河野亮仙の天竺舞技宇儀㉜

トリヴァンドラムとカラリパヤットの思い出

ティルヴァナンタプラム、聖なるアナンタ蛇の町はトリヴァンドラムと呼ばれていた。18世紀末よりトラヴァンコール藩王国の首都。ケーララの北方は英領マラバール、その真ん中にコチ(コーチン)藩王国があった。

ヒッパロス(1世紀のローマ人の商人、航海家)が,インド洋の季節風に乗って、紅海とインドを結んで1年で往復できる航路を開拓した。胡椒、象牙、真珠などが輸出されてローマの金貨で決済された。ケーララ特産の胡椒1グラムが金1グラムに匹敵するとまでいわれ、紀元前後からクランガノールなどの貿易港が開かれた。

昭和の終わりから平成の初め頃までは、毎年、ケーララに通っていた。部屋が空いていればC. V. N. カラリに泊まり、ここを根城にカルナータカ州まで出かけた。カラリパヤットの道場であり、日本でいうところの接骨院でもある。アーユルヴェーダのオイル・マッサージも行う。マッサージは背中の上に乗って行うものもある。

道場に泊まると、毎朝、6時頃に起きて、カラリパヤットを習った。終えるとすぐ側の店でイディリーやワダなどの朝食を取った。コーヒーも飲んで2、3ルピーだったか。もう35年くらい前の話になる。すぐ目の前のルシア・ホテルでマサラ・ドーサを食べると5ルピー(当時150円くらい)で、町中より2、3倍高い贅沢品だった。

この道場では、時々、演劇学のフィリップ・ザリリと一緒になり、その奥方のデボラ・ネフと共にお祭りを見に行ったりした。彼は“Kathkali Complex”という大著をものにし、カラリパヤットの論文も著している。

インドは何でもヴェーダに発するというので、4ヴェーダに次いでダヌル・ヴェーダ、すなわち弓の聖典があったというが残されていない。今日のインドでは弓の技術も失われているが、ブータンには残っているようだ。オリンピックにも出場している。

カラリ道場では足腰の基礎鍛錬から始まって、棒術、短杖術、短刀、サーベル、棍棒、槍を習う。武器を奪われたときの素手で戦う関節技や拳法も奥義として習う。自由組手というようなものはなく、型の反復稽古を専らとする。そしてそれは、戦場におけるラーマ王子になった気分で演武しろという。インド古典演劇でいうヴィーラ・ラサ、勇武の情感を表現するものだ、と師匠に教えられた。

サンスクリット語劇と出会う

1981年の夏、留学中のバナーラス・ヒンドゥー大学において国際サンスクリット学会が開催された。その中で、古典サンスクリット劇であるクーリヤーッタムの上演を初めて見ることが出来た。マニ・マーダヴァ・チャーキヤールの表演だった。古典劇の伝統が千年に亘って連綿と続いていることに感動した。チャーキヤールはサンスクリット学会でとても尊敬されていた。

また、K. N. パニッカル率いる劇団ソーパーナムによる現代的な演出のサンスクリット語劇「マッディヤマ・ヴィヤーヨーガ」を見た。ヤクシャガーナの劇団による「シーター姫の略奪」も見ることが出来た。

翌1月に帰国すると、その夏の利賀村国際演劇フェスティバルにソーパーナムが参加することを知った。わたしは成田空港まで迎えに行ったが、バスの中でパニッカルの機関銃のようななまりの強い早口の英語を聞かされた。

劇団員は多いのだが、来日できたのは5人。カタカリ役者のヴァースデーヴァン・ナンブーディリと打楽器チェンダ兼メークアップを連れてきて、カタカリのデモンストレーションもやった。利賀村の他、早稲田銅羅魔館とプランBでも上演した。

サティヤム君のこと

その頃かと思うが、TBSで日曜日の朝に「世界めぐり愛」という番組があって、いち早くカラリパヤットが紹介された。レポーターが体験取材する番組で、時間帯は異なるが「世界ウルルン滞在記」の先駆けのような番組だった。ちなみに、あの山本太郎が肉体派俳優だった頃に、ウルルンでふんどしをはいてカラリパヤットに挑戦していたと思う。

うろ覚えなのだが、「世界めぐり愛」のスポンサー雪印は、当時、ワインを手がけていて番組の中でワインを飲むシーンがあった。サティヤム君ことサティヤナーラーヤナンは飲むふりではなかったのか、また、番組から提供された時計をカラリパヤットの生徒である友達に譲ったとそのレポーターは後で語っていた。好青年だねえって。

1982年に修士論文を提出した翌年、早速、トリヴァンドラムのパニッカルに会いに行く。初めはルシア・ホテルに泊まり、カラリの道場2階に移った。カラリとは道場の意味で、パヤットは戦いの訓練。わたしがカラリパヤットを習った初めての日本人というわけではない。
https://www.youtube.com/watch?v=IaEhzLXVtNQ

当時、ピーター・ブルック演出のマハーバーラタが世界の演劇界で注目を集めていて、多国籍の演劇人が身体トレーニングとしてカラリパヤットを習っていた。その中に土取利行がいた。彼はピーター・ブルックの劇団で音楽を担当していた。

今では少なからずの人がカラリパヤットを習ったり、研究したりしている。わたしは月刊「空手道」(1984年6・7月号、8月号)や体育の科学選書『スポーツ文化論』(1994年)等に寄稿し、体育学会でカラリパヤットとカバディについて発表したりしていた。

ケーララ州のものは、カタカリ以外ほとんどわたしが最初に『カタカリ万華鏡』などで概略を紹介している。ケーララよいとこ一度はおいでとずいぶん宣伝したものである。しかし、すぐにその次の事に目が移ってしまって、今はケーララ州と関わりがない。その代わり、ちゃんと後進が育っていて、きちんとした論文や著書を著している。カラリについて詳しくは、以下3本目の高橋京子の論文PDFを読んでいただきたい。
http://kalari.extrem.ne.jp/CVN_npo/index.html
https://www.facebook.com/events/798619260905342/
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/pdf

そのサティヤムは1985年頃のことか、アリナミンAのCMに登場し、「いやはや鳥人」の名で、一躍、日本中に知れ渡る。わたしはこの現場、コヴァラム・ビーチ・ホテルに立ち会っていた。アートディレクター浅葉克己の仕事で、音楽は細野晴臣。一緒に飛んだのは名高達郎。
https://www.youtube.com/watch?v=0JfVFA1to5E
http://www.cvnkalari.in/

その後、彼は何回か来日して家にも泊まったが、何故か歌謡曲の番組にも出演して超人的なボール蹴りを披露したと思う。ご覧になりましたか?

その父であるグルカル(師匠)、ゴーヴィンダンクッティ・ナイルは、割合、早く亡くなられた。もともと、カラリパヤットはケーララ州でも北の方の伝統であり、村のあちこちに道場があって、朝飯前、農作業の前に身体を動かすみたいな感じだった。

戦闘訓練だが、武人階級とされるナイルのみならず、他のカーストもイスラーム教徒も習っていた。今や世界中からC. V. N. Kalariに学びにきているようだ。コロナ騒ぎが収束したら、また、訪れてみたいものだが、いつの日だろうか。

トリヴァンドラムの町

ケーララはインド西南部、マラバール海岸と西ガーツ山脈に挟まれた細長い州。

トリヴァンドラムの中心には有名なパドマナーバスワーミ寺院があり、この寺院の倉庫から桁違い、1兆円単位の財宝が発見されたことが、近年、話題になった。東インド会社を通じての交易によるようだが、当時、寺院や僧侶がどのように関わっていたのだろうか。まだ、その報告は未見である。
https://www.nikkei.com/article/DGX/

この寺院の周り、フォート地区にカラリ道場があり、また、カタカリ学校のマールギーもある。クーリヤーッタム部門はこの地区から離れているが、公演はカタカリ学校で見た。創設者のアパクタン・ナイルが、これまたものすごいなまりの英語でカタカリやクーリヤーッタムの解説をしてくれたものだ。

達磨大師ボーディダルマ

また、少林寺拳法の団体が1982年頃にカラリパヤットの調査旅行を行っている。達磨大師が少林拳の開祖とされているからだ。その会報誌『あらはん』1983年3月号などに鈴木義孝が寄稿している。通説によると、達磨大師は南インドの香至(カーンチー)国の王子で、シルクロードを通って崇山少林寺に入ったとされる。他にも様々な説があって伝説に彩られ、実在が疑われている。

そこで、少林寺拳法のルーツを尋ねようと、マドラス、トリヴァンドラム、コーチンを回ってカラリパヤットと少林寺拳法の交流演武を行い、ナーガルコイルなど、併せて24名の師匠から武術や医術、人体の急所について取材を進めたそうだ。

コーチンの道場主ヴァースデーヴァン・グルカルが、薬草を採取して、骨折、捻挫の治療をし、また、オイル・マッサージと骨盤調整をすることを報告している。最終的には心の病を治す、魂を救うシッダ(成就者)を目指しているようだ。微妙にハタ・ヨーガ行者の指導者ナータや仏教系の解脱した成就者シッダの系譜とクロスしているように思える。

ちなみに、日本の少林寺拳法は宗道臣の作り出した体系で、映画に見るような中国の少林拳とは別物である。

動物の動きを真似る

ヨーガに動物のポーズがある。魚、らくだ、わに、孔雀、コブラ、ライオン等々。カラリパヤットにも、魚、猫、蛇、馬、象、ライオンなどがあり、それがカタカリで演技する象やライオン、蛇の型に影響を与えたという。そもそも最初にカタカリを演じたのはカラリパヤットの戦士だった。

中国にも五禽の戯というのがある。伝説的な医者の華陀の創出と伝えられる、虎、鹿、熊、猿、鳥の動きを真似ることによって健康を保ち、病気を予防する。
https://www.youtube.com/watch?v=uVjSHE4Q3OE

周の時代の戦争は、マハーバーラタのように戦車(馬車)に乗った戦士によって行われた。戦士は貴族の子弟から選抜され、学校に入り、学問と舞いを学んだ。舞いには文舞と武舞があり、武舞は武器を持って戦争を再現する舞いであり、これをもって軍事訓練とした。京劇などの立ち回りは武術そのもののようで舞いとの近さが窺える。

ハラッパーで発見された角のある神?、足を折りたたんで達人座のように座る姿の彫られたインダス文明の印章にヨーガの起源を求めることが多い。エリアーデが主張したので定説化しているが、フリッツ・スタールはこの説を退けている。わたしも子供の頃、習ったわけでもないのに犂のポーズをやっていたし、逆立ちや鳥や獣、蛇や亀の真似というのは子どもなら誰でもやることだ。お風呂の中では息を止めていた。

世界中のどこにでもそのような体操、呼吸法の起源がある。それが瞑想法として思想体系とともにヨーガが確立していくのはウパニシャッド時代。インド文化の装いをまとってこそヨーガなので、気功、太極拳、ピラティスなど原理は似ていてもヨーガとは呼ばない。

紀元前2、3世紀から行法の体系がまとめられていき、ヨーガ・スートラはグプタ朝期の4、5世紀に完成。さらに、ハタ・ヨーガ、シャクティ信仰と結びついた「努力を要するヨーガ」の形成はそれ以降。

ハタ・ヨーガの語の初出は後期密教経典『グヒヤサマージャ(秘密集会)・タントラ』で8世紀頃の成立と思われる。ヒンドゥー側のハタ・ヨーガの教典として残されるのは13世紀以降のこと。

佐保田鶴治によると、『グヒヤサマージャ・タントラ』の施護訳『一切如来金剛三業最上秘密大王経』(11世紀初め)にはハタ・ヨーガが副行法(ウパサーダナ)の第2段階に位置づけられ、「彼喝陀等法 近成就儀軌」とある。ここでは便宜的にハタ(力)を喝陀と当てたが、大蔵経では、こざと偏ではなく女偏である。サンスクリットの発音が反舌音なので、無理してその字を作って区別したのだろう。

また、松長有慶による訳は「近成就」の項に、「一向に悟りに至る悉地があらわれない場合、ハタ・ヨーガを行ずべし」とあって、密教行者の修行、サーダナの一環としてハタ・ヨーガが取り入れられていた事が分かる。後期密教の行者とヒンドゥーのヨーガ行者の交流が窺える。

ヒトは直立して歩き、椅子に座るので、肩こり、腰痛に悩まされる。動物の真似をすればよい。また、大脳新皮質の働きを抑えることがストレス軽減になるので、お手本は動物だ。夕日に向かうミーアキャットなどは瞑想の達人、達獣ではないか。コロナ騒ぎも関係なく達観している犬や猫がうらやましい。

参考文献

佐保田鶴治『ヨーガの宗教理念』平河出版社、1976年。
松長有慶『秘密集会タントラ和訳』法蔵館、2000年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2020.11.16