河野亮仙の天竺舞技宇儀㉝
奈良学の継承
奈良学というと古都奈良で提唱している学問のことかと思われるかもしれないが、ここでいう奈良学は奈良康明先生の学問である。ならやすあきと読む人が多いかもしれないが、お坊さんはこうめいと音読みする。しかし、漢音のめいではなく、仏教読みの呉音でみょうと読む、こうみょうが正しい。
昔、わたしの父の亮永が仏教会の役員をやっていて、何かの講演会で一緒になったらしい。丁度その頃、京大で印度哲学史を専攻していたのではないかと思うが、家の息子は今、開成を出て印哲やっていますという話になった。すると、そうですかわたしも開成ですよと。驚くべき事に、漢文や古文など同じ先生に習っていた。また、「わたしはインド屋です」とおっしゃっていたので、わたしもインド屋を自称するようになった。
さらに、延命寺の檀家にその同級生がいるということが分かった。檀家の忍見さんは健在だが、奈良先生(以下敬称略)は平成29年の12月10日にご逝去された。世寿88歳である。
奈良康明の学問はとても幅が広い。釈迦仏教から禅学、密教学まで造詣が深い。東大の印哲を出て、昭和31~35年までカルカッタ大学の比較言語学科博士課程で学ばれた。専任は駒澤大学だったが、日本の各大学で教え、さらに、カルカッタのサンスクリット・カレッジ、シャーンティニケータンの通称タゴール大学でも客員教授を勤めた。駒澤大学では学長から、総長に上り詰め、宗門では永平寺の西堂を勤められた。
曹洞宗では引退された住職は、東に建てたお堂に住んだので東堂と呼ばれた。西堂というのは他の大寺院から東堂を迎えたときに、西側に席を設けたことからいう。永平寺で修行僧指導に当たる一番偉い人だそうだ。
わたしは30年余り、大正大学で非常勤講師を勤めてきた。今までは、東南アジアも含めたインド文化論、仏教芸能の話をしていたのだが、今年はオンライン授業となり、ビデオが使えない。教室でその都度プリントを配布する事もできないので、急遽、シラバスを変更した。師が亡くなられる数日前まで、校正を進めていたという『<文化>としてのインド仏教史』を教科書に指定した。この書は平成25年に大正大学綜合佛教研究所における10回の特別講義を元に書き下ろした。
本書を元に、初めて仏教の講義をすることになってしまった。この本はとても優れていて、専門書に入る前、一般向けの新書などより深く突っ込んでいて、大学の教科書として使うのに丁度よい。
奈良学の継承とはそういう意味である。インド文化を基盤とした上に仏教が成り立っているという立場だ。社会の成員が共有して伝達している生活様式、思考様式を文化として捉え、それは古代インド、釈尊の時代に共有されていた。実はその時、釈尊は仏教徒ではない。ヒンドゥー社会の中で仏教が成立した。
大正大学は天台、真言、浄土の三宗四派の宗門大学なので、どうしても宗学が強い。昭和時代の大正大学にはBHUの先輩である斎藤昭俊、デリー留学の佐藤良純、北条賢三らがいらして、非常勤にもインド屋が少なからずいて、インドのにおいがぷんぷんしていた。今は、インド学者もインドではなく欧米に留学することが多い。わたしなどは、まさに前世紀の遺物だ。短期も含めてインドに留学するのは音楽や舞踊を学ぶ人が多くなった。それもまた、今ではテレワークになっているようだが。
また、平成時代には東大を退官されて、南インド留学の辛島昇が大正大学教授に招かれた。わたしが、インド留学から帰って、インド一般のことを勉強しようとして読んだのが、辛島昇・奈良康明『インドの顔』(現在は河出文庫に入っている)であり、奈良『仏教史』、辛島編『インド入門』などで、当時はそういったインド本が本屋にあふれていた。そして、『インド民芸』などの著作、講演やテレビ出演でインド文化の紹介をしてきた小西正捷も、今年、亡くなられて、まことに残念な限りである。インド文化人の絶滅危機である。
今、大型書店に行ってもインド本はほとんどなくて、イスラームや東南アジアの本の方が多い。ビジネスでインドを訪れる人は増えたようだが、逆にインド好きのインド旅行というのは減っているように思うし、お坊さんのインド仏跡ツアーというのも、ほとんど聞かなくなった。
昭和時代は仏教関係の新聞や雑誌社が仏跡ツアーを募集し、日印協会もインド染織ツアーなどマニアックな旅行を主催していたが、それも途絶えてしまった。インターネットで情報を収集し、超マニアックになっているのではないか。それもコロナ禍で当面インドには行けそうにない。
そんななかで、インターネットを媒介として日本とインドの文化交流をしようと奈良・斎藤・佐藤、元日印協会の鹿子木謙吉らの熱い思いからスタートした日印文化交流ネットワークである。今年は、ほぼ対面での活動が中止となり困り果てているところだ。非力ながら続けるよりほかない。
ビートルズとラヴィ・シャンカルが開いた道
わたしはというと、子供の頃からカレーライスが好きで、ふだんは小食なのだが、カレーとなると大皿にお代わりをして食べた。また、家には仏教童話全集というのがあり、これはジャータカの児童版だった。小学校の頃から何となくインドに興味を持っていた。
以前にも書いたようにインドへの入り口は、やはり、ビートルズであり、「ノルウェーの森」のシタールである。多感な中学高校時代のこと。いわゆるヒッピー時代、ラヴィ・シャンカルが1967年モンタレー・ポップ・フェスティバルや1969年ウッドストック・フェスティバルに出演して、魔術のように欧米人を魅了した。
今年は生誕百年ということで、ロンドン、ニューヨーク、シカゴなどで記念コンサートが行われる予定であったが、ニューデリー以外は延期になった。果たして、来年、可能になるやら。
ヒッピー世代というのは日本でいうと全共闘世代であり、学部に入った時の博士課程や助手クラスの方々がその世代だ。同じ文学部でいうと、ロックアウトでまともに授業に出られない時代、工学部から文学部に転部したトランペッターで、5歳年上の近藤等則、同級の上野千鶴子がそのど真ん中ということになる。
近藤はその時、学生相談室にいた河合隼雄に相談を持ちかけて、文学部なら卒論さえ書けば出してくれるのではないかと、アメリカ黒人文学専攻ということで転学部した。論文はジェームズ・ボールドウィンだった。
卒業時は君の英語力では卒業は無理だな、中学校の英語の教師にでもなるのかと指導教授に聞かれた。いや、わたしはジャズ・ミュージシャンになりたいのです。それもフリージャズのと答えた。えっ?フリージャズ・ミュージシャン?事態を果たして理解したものか、一拍おいて、じゃあ、仕方ないなあと卒業させてもらった。
いい大学、おおらかな時代、理解のある教員たちだった。世界を駆け巡る音楽家に学歴は必要ないが、母親に大学だけは卒業してくれと泣きつかれたそうだ。彼も、今年、何の前触れもなく急逝してしまった。早稲田中退のタモリはその3歳上で、ジャズ研ではトランペットを吹いていた。
その頃、印哲、仏教学、梵文学の研究室に出入りしていた偉大な先輩たちについても名前を挙げなければいけないところだが、みんな世界的な業績を挙げている。末席を汚すというが、わたしなど恥ずかしいものだ。
一つのことに集中してずっと続けていれば、それでも少しは偉くなれたかと思うが、博士論文なんて面倒くさいものは書きたくなかった。今から考えれば、クーリヤーッタムなら博士論文が書けたかと思うが、住職に博士号は必要なかった。残念ながらわたしは何屋だか、何が専門だかはっきりしない。大学で何教えているんですかと聞かれて、教え始めた頃に流行っていたクイズ番組のように、ノン・セクション、ノン・ジャンルですなどと答えていた。
インド屋を自称していたが、父親が亡くなり、もう、二十数年ほど寺守りのためインドに行っていない。住職というくらいで、寺に住んでいるのが職業だ。毎年、インドに行っているのはカバディ選手の息子の方で、そろそろ交代したいところだ。
10年ほど前から、わたしのいうところの開成坊主会、すなわち、「奈良先生を囲む会」を毎年、4月か5月に行っていた。そこでいろいろ抜き刷りをもらったり教えを受けたりした。何年か前に曹洞宗がフランスで授戒会、外国人に戒を授ける会を開催し、その際に説戒師を勤められた。その土産話を聞き損なったのは残念であるが、平成24年に永平寺の授戒会で行われた説戒は出版された。『<文化>としてのインド仏教史』と同じく遺書のごとくである。仏道とは理論ではなく生きる道である。戒律を守り続けることは容易ではないが、「及ばずながら」生きていくほかないと優しく説いている。
また、作家やタレント本を含め、インド旅行記は数多くあるが、インド留学記を残した学者は意外と少なく、師のカルカッタ大学時代の話も伺いたかったところだった。インドにおける平凡な日常というのは、日本では考えられないくらい、すったもんだのトラブル続きなのだが、それすら日常になってしまうと、わざわざ書き残すほどの事ではないということになるのかもしれない。
早くコロナ禍が過ぎ去ってGoToインディアと行きたいところだが、いつの日になるのだろう。コロナというのは太陽の円環のことだからスーリヤ神に祈ろう。
参考文献
奈良康明『<文化>としてのインド仏教史』大正大学出版会、2018年。
〃 『説戒』大法輪閣、2018年。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論
更新日:2020.11.26