河野亮仙の天竺舞技宇儀㊳

ジャイナ教、仏教の苦行と比叡山の苦行

沙門シュラマナの宗教として、今日も知られるのは仏教とジャイナ教である。兄弟のように似ているので、インド研究の初期にはジャイナ教は仏教の一派と理解されていたようだ。

それではヒンドゥー教の一派かというとそれも違う。仏教もジャイナ教もヴェーダの権威を否定するので、インドでは正統と見なされず、ヒンドゥーの方から見れば外道である。枠外の集団なのでカーストにはとらわれない。しかし、その修行は真っ当なものだ。

ジナとブッダ

ブッダは覚者という意味、ジナも勝者という意味なので普通名詞だ。ジャイナ教のジナはマハーヴィーラ(偉大なる勇者、大雄と訳される)とも称されるが、その名はヴァルダマーナ。ブッダの名前はガウタマ・シッダールダ、ガウタマ族(最高の牛、農耕牛を持つ者という意味か)の目的を果たした成就者という意味で、パーリ語ではゴータマ・シッダッタ、シッダ太子と呼ばれるが、これも少年時代の本名?ではないだろう。

ジナはジャイナ教、ジナの教えの祖師とされ、ビハール州パトナ近郊のクシャトリヤの家に生まれる。母の名はトリシャラー、父の名はシッダールタ、妻の名はヤショーダーとされる。何か聞いたような名前だ。

一応確認すると、ブッダの父はシュッドーダナ浄飯王、母はマーヤー摩耶夫人、妻はヤショーダラー、誉れある者という意味である。元の名はサンスクリットやパーリ語ではなかったかもしれない。

ジナはプリヤダルシャナーという娘をもうけたが、30歳で出家して世俗の生活を離れる。出家の1年後には裸で遊行したという。12年半の苦行をして42歳の時に一切智を獲得し、72歳で亡くなる。ブッダのライフ・ヒストリーに近い。

お釈迦様の出家も29歳とされるが、諸説ある。おそらく10歳にもなれば、お后候補の良家の娘、気立ての優しい子、舞姫、歌姫、手練手管の年増女が近侍していたに違いない。早く後継者を何人も作れという圧力、ハーレム生活に嫌気がさしていたとしたら19歳出家説あたりが妥当だ。16で結婚というのは王家としての正式なお披露目の事で、その頃に子が生まれたと考える方が自然。それから10年も経ってできるのは不自然だ。

同じ時代、西暦前5、6世紀にインド東北部で活動し、伝承の違いで同一人物の事かと思うくらい似ているが、2人が出会ったという記録はない。それぞれが伝承する聖典、祖師の言葉にも共通部分が見られる。沙門間の言い伝えなのだろう。

仏教の共通語はパーリ語、ジャイナ教の聖典は半マガダ語という言葉で標準化されて伝えられるが、存命当時はマガダ国の各方言が使われていたであろう。弟子を連れて遊行するが、そのほかに案内人、ボディガードもいれば、現地語通訳もいたと思われる。

行く土地土地で何十キロか歩く。半日、1日歩いて次の村落に着くと、また違う方言、種族ごとに違う言葉を話していたと思われる。仏跡とされている所は、交通の要所、交易ルートにあって都市が形成されつつあった。そこにいる支援者、スポンサー回りをしてお礼に講演会を開く。

商工業が発達し、行き来して人が集まる都市が形成されると、お互いに通じる共通語的なものが必要になる。今、外国で活躍できるように英語が必修になってるように。

身分、教養のある再生族といわれるドヴィジャは、入門式をしてヴェーダ学、サンスクリット語の体系を習い、正統ブラフマニズム世界の成員となる事になっている。

口語的なブロークン・サンスクリットが使われたかもしれない。マガダなまりの簡素化された発音で、梵語系の単語をテニオハでつなぐみたいな。

ジャイナ教、仏教の戒め

仏教の五戒にも似ているがジャイナ教では次の五項目が重要視される。

1.生き物を傷つけない、2.嘘をつかない、3.与えられていないものを取らない、4.性的禁欲を守る、5.所有しない。また、1.のアヒンサーから来ていると思われるが、菜食主義である。

仏教の五戒は在俗信者に対するものだが、1.不殺生戒、2.不偸盗戒、3.不邪淫戒、4.不妄語戒、5.不飲酒戒である。

仏教サンガの中で最重罪とされている四重禁は、1.異性と性的関係を持つ事、2.盗みをはたらく事、3.自殺を含めて人を殺す事、示唆する事、4.悟ってないのに悟ったと嘘をつく事である。パーラージカ(波羅夷法)といってサンガから永久追放される。女性の場合はさらに四箇条が追加される。仏教教団内では、少なからず男女関係の問題が起きていて、最も用心すべき事だったのだろう。

仏教教団の中にもジャイナ教のように、戒律や修行をより厳格に考えるシュラマナ原理主義ともいうべきグループがいた。それは、かつてお釈迦様とヤショーダラーをめぐって争った釈迦族五百王子の中にいた、従兄弟のダイヴァダッタ(異母弟ともいう)に代表される。ブッダへの反逆者とされた彼らの主張は以下のごとくである。

1.出家修行者、比丘は一生涯、村には住まず林住しないといけない、2.托鉢で食を得るのみで、招待を受けてはいけない、3.ボロ布のパッチワークである糞掃衣のみ着て、信者から施された布は着ない、4.樹下に住して屋内に入らない、5.魚や肉を食べない。

ダイヴァダッタの教団について、インド各地を巡礼し留学した玄奘は記録しているので、7世紀頃までは存続したと思われる。

コロナ禍の制限された生活も、時々、逃げ道が欲しくなる。1年、2年と苦行の期間が区切られているのならまだよいが、ダイヴァダッタの主張は厳しい。実際の仏教教団にはお目こぼしがあった。

もともと出家修行者には四依法といって、乞食、糞掃衣、樹下座、陳棄薬(牛の尿を土中で発酵させたもの)が定められていた。ダイヴァダッタの主張は陳棄薬の代わりに魚肉の不食が入ったものだ。四依法には余得といって、貰ってもいいかなこれ、というのがあります。

4月から6月の雨期には歩いて回るのが難しいので、お呼ばれして食事をする事が許された。夏安居といって夏の修養期間には雨宿りをした。信者から綺麗な布生地を頂戴する事も許された。

修行者というのは、原則として同じ所に留まらず、3日とか5日で次の所へ遊行しないといけないのだが、ヴィハーラ(精舎と訳されるが元の意味は寺院ではなくて過ごす所)、その仮宿に住む事も許された。

お釈迦様も命を削る苦行をした。お坊ちゃま育ちだったので自分が本当に強いのか、尊敬に値する沙門となりえるのか試してみたかったのだろう。

さすがに年を取るとしんどくなって、だんだん規律も緩くなってきたのではないか。あるいは、一苦行者から教団の組織者、運営者、創業社長に転身しつつあったのかもしれない。

布施する信者は功徳を得られるので、その志を無下に断れなかった。仏教教団の社会との絶妙な距離の取り方である。信者が日常生活で犯した罪や汚れは、布施と共に修行者に移り、行者は厳しい修行によってそれを祓い、消滅させないといけない。修行しているからこそ信者は布施をする。

竹林園、あるいは竹林精舎が寄進されたといっても、初めは樹木、マンゴーなどの果物や草花の生い茂る園。ここをキャンプ場にして使いなさいというような事で、建物というほどのものはなかったと思われる。

その仙人パーク(1,000人くらい住んでいたともいわれるが、そんなに大勢いたら遊園地になってしまう)には、仏教徒のみならず、裸形のジャイナ教徒、木に逆さにぶら下がっている苦行者や片足で立ち続ける修行者、のそのそと地を這いずり回っている行者もいたのではないか。

竹林といってもタケノコを食べたという話は聞かない。草木の根の内なのだろうか。勿論、バーベキューもなく、乞食に出る。やがて、雨期に木の下じゃ濡れるよなとターラの葉などで草葺きの小屋が建てられ、後には寺院建築に発展する。
https://www.youtube.com/watch?v=CDqTIVVjRC4

仏教教団は四姓平等を唱えるが、実際は仏伝アヴァダーナの分析によるとブラーマンが主流でほぼ過半数、クシャトリヤ、ヴァイシャがそれぞれ2割ちょっとでそれに継ぐ。仏教もジャイナ教もインテリ階層、富裕層の宗教、革新思想だったと思われる。

それではヒンドゥーはといわれると、宗教だったのだろうか。一般にヴェーダ期のバラモン教からヒンドゥー教になったといわれる。

仏教、ジャイナ教には開祖がいて、教えがあって、儀礼も教団もあった。ヒンドゥーは後に文献によって教学を構築する事ができたかもしれないが、インド人の人生観、生活指針、慣習で、地域によりカーストにより、どのアーシュラマ(住期)にいるかによって規範が異なる。ブッダもジナもヒンドゥー世界の人である。

バラモン教はというと、その時代に16大国があったとされる。マガダ国、コーサラ国という大国には宮廷祭官がいて、王室の周囲にクシャトリヤ、王侯貴族、出入りの商人や職人らが1,000人いたとする。当時のインドの人口がどれだけであったのか。ヴェーダを学んだり聞きかじったりしたのは、たかだか1万人、2万人の宗教である。

寺院の文芸サロン化

サンガで金銀の寄進を受けていいかという事などで、仏教教団の根本分裂が起きてから(前3世紀のアショーカ王の頃か)、財を蓄えることができ、遊行の生活から僧院での生活が中心となる。

安心して学問、修行に専念できる体制が出来ると、ますます、優秀なブラーマンの子弟が集まって、大乗経典や戯曲が制作され、寺院は瞑想修行や仏教研究のみならず学芸のサロンとなる。

そんな中で西暦100年頃に馬鳴菩薩アシュヴァゴーシャが現れ、『ブッダチャリタ』『サウンダラナンダ』『シャーリプトラ・プラカラナ』などの詩や戯曲を創作するようになった。

アシュヴァゴーシャはノーベル賞級の文学者、百年に1人の大詩人である。タゴールが美声で自分の詩を唱え、歌ったように、哀愁を帯びた調子で歌うと、多くの人が無常を感じて出家したという。

比叡山の苦行

テレビでも、時々、紹介される比叡山の千日回峰行は、お釈迦様の苦行の再現といわれる。一千日を一期として叡山の峯や谷を廻り、堂社、霊蹟、石や木を礼拝して歩き、約300カ所で定められた読経と修法を行うものだ。
https://www.youtube.com/watch?v=ZLDLL8g1BHk

法華経の常不軽菩薩の行ともいう。すべての人に仏性があるとして、会う人ごとにあなたは仏様だといって拝んだのだ。すると、お前みたいな乞食坊主に拝まれたくないといって、菩薩は石を投げられたり棒で殴られたりした。

初めの3年間は100日歩き、1日の行程が7里半というが、実際は25キロ位。4年目、5年目は200日歩く。そして、700日目に無動寺の明王道に参籠して、8日間の断食、断水、不眠、不臥で十万遍の不動真言を唱える。うがいは許されているが水を飲んではいけない、寝てはいけない、横になってもいけないというものだ。インドの苦行には呼吸を止める、心臓を止めるというのがあるが、さすがにそれはやらない。

医学的には断食しても水さえ飲めば1ヶ月近く生きられるというが、水も飲まないと3日で死ぬといわれている。身体から死臭が漂い、最終日の朝は瞳孔が開いていたという。友達の医者に懐中電灯で目を覗いてもらうと、「葉上さん死んだぜ」といわれたそうだ。光に対して瞳孔が反応しなかった。

身体は動かない。動かない身体を脇の僧に支えてもらいながら動かす。ぎりぎり生きている。江戸時代には堂入りをもう1日延ばして亡くなった行者がいたそうだ。

6年目、次の800日までは1日15里ということで100日歩く。7年目の前半100日は京都一周の大廻りがあって、21里(実際は60キロ程度か)歩く。走ってる訳ではないが、ジョギングより早い。後半100日は元の7里半に戻り、五穀と塩を絶って修法を積み、最後にまた、断食断水で10万枚の護摩を焚く。

苦行の完成とはそのまま涅槃に入る事かもしれない。ジャイナ教では断食が重んじられる。ジャイナ教でも仏教でも殺生、すなわち自殺も禁止されているが、断食して意図しない死を迎えてしまう事もありうる。

それとは違って、サッレーカナー(死に至る断食)は意図的に少しずつ食事を減らし、心の平静を保ちつつ死と向き合う崇高な儀式である。それは理想的な死の迎え方であるとジャイナ教では考えられている。

比叡山の回峰行は千日回峰行といいながら、975日で満行となる。満行は死ぬ時で、それまで修行するという意味だろう。

葉上照澄は、昭和28年9月18日に51歳で満行した。『道心』にその模様を記している。800日が終わると赤山苦行者(赤山禅院まで廻る行程)、千日満行すると大行満と呼ばれる。

師は東大の哲学科を卒業するとすぐに大正大学専任講師となりドイツ語、西洋哲学を教えた。妻を亡くしてから比叡山に入り、回峰行中も比叡山高校の校長をしていたので、仙人校長である。父亮永の恩師でもあった。そのため、わたしも時々電話をいただいて、「河野君頑張れ」と励まされていた。いまだ、ぼちぼちで申し訳ない。

参考文献

上田真啓『ジャイナ教とは何か』風響社、2017年。
大法輪編集部『ブッダ・釈尊とは』大法輪閣、2001年。
奈良康明監修『ブッダ』、実業之日本社、2001年。佼成出版社、2010年。
奈良康明・下田正弘編『新アジア仏教史2/仏教の形成と展開』
葉上照澄『道心』春秋社、1971年。
葉上照澄阿闍梨の法音刊行会『葉上照澄阿闍梨の法音講演録』USS出版、2020年。
光永覚道『千日回峰行』、春秋社、1996年。
山崎守一『沙門ブッダの成立』大蔵出版、2010年。
渡辺研二『ジャイナ教』論創社、2005年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2021.03.16