河野亮仙の天竺舞技宇儀㉗

ギリシアからインドへ、インドから東南アジアへ

前回に触れたインド古代の舞踊家は何を身にまとったかという問題をもう一度。

そもそもホモ・サピエンスの着衣が何時からなのか記録はない。それは保護を目的としているのか、おしゃれのためなのか。何をもって着衣というのか。

動物は四本足で、人間は二本足で立つのが基本、しかも尻尾がない。動物は体毛により、そしてまた、尻尾によって肛門と生殖器が保護されている。ところが人間は直立してしまったものだから、さあ大変。体毛はいつしか薄くなり頭部の保護のために髪の毛が残っている。尻尾の根っこも残っているようだが無用になったので、その代わりに?生殖器保護のため陰毛が残っている。

それだけでは寒いので、イメージ的に原始人はマンモスを追っかけて、皮を身にまとっている。ヒマラヤに住むシヴァ神も象皮を被り、虎皮を腰に巻く。山の人、狩猟民族を象っているのだろう。その反対に南国では腰蓑がイメージされる。

相撲取りも下がりを付ける。まわし、あるいはふんどしの歴史というのは調べられているのだろうか。ふんどし以前は腰蓑で陰部をスダレ状に隠していたのだろうか。

服飾史や仮面学というのはあるし、ケネス・クラークは『ヌード』という大著を書いているが、ヌードとは裸体像のことで、裸自体はあまり問題にはならない。

ギリシアの裸体競技はクレタに始まり、スパルタを経由してアテナイに伝わったとプラトンは語った。師のソクラテスは、女子も男子と同じように文芸、音楽、体育を学ぶべきだと主張した。すると、じゃあ女子も男子と一緒に素っ裸でレスリングに取り組むんですか。なんか、おかしな話になりますねえとグラウコン(プラトンの兄)が受け答えしたことがプラトン『国家』に語られていた。

ギリシアの男子は普段は短い衣だが、女子は頭から足まで白い布ですっぽり覆った。ところがスパルタでは女子も競技にわずかな薄物で参加させて太ももをさらしたが、アテナイの人からも顰蹙をかったそうだ。

アポロンは裸体であったが、アフロディテは古い儀式の伝統のためか衣をまとっていなければならなかった。その裸体像は紀元前5世紀頃からである。アフロディテ、いわゆるヴィーナスは羽根のある少年エロス(キューピッド)を伴うことが多い。

インドの古い彫刻を見ていると、全裸も着衣もあるが、裸で紐を装身具のように腰に巻き、おへその辺りからその紐の残りを数十センチ程度真下に垂らしている図がある。

保護的に幅広で厚い生地に見えるものもあるが、紐では衣装というよりは装身具、アクセサリーではないのか。隠すという意味の着衣ではなく、網タイツをはいた方が引き締まるように、すっぽんぽんよりは首飾り、腕輪、そして腰紐を垂らした方がアクセントが効いて綺麗に見えるということなのだろう。

武器としての円盤

学生時代に授業でヴィシュヌ神の武器であるチャクラは、オリンピック競技の円盤だと教えられた。日本の仏像もチャクラを受け継いでいる。印欧語族の中でギリシア語とサンスクリット語が近い関係にあるが、楽器でもつながりがあるようだ。

もちろん、古代の楽器も音楽も残っていないが、グレゴリオ・パニアグアというきわめてマニアックな音楽家が「古代のギリシア音楽」というアルバムを創作した。当時、活躍していた長岡鉄男というオーディオ評論家が抜群の優秀録音盤として宣伝して、かなり売れたのではないかと思う。古い楽譜や彫刻、壺絵などを参考に楽器まで復元して創作した音楽だが、太鼓などインド楽器に似ていると思った。

竪琴もある。「ビルマの竪琴」という小説が有名だが、これもインドからもたらされたものであろう。彫刻などに残っているがインドでは使われなくなった。

ヴィーナーというのは単に弦楽器という意味で、元は竪琴、小さな手持ちハープだったのだろうが、今は独立した堂々たる楽器に成長している。

アウロスといって1人で同時に2本を吹くダブル・リードのオーボエの様な楽器があるが、サーンチーの彫刻にも2本の縦笛をくわえる図がある。

ピタゴラスや弟子は宇宙の調和についての知識の根本として天球の音楽を研究した。これも宇宙的なインドのラーガの理論に影響を与えているのかもしれない。ジャズでもドリアン・モード、リディアン・モードなどとギリシア由来の音階、教会旋法が使われる。

ホログラフ

京都の東寺に火羅図と呼ばれる絵図がある。二十八宿、十二宮、九曜、北斗七星が描かれた天体図である。元の発音はホーラーでサンスクリット語からギリシア語にまで遡るもので、ホロスコープのホロである。
http://www.toji.or.jp/2013_autumn.shtml

インドの科学史を研究している矢野道雄は「火羅図はバビロニアで起こり、ギリシアで発達した占星術がインドに渡って変容を遂げ、さらに中国の要素を織り混ぜて日本で受け入れられたことの証拠」と記す。

法隆寺金堂の徳利柱が、エンタシスといってギリシアの影響を受けたといわれたこともある。

イオニア発の彫刻技術

彫刻と呼んでいいのかアショーカ柱も石工の技術によるもので、ギリシア、イオニア人がもたらした。アレクサンダー大王がペルシア帝国を滅ぼした後、職人たちが移ってきたといわれる。アショーカ柱の先端にはインドの紋章となるライオンの像があり、西方的な要素が認められている。柱にはブラーフミー文字などでアショーカ王詔勅が刻まれている。
http://www.buddhachannel.tv/portail/spip.php?article15567
http://www.kamit.jp/02_unesco/01_sanchi/sanchi.htm

サーンチーのストゥーパ、第一塔の建設はアショーカ王(前273~236)の時代にまで遡るという。その後前2世紀頃に増築され、1世紀初期に大塔の4つの門が作られ、そこに彫刻が刻まれている。

それより古いのが、カルカッタ博物館に納められているバールフット遺跡の彫刻である。インドで最も古いストゥーパを飾る欄楯の彫刻が残されている。仏陀の前世の物語が数多く描かれている。仏塔を守るヤクシャと女性像、樹木の精であり豊穣の女神ヤクシー、またはヤクシニーの像が有名である。その豊満な姿はアフロディテ像の影響を受けているとされる。

ヤクシャ、ヤクシーともに当時の王侯貴族の正装であろう。乳房は隠さず、胸飾、腕輪を身に付け、腰巻きを太股に巻き付けた上、宝石を付けたような太い帯メーカラーを締めている。さらに、その上に腰紐を巻いてその余りの両端を前に長く垂らしている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Yakshini

ガンダーラにおける仏像の中には、ヘラクレスのような金剛力士が認められ、羽根をはやした童子形の飛天など、ギリシアのエロス(アフロディテの子)像の影響かと思われる。

初め仏陀像は造像されず、仏陀なき仏伝図が描かれていたが、2世紀頃からギリシア彫刻の影響下、ガンダーラとインド中央部のマトゥラーで仏像が作られるようになった。

ポリスの移動と神聖娼婦

アレキサンダーの東征というのは、単に軍隊で攻めていったのではない。ポリス、都市国家を建設しつつ、軍隊とその後方部隊というか、商工業者を引き連れて移動し、定着させている。それだけではない。文化施設もだ。王はアリストテレスを師としたが、多くの参謀、戦略のみならず、学術、行政、経済の学者を幕僚として迎え、引き連れていた。

信奉する学芸の神ミューズの神殿を建設する。そこに各地の珍しい産物、戦利品が捧げられる。神官がミューズの前に奉納されたものを整理分類する。美術、工芸、動植物を陳列する場所ミューゼオンを造る。ミュージアムのルーツである。

神殿はナチュラル・ヒストリー、学問の府であり、また、近所には歓楽施設が設けられ、神殿に奉仕する巫女は神聖娼婦としての役割を果たした。彼女らもアレキサンダーの遠征軍に、神官に付属した巫女としてついていった。また、逆にインドの少女も奴隷として買われていった。

劇場には俳優もいて、仮面劇を上演した。その仮面は全く失われ、壺絵に描かれているものが残るのみ。インドのセミナーで、ギリシア人の俳優だと思ったが、ちらりと復元したのを見せてもらったことがある。

ヴィンディヤ山中のラームガル洞窟の碑文からは「神聖なる売春」についての言及がある。前2世紀頃のことか。「すぐれた青年で画家のデーヴァディンナは神のはした女スタヌカーを愛した」とある。Sutanukaとは美しい身体を持つ女という意味なので、遊女の別名である。

マルコポーロ『東方見聞録』にも南インドについての記述がある。マルコはコンスタンチノープル以東には行っていない。実際に見聞したのではなく、何人かの伝聞を総合した「東方伝聞録」と思われる。

「この地の寺院には多数の男女の神が祀られていて、信者は自分の娘を自分の信仰する神に捧げる」「男神と女神がむつまじくして情交をもつときは、世の中はうまくいくが、そうでないときは不幸が訪れる。したがって、神を刺激して情交させる必要がある。娘たちはそのために募られ、ほとんど裸で、両神のまえで唱歌し、舞踊し、身を臥せてのたうちまわる」「足を高く首の上まであげて踊る。その間、かたわらで貴族たちは食事をしている」

飛天とアプサラス

飛天に相当するサンスクリット語はないのだが、天の楽人とされるガンダルヴァとその妻である踊り子アプサラスの名は、ヴェーダ時代から知られる。ガンダルヴァは儀礼で用いるソーマ酒の番人とされる。6世紀頃のアジャンタ第16屈の天上などには2人が寄り添うミトゥナ像として飛天が描かれる。

有名なサールナートの初転法輪像(5世紀)の両肩の上方でも飛天は舞っている。ボロブドゥールやチャンディ・ムンドゥット(8世紀頃)などのインドネシアの寺院彫刻にも現れるが、最もよく知られるのはカンボジア、アンコールワットのアプサラスであろう。

スーリアヴァルマン2世が12世紀に建設した壮麗なヒンドゥー寺院で、天上世界を地上に再現したといわれる。主神のヴィシュヌ神を供養する役の女神はデヴォダとも呼ばれる、飛天ではなく直立するものが多いが、1700体ほど刻まれている。王は、「毎日必要なものは、踊り子、歌手、道化師、楽団、米、油、聖布、ろうそく、線香、花云々」と供養に必要なものを列挙している。
https://www.youtube.com/watch?v=J_IpnNn17xA
https://www.youtube.com/watch?v=Erbp1Isk96M

また、後のジャヤヴァルマン7世の建てたタ・プロームの碑文によると、12世紀の終わり頃、この寺院に615人もの踊り子がいたことが記される。

アンコールワットにおいても同様で、インドのチョーラ朝の寺院がそのモデルかと思われる。踊り子像は下履きの上に腰布をまとい、腰紐で締めているように見え、上半身は裸である。

アンソニー・リードの『大航海時代の東南アジアⅠ』によると、東南アジアを訪れたヨーロッパ人も中国人も、住民が素足で、イスラームや貴族など上層階級以外は何も被らず、上半身裸であることに驚いている。中国からの影響があるベトナム以外は、縫製された衣装というのは一般的ではなく、インドと同じように布一枚をまとう。

19世紀初め、クロフォードはジャワ人について、正装した時、ジャワ人はほとんど裸だと述べる。また、祭りの時、マレー人の女性たちが、ポルトガルの衣装から採用したといわれる上半身のゆるやかな衣装のクバヤさえ、常に透き通った生地であったとウィンステッドは語る。

リードの本は国文学の田中優子、現法政大学総長が翻訳しているのでちょっと驚く。

ヒンドゥーの神像というのは、ジャカルタの国立博物館に西部ジャワ・チブアジャから発掘された6世紀頃のヴィシュヌ神像が知られ、南インド、パッラヴァ朝の影響を受けているといわれる。

仏像は、やはり同博物館に納められているが、パレンバン出土の観音菩薩像、ジャンピ出土の仏陀像が知られ、7~9世紀頃の作とされる。両地はシュリーヴィジャヤ王国の本拠地かと目されている地である。

扶南国の外港と思われるオクエオの遺跡(2~7世紀)からは、ローマ金貨やガラス玉、宝石、インドからは仏像やヒンドゥー神像が発掘されている。

ベトナム中部にあったチャンパー国はシヴァを信仰し、オリッシー・ダンスのように三屈法で腰をくねらせた踊るシヴァ像が造られたが、ベンガル地方、オリッサの影響が強い。ベンガル地方におけるチャンパー国の貿易民が移住して作った街に由来するかと思われるが、チャム人はマレー系である。
https://www.pinterest.jp/pin/475692779377683859/?d=t&mt=signupOrPersonalizedLogin

6世紀から8世紀までインドやクメール王国と交流し、多くの寺院を建設する絶頂期であったが、8世紀にはジャワの攻撃を受けてポー・ナガル寺院などが破壊される。10世紀には再びジャワと結び芸術面でも交流が行われる。
https://www.vietnamnavi.com/miru/125/

この頃はヒンドゥー寺院のみならず、仏教寺院にも踊り子がいて、金剛界曼荼羅にそれは反映される。インドでマンダラは全く喪失した。チベットのマンダラ図に供養菩薩は女性像で表されるが、中国、日本では儒教の影響で男性像となる。

しかし、東寺西院本、いわゆる伝真言院曼荼羅などはふくよかで女性的、母性的な姿で表現され、また、インド的な図像でもある。由来は謎だ。NHKの番組で、オリッシー舞踊家の安延佳珠子に、この踊りは何ですかと聞いていた。
https://dohosha.thebase.in/items/9196680

曼荼羅は仏の住む世界なので、大日如来に仕えるしもべの女がいる。それが八供養菩薩であり、内の四供養菩薩、金剛嬉菩薩、金剛蔓菩薩、金剛歌菩薩、金剛舞菩薩は大日如来の分身である阿しゅく如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就菩薩を供養する。外の四供養菩薩、金剛香菩薩、金剛華菩薩、金剛燈菩薩、金剛塗菩薩は、四仏が大日如来をもてなす。

香華灯明、歌舞を奉納する役のデーヴァダーシーを象徴化し、菩薩として表したものであろう。嬉の言語はラースヤで女性的な舞いのこと、蔓は華鬘マーラー、舞はヌリティヤ、塗とは身体に塗る塗香ガンダのことである。

参考文献

アンソニー・リード著平野秀秋・田中優子訳『大航海時代の東南アジアⅠ』法政大学出版、1997年。
伊東照司『インドネシア美術入門』雄山閣、1989年。
〃  『アンコールワット』山川出版社、1993年。
稲垣正浩『スポーツを読む』三省堂選書177、1993年。
〃 『スポーツを読むⅢ』三省堂選書182、1994年。
ケネス・クラーク著高階英爾・佐々木英也訳新装版『ザ・ヌード』美術出版社、1988年。
古代オリエント博物館『壺絵が語る古代ギリシア』山川出版社、2000年。
定方晟『インド性愛文化論』春秋社、1992年。
杉山二郎『オリエント考古美術誌』NHKブックス、1981年。
チャン・キィ・フォン、重枝豊『チャンパ遺跡』連合出版、1997年。
フランシス・ウッド著粟野真紀子訳『マルコ・ポーロは本当に中国に行ったのか』草思社、1997年。
ベトナム社会科学院編石澤良昭・富田春生訳『チャム彫刻』連合出版、1988年。
矢野道雄『星占いの文化交流史』勁草書房、2004年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2020.06.11