河野亮仙の天竺舞技宇儀㊸
インドの水/汚れと汚染
およそ5000万年前のこと、後にインド半島となる陸塊がマダガスカル島から切り離され、ユーラシア大陸とぶつかってその下に潜り込み、チベット高原が隆起してヒマラヤ山脈が生まれた。アジアの中心にそびえ立ち、ハブとして10本の大河がそこから流れ出す。
タリム川、アムダリヤ川、インダス川、イラワジ川、サルウィン川、メコン川、長江、黄河、ガンジス川、ブラフマプトラ(ヤルツァンポ)川である。ヒマラヤ水系の河川は16ヶ国を流れ、人類の1/5の人々に水を供給する。
モンスーンの語源はポルトガル語のモンサオ、季節のこと。このインド洋で吹く季節風、南西風はヒッパロスの風と呼ばれ、「エリュトラー海案内記」やプリーニウスの「博物志」に紀元前後のインド洋航海と貿易について記される。
春、ユーラシア大陸が暖められると上昇気流が発生し、上空の空気が冷やされるとそこに海上の湿った空気が流れ込む。ベンガル湾とアラビア海の両側から挟み込むように南西の風が吹き込む。水蒸気として蓄積された太陽のエネルギーが蓄積され、それは雨として放出される。
6月から10月までは南西風が吹くので、エジプトから船が出る。インド洋横断は約40日かかった。「博物志」によると帰路は1月の内に出港し、南風によりインド洋を横断し、紅海では南西、または南風に乗ると記された。
例年、5月下旬から6月上旬にかけ、モンスーンはケーララ州やスリランカに到達する。6月末にガンジス河口のデルタ地帯に達し、内陸部に向かって進み雨をもたらす。降れば土砂降りであるが、それは待ち望まれていた雨。高温多湿の空気の流れは内陸部を移動し、インド北西部に達する頃は弱まる。
チベット高原の湿度が急に高まると、モンスーンを発生させる原動力である気圧と気温の差が促される。ヒマラヤ山系は厚い壁となり、モンスーンの雨はガンジス平野に集中的に降る。
陸と海の温度差が縮まって、冬になるとアジアの大陸は海より急速に冷え込む。すると風向きが反転し、北東から乾燥した空気を吹き出す。11月から3月にかけて広い範囲で乾期を迎えるのだ。雨期の雨は降ったりやんだりする。タミル沿岸部などでは、乾いた冬のモンスーンで、年間雨量に相当する雨が降る。風向きが反転している間、ベンガル湾は恐るべきサイクロンに見舞われる。
インド亜大陸は湿度が高い東側と乾燥した西側に分かれ、東側は湿潤地帯の東南アジアに連なる。西側はユーラシア大陸の乾燥地帯の一部で、中央アジアからサハラ砂漠まで広がっている。アラビア海で発生した雨雲は、西ガーツ山脈を越えるときに水分を雨として吐き出すので、デカン高原に入る頃、水分は残っていない。
水の神
古代インドの聖典「リグ・ヴェーダ」は水の女神(アーパス)や河川を讃える。アーパスは慈愛に満ちた母であり、宇宙の母であり妻であり、生物・無生物を生む。その浄化力は物心両面にわたり、治癒力を持ち、息災・長寿・財産・援護を授けるものとする。
「リグ・ヴェーダ」7. 49では、「海を首長とし、[天上の]大水の中より、[アーパスは]身を清めつつ、休むことなく来たる。そがためにヴァジュラ(電撃)もつ牝牛・インドラが道を拓きたる、かかる女神アーパスは、ここにわれを支援せよ」と。また、10. 9に「水の中にすべての医薬はあり」(辻直四郎訳)と歌われる。
10. 75では、シンドゥ(インダス)川、ガンジス川、ヤムナー川、サラスヴァティー川等も讃えられる。
聖なる川で沐浴すると罪が洗い流される、そこで死ぬと輪廻から逃れて解脱できると信じられている。ガンジス川の流れるバナーラスで最後を迎えたいと多くの信者が来て、毎年何万人もの巡礼者がここで息を引き取り荼毘に付されるという。2018年には「ガンジスに還る」という映画が公開になった。
https://www.bitters.co.jp/ganges/index.html
インドを流れる幾百の河川はガンジス川と同じように神であって聖性が讃えられている。また、2019年にはプラヤークで、今年3月にはハリドワールでクンブ・メーラーと呼ばれる大祭が行われた。
12年に一度の祭りだが、ナーシク、ウッジェインでも行われるので、実際には3年に一度巡ってくる。聖者がインド中から集まるのみならず、信者何百万人、何千万人が1ヶ月の間に訪れる。この時に沐浴すると最も功徳があり、魂が救済されるという。
実際の聖なるガンジス川は汚染がひどく、安全基準の何百倍も大腸菌がいるので、旅行者には決して川に入らないように、下痢をする等々と注意が呼びかけられている。現在では、そこを新型コロナで亡くなった死体が流れている。
辻直四郎は『リグ・ヴェーダ讃歌』の解説で、「リグ・ヴェーダの常として、天界の現象と地界のそれとの限界が不明瞭」「天上の大水とこれを本源とする地上の水は不可分の関係にある」とする。宇宙と身体の間にも深い対応を見いだせる。
また、祭火アグニは現実の火であると同時に、擬人化され神として崇められる。インド人にとっては精神世界と物質世界は緊密に繋がっていて、罪を清める行為で汚染も逃れられると考えているかのようだ。
コロナウィルスが蔓延する状況で祭りを行えばどうなるか。そこにインド人の大好きな選挙も加わって、一時期抑えられていた感染が急激に増え、デルタ株と呼ばれるインド型、ベンガル型変異株まで現れてしまった。コルカタ住民の半分は陽性だといわれる。2021年5月で累計死亡者数は30万人を越え、感染者は3,000万人にも及ぶ。ムンバイでは8割がコロナウィルスにさらされたといわれる。
https://www.youtube.com/watch?v=ZU13u3qmujM
小さな町や市では検査もろくに行われないので、コロナ禍による死者は公式数字の30倍を上回るといわれる。デリー在住のインド舞踊家仲香織によるレポートは、悲惨で言葉を失う。
https://tsunagaru-india.com/knowledge/仲香織の今どきデリー④/
医療システムが崩壊したといわれるが、システムなどもともとなかった。インドのGNPのわずか1.25パーセントしか医療部門に当てられていない。実際は、関連の品目も入れて水増しされているので、0.34パーセントと推定される。留学時も町で医者の看板を見ることは稀だった。これはインド政府の失敗、いや、「人道に反する罪」としてアルンダティ・ロイは告発する。
ワクチンも治療薬もない百年前に、スペイン風邪が収束するまで3年かかったが、結局、医学が進んだ現代でもそれくらいは必要なようだ。アメリカ発の通称スペイン風邪では推定2,500万人が死亡、そのうち半分が英領インドの住民だった。
3年ですむのならまだよいのだが、インドの水問題は待ったなしのところまで来ている。
インド古来の習慣
もともとインドでは浄性を大切にするので、汚れを避ける習慣があった。今ではガラスのコップを使っているが、留学していた頃、バナーラスの茶屋では素焼きのコップで甘いチャーイを飲んだ。それは投げ捨てて土に返した。
ケーララでお祭りを見に行くと、見ず知らずのよそ者も招いてくれて、ご馳走になった。バナナの葉に盛られ、ずらっと横一列に並んで、前の方から様々なおかずを給仕する。このインド式の食事作法は日本の僧堂にも伝わるが、さすがにバナナの葉は使わない。向かい合わせでぺちゃくちゃしゃべりながら話すより安全だ。バナナの葉もまた土に返す。
https://www.sekaigurashi.com/travellog/india-travellog/bananaleaf
現在、手洗い、うがいの励行が進められているが、インドでは口を漱ぐアーチャマナが行われる。歯木といってニームの木などの小枝の先をかみ砕き、ブラシにして歯を磨く。洗面所で歯を磨くとエアロゾルが残るので、家庭や合宿所などでのコロナ感染の温床となっている。外に出て歯木で磨いた方が安全だ。今、日本の薬局にも歯ブラシのほか舌ブラシも置いてあるが、これもまたアーユルヴェーダの養生法でコロナ禍に有効だ。
コロナでは腸呼吸をするとよいといわれるが、ヨーガで口から紐を飲み込んで肛門から出してぐいぐい引っ張って掃除する技は腸呼吸に役立つのかもしれない。
また、何かにつけて清め、罪汚れを祓うために沐浴する。今は外から帰ったらシャワーを浴びなさいなどと言われている。平田篤胤は、汚れを祓う神道の禊ぎとインドの沐浴は同じとその習俗に共通性を見いだした。
しかし、その聖なる水を崇めるのではなくて、20世紀に入ってからのインドでは、資源として活用し、消費するようになってしまった。
ヒマラヤから東西に流れ出す水
ヒマラヤ山脈の東から流れ出すプラフマプトラ(ヤルツァンポ)川などの水源は、主として夏のモンスーンの雨である。地球温暖化で大気に蒸発する水が増えれば、降水量は増えるはずだ。
ところが、西へ流れるインダス川の水源は、ヒマラヤ山脈、カラコルム山脈、ヒンドゥークシ山脈に降る雪と氷河が水源である。氷河というのは冬の降雪を氷として貯蔵し、春から夏にかけては融解水を供給する給水塔の役割を果たす。
https://onumaseminar.com/assets/Intercollegeseminar/2015/mizu.pdf
ヒマラヤの雪は、流域に暮らす2億7千万人の生命線。しかし、温暖化によって氷河は縮小し、2050年にはその水量が減少に転じることが予想されている。
また、大規模な灌漑農業が開発されたため、インダス川では河川が供給する水量に対する取水率が高い。農業、工業、生活用水に取られる。手っ取り早くいうと、流れ出したはずの河川の水が海まで届かないという状況を迎えることになる。
インドとパキスタンは昔から、水争いをしている。さらに、インダスの源流域を管理下に置いている中国政府は、2006年、インド・パキスタンに通告することなくダムを建設した。中国が日本の水源を狙ってるという話はよく聞くが、ここでも起きている。
世界の人口の1/5が中国人、1/7がインド人であるにもかかわらず、世界の淡水量に占める淡水の割合はそれぞれ7パーセント、4パーセントという惨憺たるありさまだ。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/061900367/
気候変動によって、水が足らなくなるだけではない。2010年8月には、豪雨によって大洪水を引き起こした。インダス下流域の地区では、わずか数時間で年間降雨量に匹敵する雨が降ったという。パキスタン北部ではこうした気候変動によって、700万人の生活が危険にさらされているという。
バングラデシュは、2050年までの海面上昇により、国土の17パーセントが水没し、2,000万人が住居を失うと予測されている。
アフガニスタンでは干ばつのため2020年前半だけで270万人が隣のイランやパキスタンに逃げ出した。彼らは気候難民と呼ばれている。
インドのパンジャーブ州では、1987年に、640キロにも及ぶインディラガンディー運河を建設した。容易に水を得られることによって、水の浪費が進んでしまった。必要量の十倍取水しているともいわれる。また、工業廃水や化学肥料、農薬を用いた農業により、地下水の汚染が進んでいる。癌や腎臓疾患、胆石の患者が増えているという。
インダス川流域では最大6,000万人がヒ素に汚染された地下水を飲んでいると報告されている。中国でも8割の井戸に、人が口にするには危険な物質が含まれていると推定される。
大気汚染とコロナによる重症化リスク
水だけの問題ではない。1979年、BHUに留学するため、ニューデリーで降りた。40年前でさえ、排気ガスによる汚染はひどく、マスクなど持ってないからハンカチで鼻と口を押さえた。咳き込みながら、先に留学していた友達とオートリキシャに乗って街を走り回ったことをありありと思い出す。
ジャンパット・ホテルという、当時でさえ古めかしかったホテルに泊まったが、停電のためかエレペーターが停止して、しばし閉じこめられたことを思い出した。今でもそのホテルはあるのだろうか。インド政府の給費留学生だったので迎えが空港まで来るはずだったが、当然、来なかった。
街の空気はコロナによるロックダウンで少しはきれいになったと聞くが、今はどうなのだろう。一時期、インドでは1日に40万人を越える感染者が出たというが、少しは落ち着いたともいわれる。
ハーバード大学の生物統計学の教授フランチェスカ・ドミニチは、大気汚染が深刻な場所に多い慢性疾患患者は、新型コロナウィルス感染症が重症化しやすいのではないかと考えた。汚染で抵抗力が落ちると、気道に炎症が起きやすく、呼吸器症状をもたらすウィルスを撃退しにくくなる。
PM2.5(直径2.5マイクロメートル以下の粒子状物質)の濃度が高い所ほど新型コロナウィルスによる死亡率も高い事が判明した。ディーゼルエンジンや石炭だけが汚染源ではない。現代の工業型農業による化学肥料や堆肥から発生するアンモニアが、大気中で他の汚染物質と反応して微小粒子を発生する。
WHOのデータによると、PM2.5の濃度が高いワースト10のうち9都市がインドだという。汚染による早期死亡者は年間170万人とされる。ガス室で暮らしているようなものだという人もある。未来漫画で防毒マスクをつけて街を出歩く姿が描かれたが、防塵用N95マスクをつける今日はそれに近い。
コロナ禍による死は毎日報道されるので目につくが、空気汚染は目にみえず、じわじわと襲ってくる。地球温暖化と環境汚染、コロナ禍は一本の線で繋がっているのだ。地球的規模で考えて、マザーアース、水と空気、自然を大切にするという基本を守らないといけない。
自然を神として讃えるのがヴェーダの精神であり、山水草木国土に仏性有りと見るのが日本人の自然観であろう。自然現象の背後にある威力に対する畏敬の念、尊崇の念を現代人は忘れてしまった。
近代日本史、民衆史の色川大吉は、水俣病などの公害の調査で知られるが、「コロナ禍で世界中の人々に強制的な行動制限をもたらしたおかげで、北京では青空が見える日が増え、ベニスでは運河の水も澄んだ」「自然災害の元凶である環境破壊をコロナ禍が止めるとしたら、なんとも皮肉な話だ」「(コロナ禍は)世界規模で弱者や貧者に多大な被害を及ぼしたという点で、公害と本質を同じくしている」「この機に我々は生きることの意味や、何が正義か、何が豊かさかを考え直さねばならない」という。
インド西北部カシミールからさらに山奥にあるザンスカール高地は、世界でも最も寒い地域として知られる。ふた昔も前のことだが、そこの僧院で修行するチベット僧に聞くと、ここの暮らしは極楽だと答えたそうだ。
SDGs
Sustainable Development Goalsとは、2015年、国連サミットで採決された17の持続可能な開発目標である。その達成度において日本は世界17位。また、人口減少に伴う高齢化のため、「課題先進国」と呼ばれているそうだ。漠然と環境に優しいというのではなく、フェアトレードで低開発国を低賃金などで搾取しないこと、オーガニック認証商品の開発が勧められる。気候変動というと外側に責任をなすりつけているようだが、自分たちでなんとかしないといけない。そういうと難しそうだが、要は地球まるごと大切にしようということだ。
すなわち、人も動植物も虫けらも、山も川も鉱物資源も、細菌もウィルスも大切にして保全しようという事だ。地球に人類が住み着いているように、人には細菌もウィルスも共存している。果たして、COVID-19に仏性ありや否や。ひょっとしたら人間ではなく、宇宙から飛来して地球を守ろうとしているのだろうか。
参考文献
アルンダディ・ロイ著竹中千春訳「インドのパンデミック」世界2021年6月号、岩波書店。
井田徹治「気候難民の世紀」世界2021年6月号、岩波書店。
竹中千春「封鎖を乗り越え、支援と連帯を」世界2021年6月号、岩波書店。
色川大吉「コロナ禍という『公害』の教訓」選択2021年6月号、選択出版株式会社。
辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ讃歌』岩波文庫、1970年。
スニール・アムリス著秋山勝訳『水の大陸アジア』草思社、2021年。
アリス・アルビニア「ヒマラヤの大河に迫る水の危機」NATINAL GEOGRAPHIC日本版、2020年7月号。
ベス・ガーディナー「寿命を縮める大気汚染」NATINAL GEOGRAPHIC日本版、2021年4月号。
ポール・サロペック「インドの聖なる川 消えゆく水」NATINAL GEOGRAPHIC日本版、2020年8月号。
ロバート・クンジク「地球を守るチャンス」NATINAL GEOGRAPHIC日本版、2020年11月号。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論
更新日:2021.07.09