年、ミュージック・マガジン。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2021.08.12