河野亮仙の天竺舞技宇儀㉛

仏典の伎楽、日本の伎楽、そしてチャム

伎楽というのは日本の芸能史の中で重要な位置を占め、その実態が分からないのに必ず取り上げられる。

実態が分からないというのは、仮面しか残っていないので、どのような芸能が行われていたのかは想像するしかないということだ。

日本書紀には推古20(611)年、妓楽、伎楽について百済から帰化した味摩之が伝えたと記される。伎楽舞「くれのうたまい」に長じていて、飛鳥の桜井に少年を集めて教習したという。

しかし、味摩之(時に味摩師、未摩子)というのが果たして人名、個人名なのかも不明で、舞人の総称とも考えられる。呉の国というのが、朝鮮半島にあるのか、中国江南にあるのか、天竺の東北にある呉という説まであるが、はっきりとしない。くれは句麗、すなわち高句麗の楽という説も唱えられている。他にも西域の楽、印度支那の楽、隋の散楽、ギリシア由来等々何でもいえそうである。

『新撰姓氏録』(9世紀初めに成立)には、欽明朝(539~571)に呉国主の子孫である智聡から出た和薬使主(やまとのくすしのおみ)が、大伴連狭手彦(さでひこ)に従って内外典薬書や仏像と友に伎楽調度一具をもたらしたと記される。

狭手彦は欽明期に百済に使したことが分かっている。任那復興のために戦い、高句麗の王宮から戦利品を得ると共に、多くの高句麗人を伴って来日した。彼らは山城国狛人の祖になったという。伎楽の調度をもたらしたことに不思議はない。

先に仮面や楽器(笛、腰鼓、銅拍子)、衣装が整えられ、その後になろうか、伎楽を演じる者の来日したことも予想される。しかし、道化をやる役以外は誰でもよくて、歩くだけだった可能性もあり、一式が揃った時点で見よう見まねの伎楽の表演は可能であった。

橘寺、四天王寺、東大寺、大安寺、興福寺、さらに筑紫の観世音寺でも行われた。国家的行事に際して行われることもあった。主として寺院の楽であるのだが、あまり仏教的な内容ではない。

『延喜五年観世音寺資財帳』の伎楽章(906年)によると、42人の伎楽の演者と元からある伎楽二具と新たに施入された伎楽一具が備えられていた。筑紫館(鴻臚館)で新羅使等をもてなすために行われていた。鴻臚館というのは外国の使節などをもてなす太宰府にあった迎賓館である。

異人たち異形の者の仮装行列

伎楽というのは本質的には仮装行列、ストリート・シアターである。劇場のない時代、大勢の人に見せることが出来る演出はパレードで練り歩くことである。京都の葵祭、奈良の御祭、ディズニーランドのパレードと同じである。また、PAのない時代に声は通らないので、壬生狂言のように身振りでしか表現できない。壬生狂言も伎楽の日本的発展型なのかもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=nxkVhWkM36U
https://www.youtube.com/watch?v=CgV35apeDTI

いや、ミッキーやミニーは架空の存在なので仮面を被らざるをえないが、婆羅門とか崑崙(東南アジアの人)とか呉公が実際にいれば、仮面を被らないで、そのまま行列すればよいのだ。かるら=ガルダ鳥はインド起源の想像上の鳥だが、虎やライオンはいても獅子舞はインドにはない。

「伎楽」が発生したのはインドではなく、中国の国際貿易都市、インドや東南アジアと交流のある広州のような港町近辺ではないのか。

仏教公伝も欽明13(552)年とされるように、6、7世紀には韓半島から僧侶や学者、職人等が次々とやって来て新しい文化をもたらした。伎楽の大本が何処にあるのかは特定できないまでも、朝鮮半島から渡ってきたということまではいえそうだ。様々な異人や力士、獅子、迦楼羅鳥の登場する仮面芸能は革新的で、大いにもてはやされたに違いない。

13世紀の『教訓抄』には、その演目の模様が比較的詳しく記されるが、それが導入当時の伎楽と同一である保証はない。

『教訓抄』は南都楽人の狛近真(こまのちかざね)が雅楽の衰退に危機感を持って書き残した書である。もともと芸能者は自分が面白いと思う形、これがウケル、仕事が取れるという方に持って行く。伎楽の場合、伝承システムも保持されず、文化財保護的に同じ形を保っているとは思われない。

法華経の伎楽

伎楽という言葉は仏典に現れる中国語である。従って、元はサンスクリットなどインドの言葉の翻訳語である。2世紀半に成立して2世紀後半に翻訳された『道行般若経』巻三には、仏に供養すべきものとして香華、幡とともに伎楽が上げられている。

3世紀に翻訳された『正法華経』にも伎楽の語は見え、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』法師品には、供養すべきものとして「華香、瓔珞、抹香、塗香、焼香、繒葢、幢幡、伎楽、歌頌」が上げられ、ここにおける伎楽の原語はvadyaである。

残っている法華経梵本は、中国語訳より後世のものなので増補付加されていている。梵本から日本語にすると「あらゆる花、薫香、香水、華鬘、塗香、粉香、衣、傘、旗、幡、勝利の旗、あらゆる歌、鳴り物、舞踊、鐃(ゴングあるいはベル)、鈸(シンバル)」等が取り上げられている。

歌の原語はgita、鳴り物はvadya、舞踊はnrtya。そして、鐃はturya、鈸はtadavacaraと『佛教漢梵大辭典』にあるが、鳴り物、打ち物の意味である。法華経には様々な楽器の名が記されるが、実際の形状、現在のどの楽器に相当するかは判じがたい。

古代インドの楽器は打楽器が中心で、笛やチャルメラ様のものは認められるが、弦楽器の使用は稀で、ほぼ西方からの影響に限られる。仏教の儀礼では日本においても鐃鈸(にょうはち)といって、ゴング、シンバルが用いられる。

鐃は古くは2、30センチのおたまじゃくし様の銅ベル、銅鐃が奈良の寺院には残り、東大寺修二会でも用いられた。この形状はわたしの知る限りではインド、チベットにはなく、中国かおそらくは朝鮮の様式と思われる。

古代中国で鐘(しょう)はつるして叩く、杏仁形の楽器。繞(どう)は小型の鐘で、釣り輪がないので鐘と区別され、また、内部に舌がないので鐸とも異なる。鉦(しょう)とも呼ばれた。

伎楽の楽器としては、笛、鼓、銅拍子が記される。銅拍子の拍の代わりに鈸という漢字の金偏を足にした字の跋、手偏の字も使われるが、バチッとした音の楽器ということだ。この時代の繞は大きな鈴なのか、鉦(かね)だとすると壬生狂言の楽器構成だ。チンドン屋も伎楽の末裔なのだろうか。

『佛教漢梵大辭典』で伎楽の梵語を調べると、nrtya 舞踊、vadya 鳴り物、turya 楽器、preksana 見世物、natana-nartaka 舞踊家、vadita 鳴り物、samgiti 歌舞の語が見える。

つまり、われわれ日本人は「伎楽」という特定の芸能があるようなイメージを持つが、少なくともインドに「伎楽」はない。あるのはヴァーディヤやトゥーリヤ、つまり、鳴り物、打楽器の演奏で、音が鳴り出すと自然に踊り出して、歌も付くようになるということだ。

伎楽とチャム

チャムの大きな被る仮面を見ると、日本人は伎楽と関係があるのかと思う。それを論文にしたのが木村理子だ。氏はモンゴルに留学したほかチベットでもブータンでもチャムの調査を進めた。
https://www.youtube.com/watch?v=3K-yh7Jrnis

その「モンゴルのチャムと伎楽の比較考察」という論考は興味深いものがあるが、「伎楽も密教儀礼であり、インドから密教伝来に伴ってチベットに伝えられ、その後、変容しつつも、発展していった密教儀礼がチャムであったことを考えると、インドから(古密教系)仏教の伝播に伴って、百済を経て日本に伝来された伎楽も一種のチャムである」と結論づけるのには無理がある。

確かに8世紀後半、道鏡は古い密教の経典を学んで密教修法を行っていたようだが、伎楽との接点があるのだろうか。この時代の初期密教はいわゆる雑密で、悟りを目的としない呪法が中心だ。

空海が805年に学んだ「大日経」「金剛頂経」はインドで7世紀中から成立し、中期密教と呼ばれる。チベットの仏教はソンツェン・ガンポ王の時代、640年頃に中国とネパールからもたらされた。大化改新の頃ということになる。

密教行者、呪術者のパドマサンバヴァがチベットを訪れるのは780年代であるが、実際にチャムが成立してくるのは13世紀頃と思われる。8世紀以降に発達した後期密教の成就法、ヴィジュアライゼーション、リアライゼーションを前提としているので、同じ密教といっても古密教とはハイブリッド車とT型フォードほどの違いがある。

伎楽から迎え講へ

伎楽の衰退というのはいろいろと原因が考えられるだろう。飛鳥時代に大和の国から唐天竺に目を開くという存在意義はあった。しかし、雅楽の発展に伴い、伎楽は唐楽の中に取り込まれ独立しえなくなった。仏教に伴って寺院で行われていたものの、滑稽な物真似芸で仏教教理とはなじまない、物珍しさのみの異人行列である。

平安時代、源信僧都が迎え講、練り供養を始めたと伝えられる。その基になるような祭礼を工夫した僧侶や芸能者は他にも存在したことだろう。阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩らの面を被ってお迎えに来て、極楽浄土へ連れて行ってくれる行事の方がアピールするのは当然である。伎楽は、単なる仮装行列を換骨奪胎して作り上げた二十五菩薩来迎会に取って代わられたのではないか。
https://www.youtube.com/watch?v=7b9YYvc1wZ4
https://www.youtube.com/watch?v=nHW1Ukp5RHM

インド舞踊から見た林邑楽

第5回で菩提仙那 Bodhisenaに伴って来日した仏哲と林邑楽についても述べたが、ここでも簡単に触れたい。林邑楽は752年の東大寺大仏開眼供養会において伎楽、唐や高麗、日本の楽舞等と共に披露された楽舞である。それは国内および海外の国々に、東大寺、毘盧遮那如来が世界の中心であることをデモンストレーションしたイベントである。仏教の祖国である天竺から来た婆羅門僧正菩提が導師を勤め、正当性を示した。
https://tsurumi-u.repo.nii.ac.jp/index.php?

仏哲についてはインド名も分からない。Vijayaではないかとの説もある。シュリーヴィジャヤ国が今のインドネシアにあったように、ヴィジャヤ、ヴィジャヤナガル(勝利の都)は、地名、国名としてありふれている。ヴィジャヤから来た人という通称かもしれない。

また、林邑国とは一般にはベトナムとされているが、もちろんその頃にベトナムという国はない。

林邑国はチャンパ国ともいわれるが、もともと東インドにあったチャンパーの人々がやって来て移り住んだのが今のベトナム中南部ということになる。リトル・インディア、あるいは、ニュー・チャンパーである。7世紀頃に朝鮮半島から様々な職種の人々が日本に渡ってきたが、同様にインドからインドネシア、インドシナ半島にもどんどん人が渡っていった。

仮にベトナムの地に生まれたとしても仏哲はインド人、インド系でインド文化を身に付けている。インドから東南アジア、中国へと渡り、時として海賊に転じる海商の一族だったのではないか。彼らには国境も国籍もない。菩提僧正も海商に伴って呪的な用心棒として乗り込む僧侶と推定した。

唐から天竺へは太宗の時代から朝貢の記録がある。書記、通訳、あるいは通商代表であってもおかしくない。伝説から読み解くと、仏哲は海難事故で僧正に助けられて弟子になったと思われるが、どのみち両者は楽人ではない。

仏哲は僧正に付き従う従者、孫悟空や沙悟浄のような斥候、ボディガードであろう。武術の達者な者は身体が利いて踊りもうまいので、お国の踊りを見せてくれといわれたら、何か披露したかもしれない。

林邑三楽の「菩薩」「抜頭」「倍臚」は婆羅門僧正菩提と仏哲がもたらしたとする。僧正も踊ったのであろうか。わたしはヒンドゥのみならず仏教の僧院も学芸の中心で、楽舞が盛んに行われたと考えているので、いくらかの知識はあったと思われる。

チャンパーの踊りというのは、ミ・ソンなどベトナムの遺跡に残された寺院彫刻から見ると東インド的である。様式化されたチョーラ朝のナタラージャー像とは異なるが、踊るシヴァ神の像も造られている。いわゆる三屈法で表現されオリッシー・ダンスに近い。オリッシー・ダンスというのもパリカンダという武術訓練が基礎になっている。ネパールのヴァジラヤーナ・ダンスもバラタナーティヤムよりはオリッシーに近いと思う。
https://danang.style/tourism/144
https://www.vietnamnavi.com/miru/125/
https://www.travel.co.jp/guide/article/6038/

仮に仏哲が舞いの名手であったとしても一人ではどうにもならない。伴奏者がいないのだ。同じインド出身だったとしても、生まれた地も育ちも違うので、菩提僧正が同じ歌や踊りを共有しているとは思えない。

また、古代インドの楽器は、カタカリに見るように太鼓とシンバル、ゴングが中心でメロディ楽器は発達しない。同じケーララ州のパンチャ・ヴァーディアムという5つの楽器からなる楽隊は、ティミラという細腰鼓、マッダラムという横型太鼓、イダッキャという音程の変わるトーキング・ドラム、小シンバルのターラム、メロディの吹けないコンブーというラッパで編成されるが、ラッパはパッパラパッパッパーとパーカッシヴに使われるのみだ。
https://www.amazon.co.jp/

仏哲が舞いのアイデアを示したとしても伴奏は雅楽の楽人が務めることになる。インドとはリズムも音階も異なる。また、インド舞踊の衣装はシンプルなもの、お不動さんや仁王様のような格好のはずで、中国的な雅楽の衣装とは大いに異なる。

林邑楽といっても実質的には菩提や仏哲の名を借りて日本在住の楽人が作り上げたものにならざるをえない。

参考文献

今枝由郎・橋本和雄『ブータンのツェチュ祭』平河出版社、1994年。
荻美津夫『古代音楽の世界』高志書院、2005年。
加藤敬・塚本佳道『マンダラ群舞』平河出版社、1984年。
木村理子『モンゴルの仮面儀礼チャム』、風響社、2007年。
〃 「モンゴルのチャムと伎楽の比較考察」『國文學/密教の臨界』2000年10月号、第45巻12号、學燈社。
芸能史研究會編『日本芸能史1』法政大学出版局、1981年。
河野亮仙「儀礼と芸能のアルケオロジー」色川大吉編『チベット・曼荼羅の世界』小学館、1989年。
諏訪春雄・菅井幸雄編『古代の演劇2』勉誠社、1998年。
林屋辰三郎『古代中世芸術論』岩波書店、1973年。
樋口隆康『中国の古銅器』学生社、2011年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2020.10.20