河野亮仙の天竺舞技宇儀㊷
そもそもインディア/天竺をめぐって
インド共和国の国名は英語ではIndiaだが、ヒンディー語ではBharataとなる。日本だって、にほんとにっぽんの読みがあり、英語ではJapanとややこしい。自称と他称が異なる。
インドとパキスタンは1947年に独立、遅れてスリランカは1948年独立。明治時代、日本の仏教僧はインド留学と称してセイロン島に留学した。
昭和3年に「印度旅日記」を出版した泉芳環は、海路4000里の船の旅でコロンボに到着したと記す。泉はインドとスリランカを区別し、「知らない人には錫蘭も印度も同じやうに思はれている。尤も錫蘭は広い意味で印度の内だと云へよう。然し、実際において大いに異う。印度大陸は英領の印度帝国であり、錫蘭は英領植民地の一つだ」と記している。
1900年当時、アフガニスタン、ネパールは英国の保護国、ブータン、シッキムも英国の保護下にあり、スリランカは1798年にインドから独立して英国の直轄植民地となっていた。
インディアン・エンパイア、英領インド帝国は、シンガポールを植民地化し、ビルマを征服し、アデン(イエメン)を植民地化し統治していた。帝国の中にある帝国であって、イギリスの保護下にあった湾岸諸国をインド政府が統治していた。デリーは大英帝国の政策を決定する第二のセンターとなっていた。
泉はマイソール王国でパンディットについて梵文を学び、1年の滞在の間に仏跡巡礼をしている。日記といいながら日付がないが、貴重な記録である。明治20年にインド巡礼した南条文雄は「印度紀行」を著しているが、こちらは漢文体で記されている。
天竺とは
天竺という語は「後漢書」に初出する。印度という表記は玄奘「大唐西域記」から使われている。天竺と呼ばれた国の表記はさまざまで、古くは身毒といい、賢豆とも呼ばれたと記す。婆羅門国という呼称もある。辛毒、身竺、懸度、天篤、寅度など明代末期の文人呉其昌は、38の名称を数え上げている。
ご存じのようにこれらの名称はSindhu川に由来する。古くはアヴェスター(前7世紀以前に成立)にアフラ・マズダが創った15番目の土地として、7つの川ハプタ・ヒンドゥーという地名が現れる。シンドゥ、ヒンドゥはもともと川という意味の一般名称である。
アケメネス朝ペルシァのダリウス(ダレイオス)1世(在位前522~486)がインド亜大陸西北部を征服した時に、その23州の名をベヒスタン碑文に記した。そこにガンダーラ(インダス川の西岸からカイバル峠の辺り)の名がある。後のペルセポリス碑文にヒンドゥ州が加えられる。インダス川とジェラム川の間とインダス下流を指すと思われる。タキシラはヒンドゥ州の州都である。
ペルシァ語でシンドゥはヒンドゥとなり、ペルシァから見てインダス川の向こうの土地を呼んだ他称である。ギリシア語に入ってIndos、ラテン語ではIndusとなる。ギリシアやローマの世界から見て、インドは宝物と怪異に満ちた魔法の国、千夜一夜物語「シンドバッドの冒険」のイメージだろう。
天竺は仏教徒の憧れの地
辞書的に天竺の語はインドの古称とされるが、簡単にそうとはいいきれない。今昔物語は3部門に分かれて、本朝、震旦、天竺の物語が語られる。日本、中国と天竺という三国世界観だ。当時の地理的概念、世界観としては中国より向こうが天竺となる。震旦の語は、古代インドでチーナスターナと呼んだ事に由来する。
鎖国以前、朱印船貿易の時代に東南アジアへ商人たちが出かけ、シャム、現在のタイを天竺として認識していた事は知られている。これは地理的知識の不足による勘違いなのだろうか。
今昔物語は釈尊の物語から始まる。仏教がやって来た道筋をたどる。行き来出来る朝鮮半島、中国大陸と異なって、天竺は全く見知らぬ世界、異境である。古くは法顕や玄奘の旅行記、そして西遊記から、象やマカラ、ガルダ、迦陵頻伽(かりょうびんが)などの不思議な生き物、異類、異人、異形の人間が住んでいるワンダーランドを想像する。
異界としての天竺のイメージは渋澤龍彦の幻想小説「高丘親王航海記」に描かれている。平城天皇の子でありながら出家し、空海の弟子となった親王は、空海亡き後、良き師を求めて渡唐する。しかし、満足な結果を得られず、天竺行きを決意したのだ。
渋澤のリズムの良い文章は格調高くて引き込まれるが、なんといっても挿絵がないし、老眼なので文庫本は読みにくい。そこへ近藤ようこという漫画家が見事に描いてくれたのでイメージが膨らむ。
大蟻食、鳥の下半身をした女、犬頭人の国など日本画家のように絵がうまくて楽しめる。イグノーベル漫画賞をあげたい。誰か影絵芝居にして語ってくれないか。
日本人の世界観、インド人の宇宙観
日本人は黄泉国、常世くらいしかイメージできなかったが、インド人は瞑想して、宇宙の果てまで思いをめぐらし、須弥山図を描いた。宇宙の構造を示す。虚空の中に風輪が浮かび、その上に水輪がある。そのまた上に金輪がある。金輪上の表面に、山、海、島が載っていることになる。アイデアの元になっているのはインド亜大陸なので、逆三角形のインドの上に大雪山ヒマーラヤを抱く。
無熱脳池という湖から4つの川が世界に流れる。そのモデルは、チベット高原のマーナサローワル湖、インダス川、ガンジス川、アムダリア(オクサス)川と目され、そしてシーター川がどの川に相当するかは定説がなくタリム川、あるいはヤルカンド川かといわれている。香酔山はカイラースを指すと考えられる。
インド人は数字に強いし、仏典に現れる数字は針小棒大だが、須弥山の高さは16万由旬、計算すると56万キロメートルで地球の大きさを超えてしまう。我々の住む南の島がせん部州(閻浮州)である。
須弥山の頂上に三十三天の住みかがあって33、トラーヤストリンシャから忉利天と呼ばれている。神々の住みかではあるが、須弥山のてっぺんという事で、地上の神である。その天上にも神々がいる。
須弥山頂から8万由旬上に夜摩天があり、そのまた16万由旬上の所に兜率天の住む天宮があるといった具合に果てしない。地上、天上に加えて地下世界もあり、一番深い底に無間地獄があるとされている。
五天竺図の世界観
法隆寺北室院に「五天竺図」(14世紀)という世親の「倶舎論」に記された仏教的世界観を基に、西域・天竺の地名を記した絵図がある。畳2畳ほどの大きなものだ。そこには赤い線で玄奘三蔵が天竺世界へと旅した足跡が刻まれている。
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玄奘三蔵が太宗に提出した「大唐西域記」には、序文に続いて「倶舎論」の須弥山説が記される。世界の中心に立つスメール山は四宝から作られ、大海にあって金輪の上に住している云々とある。「倶舎論」を訳出したのは玄奘だった。
日本地図というべきものは、行基式日本図と呼ばれる仁和寺蔵日本図が、14世紀初めに制作された。七道で結ばれた日本の行政区画が描かれる。同時期の金沢文庫日本図には、列島外の異域についても唐土三百六十六カ国との書き込みがある。
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このような地図は、李氏朝鮮や中国にももたらされ、朝鮮・中国の地図作成に参照された。李氏朝鮮成宗2(1472)年に申叙舟が進呈した「海東諸国記」付属の地図海東諸国総図がよく知られている。倭寇が活躍した時代には、日本、朝鮮、中国に囲まれる海域の知識は増大して地図に反映されていった。
14世紀にはタイのアユタヤに日本人町が出来ていて、16世紀には1,000から1,500人の日本人がいたという。ベトナムのホイアン、カンボジアのプノンペン、フィリピンのマニラにも日本人町があった。
この時期活発に交易し始めたのは琉球王国で、1430~1442年の間、タイのアユタヤ朝に少なくとも17回、スマトラ島のパレンバンに8回、ジャワに8回使者を送っている。清と薩摩藩に両属しながら1879年まで王国を保った。北東アジアのみならず、東南アジア、インド洋にわたる貿易ネットワークに参入した。
肥前・松浦氏の領地である平戸は1530年代から後期倭寇の根拠地となって、シャムまで交易圏を広げる。そこへポルトガル人、イエズス会が入り込んで鉄砲をもたらす。
フランシスコ・ザビエルが鹿児島にたどり着いたのは1449年の事。教科書には1543年、ジャンク船が種子島に漂着し、鉄砲伝来とある。後期倭寇の明人王直の船だった。明代の倭寇は中国人が主体となり、マカオに進出してきたポルトガルの海商と結託して東シナ海を駆け巡った。
1600年頃、ポルトガル人がホイアンに着くと、すでにそこには日本人、中国人がいて居留地が認められていた。商人のほか、労働者、傭兵として、あるいは奴隷として売られていった。
大友義鎮はカンボジアと国交を結び貿易船を送ったが、1573年、帰路に遭難した。島津氏は1579年、カンボジアからの使節を迎えている。
森本右近太夫は1632年にアンコール・ワットを訪れて、落書きを残している。そこを天竺の祇園精舎と認識していた。
茶屋新六は、元和の頃(1615~1624)に中国に行こうとして台風のため交趾国に流れ着き、安南国王に錦織りを献上した。ベトナムのダナンから7キロの所に五行山があり、そこから「中天竺の瀧見観音」を頂戴してきた。五行山を達磨大師生誕の地と思っていた。「茶屋新六交趾国貿易渡海図」が残されている。
天竺徳兵衛として知られる播州加古郡の徳兵衛は、1626年、1630年の2回アユタヤに入る。長崎から3,800里と記す。「渡天物語」が残っていて、天竺に参ったと信じている。
天竺人と呼ばれたザビエル
当時の日本人は、東南アジアも天竺と認識していたので、マラッカを経てやって来たポルトガル人、ザビエルたちも、来日当初は天竺人と呼ばれていた。仏像に親しんでいてもインド人がどんな顔をしているのか知らなかった。後にポルトガル人は南蛮人と呼ばれる。
逆に、イエズス会はゴアに依拠しながらも、中国語の史書を読むわけではなく、タイなどで見聞する仏教と日本の仏教が同じ宗教とは思わず、天竺が仏教の祖国を指すとは知らなかった。インドと天竺が同じ国だとは認識していなかったようだ。
しかし、織田信長の時代になると宣教師から地球儀を贈られ、世界地図で天正遣欧少年使節の海路を説明させていたので、現代に近い世界認識を得たと思われる。秀吉がポルトガル人とイエズス会は日本を征服して支配するつもりではないかと信長に話すと、あんな遠いところから兵士を送ってくるのは不可能だと答えたという。兵站が分かってる。
彼らが明国を狙っていたのを知っていたので、信長自身も明国征服を唱えたものの、その後まもなく暗殺された。それは1582年の事。
秀吉もまた、朝鮮に攻め入って明国に入り、自分は寧波に陣取ってアジアを睥睨し、明に先鋒した臣下には天竺を切り取って分け与えると大言壮語したが、1598年に亡くなって朝鮮出兵も頓挫する。
ポルトガル人以前にはイスラーム商人たちが用いた海図を鄭和は入手していた。鄭和の艦隊の船長は、それぞれ6.3メートルの巻物の形をした海図を持っていた。それは地図というより概念図で、南北も縮尺も正確ではない絵図である。星座などと総合して航海していた。
古地図に見る天竺、印度
石崎貴比古による『日本における天竺認識の歴史的考察』という本が出版された。天竺という言葉が歴史上どのように語られ、どのように想起されたか論じている。400ページ、5,200円の堂々たる本で、これでもか、どうだ参ったかというくらい、天竺に関するありとあらゆる文献を渉猟し、古地図の世界を探検している。
東京外語大出身だが、本職は常陸国総社宮の禰宜なので、わたしのような僧侶ならまず読まない、触れる機会のない平田篤胤「出定笑語」「印度蔵志」の諸本や写本を研究しているところがさすがである。じっくり400ページ読んでいただきたいと思う。
昔の人の空間認識、世界観については地図を見ると分かる。以下は石崎論文から注目すべき点を紹介する。
初めての世界地図帳、オルテリウスの「世界の舞台」(1570年初版)は、天正遣欧使節が持ち帰ったとされている。そこにローマ字でインディアの文字があっても、漢字で天竺と記される事はなかった。これら世界地図の影響を受けて南蛮屏風世界図が制作され、20点ほど国内に現存している。
中でも最も初期のものが堺市の山本久所蔵の通称山本氏図である。1600年前後の制作と思われるが、欧文地名がひらがなで表記される。インド亜大陸は、形こそ今日知られる姿に近いが、そこには「なんばん」と地名が書かれている。また、デリー付近に「いんぢあ」と記される。「大唐西域記」に天竺は印度と呼ぶべきと描かれていたが、印度がIndiaとは認識できなかったようだ。
一方、タイ近辺シャムとあるべき所に「てんじく」と記される。ちゃんぱ(チャンパ)、かほうちゃ(カンボジア)、まるか(マラッカ)の地名も書き込まれている。
西川如見「増補華夷通商考」などにおいては、シャム、チャンパ、カンボジアなどが南天竺の内として記されている。タイに住んでいた山田長政も、仏教の栄えるシャム、シャムロこそが天竺と信じていたようだ。
イエズス会宣教師マテオ・リッチは中国に科学技術をもたらし、「坤輿万国全図」を1602年に出版した。漢字で書かれていたので日本にも伝わって影響を与えた。
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どこからどこまでをインドとしたのか分からないが、亜大陸全体をさしていると思われる「應帝亜」の語がある。インディアの音写であろう。「小天竺」「西天竺」の語も見えるが、その意味するところは不明である。東、南、北、中天竺の語は見られない。また、Indostanに由来する「印度厮當」の語も見える。
これらは複数の情報源に拠って書き込んだもので、石崎の分析によると小天竺、西天竺は中国からの呼び名、應帝亜はヨーロッパ側から見たインドの総称、印度厮當はペルシア側からの呼び名と考えられる。マテオ・リッチの世界地図によって、亜細亜や亜墨利加といつた五大州の知識がもたらされ、ようやく天竺はインドと同定されるに至ったのだ。
平田篤胤は仏教嫌いのインド好き?
江戸時代中期の町人学者富永仲基(1715~1746)が文献学的研究によって、大乗仏教は釈迦の金口説法ではない、と説いた「出定後語」はよく知られている。本居宣長が「玉勝間」でこれを絶賛した事から、宣長死後の門下生を自認する篤胤は、当時、入手困難な書をようやく手に入れて研究し、仏教批判の「出定笑語」を著した。
仲基は、大乗仏教は婆羅門の説に加上したもの、元のアイデアがあって従前の説に自分の考えを加え、アレンジしたものとする。仲基は早熟の天才で夭折した。
篤胤もその大乗非仏説を受け、さらに、梵天の古伝は日本からインドへ伝わったものだという。サーンキヤ学派の「金七十論」を読んでヒンドゥ教を研究し、密教修法に関する「密法修事部類稿」を著している。「印度蔵志」では日本とインドの古伝を結びつけ、世界の古伝の比較を考えた。比較宗教学、あるいは神話学的発想をしている。
ヴェーダが長い間口承でのみ伝えられていて、後に筆記されたことに興味を持った。おそらく、稗田阿礼が帝紀や旧辞を暗誦して太安万侶がまとめたという古事記の成立を想起したのだろう。
このアイデアの元、インドが日本に近いという親近性は古くからあった。「万葉代匠記」を著し国学者として知られる契沖は、密教学者の浄厳と共に高野山で学んだ真言僧であり、古事記など日本の古典研究は悉曇学、音韻学と共に発展したのだった。
天台座主慈円(1155~1225)は「拾玉集」で、梵語は漢語よりかえってやまとことばに近いとし、無住(1226~13112)は「沙石集」で和歌は真言陀羅尼と同じという。聖冏(1341~1420)はさらに、「古今集序注」で日本の神代の時代の言葉は梵語であったとまでいう。
篤胤は西洋人がインデアという地が印度、天竺と同じと認識していた。「印度蔵志」においては玄奘「大唐西域記」と義浄「南海寄帰内法伝」を読み込み、山村才助(1770~1807)の「訂正増訳采覧異言」とインド地理書である「印度志」を参照している。
山村才助は大槻玄沢の弟子となって蘭学を学んだ。「訂正増訳采覧異言」は新井白石「采覧異言」を増補したもの。篤胤も江戸で2年間蘭学を学んでいたのだった。仏教やインドの習俗も研究して、インドの沐浴と神道の禊ぎは同じとした。
また、篤胤は朝夷厚生と書簡を通じて交流した。厚生は西洋からもたらされた世界地図に仏跡を書き込んだ。その著書「仏国考証」は、不十分ながらも世界に先駆けた業績である。これもまた、鎌倉時代に写された五天竺図の努力を思わせる。そこには玄奘三蔵が中国からインドに至って仏跡を巡った道が記されていた。
もはやインドは、実際に海を渡りさえすれば、到達できる国となっていた。鎖国下にあって、厚生や篤胤はインド行きを夢見たのだろうか。
参考文献
赤松明彦『ヒンドゥー教10講』岩波新書、2021年。
石崎貴比古『日本における天竺認識の歴史的考察』三元社、2021年。
応地利明「日本と天竺」近藤治『インド世界』所収、世界思想社、1984年。
〃 『絵地図の世界像』岩波新書、1996年。
小倉貞男『朱印船時代の日本人』、中公新書、1989年。
近藤ようこ『高丘親王航海記』Ⅰ~Ⅲ、BEAMCOMIX、KADOKAWA、2020~2021。
定方晟『須弥山と極楽』講談社現代新書、1983年。
渋澤龍彦『高丘親王航海記』文春文庫、1990。
玉木俊明『16世紀「世界史」のはじまり』文春新書、2021年。
羽田正『東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017年。
浜渦哲雄『英国紳士の植民地統治』中公新書、1991年。
平川新『戦国日本と大航海時代』中公新書、2018年。
新修「平田篤胤全集」第十一巻、名著出版、1977年。
ルイーズ・リヴァシーズ著君野隆久訳『中国が海を支配したとき』新書館、1996年。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論
更新日:2021.06.10