河野亮仙の天竺舞技宇儀㉖
インド舞踊の謎/衣装について
自明のことは記述されないので、これはわたしが知らないだけで、謎でも何でもないのかもしれない。実は、インド舞踊のコスチュームに関する詳細なウェブサイトがあったので、下記に紹介する。服飾や装身具関係については疎く、わたしのボキャブラリーも乏しく説明しにくいのだが、絵と写真を見るだけである程度は理解できる。
https://sangeethas.wordpress.com/2012/12/11/old-vintage-photos/#comment-7412
https://sangeethas.wordpress.com/2013/11/09/some-historical-snippets-of-bn-part-16-dance-costume/
https://sangeethas.wordpress.com/2013/11/25/some-historical-snippets-of-bn-part-18-male-dance-costume/
https://world4.eu/india-devadasi-jogini-costume-hindustan-19th-century/
ご存じのようにカタカリは仰々しい衣装で登場する。肩パッドなど着けてポルトガルの衣装の影響を受けたといわれる。偉い人物というのは、貧弱であるべきでなく、大きく見せないといけない。
顔もエラのような貼りものをして大きく見せる。隣のカルナータカ州のヤクシャガーナも、重厚なカタカリと比べ踊りも軽やかであるが、こちらは被り物が大きい。また、他の地芝居の衣装を見ても、男役は着衣が普通だ。
しかし、バラタナーティヤムなどの古典舞踊で男は上半身裸で、ブラーマンの場合は聖紐ヤジュナ・ウパヴィータを衣装のように左肩から掛ける。坊さんの袈裟の掛け方も同じだ。左は不浄だから隠すということか、実用的には右利きが多いからだろう。女性の踊り子も花環を左肩から掛けているように聖紐のようなものを掛けていることもある。
一応、仏像について使われる用語も紹介するが、これは中国語であるし、日本の服飾史と彫刻史で用いる用語も異なり、専門家の間でも一致しない。元のサンスクリットやヒンディー、タミルで何というのか、たどれないところもある。さらにスカーフ、ショール、ストール、ズボン、パンツ、ショーツ、スパッツ、タイツ、猿股?など微妙で、日本語でなんと表現したら誤解が少ないのかも難しい。表現が変なのもお許し願いたいが、これからの課題としたい。
また、仏像の着付けを紹介するサイトもあった。元ネタは西村公朝『やさしい仏像の見方』で、シャクティがモデルとして着付けを行っていた。これは今でも手に入る本だ。インドのブラーマンの腰衣の着付けも見られる。サリーの着付けも一応付けておく。
https://okamotoorimono.com/kyojin/kesa/
https://www.youtube.com/watch?v=-Wm3_fZYQKM&t=443s
https://www.youtube.com/watch?v=EEOwfwOJdOU&list=TLPQMTQwNDIwMjBbxyUn993Eqw&index=2
彫刻・絵画に見る衣装
衣装について物語っているのは、まず、古代の彫刻である。絵画としてはアジャンタの壁画に紀元前後の絵画が残る。そして、何百年も隔てて、細密画が豊富に残されている。細密画というのは、最初は聖典を記したパーム椰子の葉に書かれたイラスト、装飾画が出発点である。紙に描かれるようになったのは14世紀からのこと。紙はインドで長く貴重品であった。
近世に入ってからの北インド宮廷での踊りの模様は細密画に描かれ、イギリス人などの絵画や写真も残されている。今日のカタックとつながるといえば、つながるんだろうが、跳躍やスピードのある回転が描かれることはない。昔のパキスタン、パターン族の継承するカタックの写真を見ると、衣装や動きは細密画に見える宮廷の舞いにより近いような気がする。
細密画において踊り子は必ず着衣であるが、これは女性の身体を覆い隠すべしというイスラームの影響と思われる。アジャンタ等の古代の絵画に見える踊り子の多くは腰巻きを巻いて、頭や腕に瓔珞、装身具を付けているが、上半身裸のように見える。
細密画の場合は、透けて見える薄手のものを羽織ったり、乳房の上半分を覆うようなブラウスの着方をしている。これではすぐにずり上がってしまうので、バストを強調するための絵画的表現なのだろうか。それとも、暑いから通気のためにそれで良いということなのか。
前200年頃のハールフットの彫刻はカルカッタ博物館に納められていてよく知られている。何人かが踊っている。
https://sangeethas.files.wordpress.com/2012/11/bharhut1925.jpg
https://sangeethas.wordpress.com/2013/04/25/who-are-the-dancers-in-the-bharhut-sculpture/
内容についてはいろいろ議論されているが、釈尊の誕生を祝う場面かと見られている。衣装として見ると、腰巻きを両足に巻き付けてたくし上げ、腰にベルト、飾り帯をして、さらに腰紐で締めて余りを前に垂らしている。これが古代のダンサーの衣装の基本形であろうか。
https://www.youtube.com/watch?v=cU39v4Gt5jI
中国貴族の飾り帯は、昔は宝石を散りばめてあったので、僧衣の名前としては石帯と呼ばれる。もちろん、今は宝石や装飾は付いていない。
カジュラーホーの彫刻などには、長い腰紐を正面で結んで下に垂らすものもあるが、要するに裸なので陰部を隠していると思われる。衣装として左右の足の外側と中央へそから下に装飾的なカバーを付けることがあるが、これは戦士のプロテクターか。
タイの仮面舞踊コーンの衣装もこの着付けを踏襲している。敷布のような腰布を巻くのではなくて、ズボンをはいて、敷布ではなくバスタオルくらいの大きさの布を腰に巻くようになる。
https://www.youtube.com/watch?v=i8OhkMaNyto
上半身については、古い像でもブラウス様のものを着用してるようにも見えるものがあるし、さらに天衣というのか、羽衣のように長いショールを羽織ることもある。インドにおいて衣服は、サリーにしても腰衣のドーティにしても、長さ数メートルの布を巻き付けるが基本で、僧衣も同じだ。
袈裟のルーツ
僧衣の場合は裳とか裙というが、昔のインドでは普通の人も部屋着、普段着は男も女も下半身の腰巻きのみであったと思われる。
釈尊の時代、修行者は人里離れた墓場、死体遺棄の場所シマシャーナで瞑想修行していた。そして、クシャ草の繊維、樹木の皮や頭髪、馬の尾で作ったものなどを身にまとっていた。釈尊は墓場に落ちていたり、死体からはぎ取った不浄な布きれを縫い合わせたものを着ていた。糞掃衣(ふんぞうえ)という。それが袈裟の始まりである。
また、普通の人は白い布をまとっていたので、仏教教団に属していることを示すために縫い合わせて染めた衣をまとった。今でいえば草木染めか。上座仏教の僧侶は下着、上着の内側というより、下の半身にまとう下衣アンタラヴァーサカ、上衣ウッタラーサンガ、あらたまったお出かけには重ねて着るという意味で重衣、複衣サンガーティの三衣をまとった。
日本の袈裟の本を見ると、下衣が五条で、上衣が七条、九条以上が複衣と変な説明がなされている。五条の上に七条を着るようなことはないのであるが、上座仏教の場合は三衣を重ね着することもある。
僧侶は三衣と托鉢のための鉢の所有だけが認められていた。また、ミャンマーの坊さんの礼装用の着付けに見るように、托鉢に出るときなどは顔と手首だけ出している。これは女の人の肌に触れてはいけないという戒律のためである。
https://okamotoorimono.com/kyojin/kesa/
彫刻の女性像は、下半身は紐のような装身具だけかと思うと、薄いショーツをはいているようにも見えるものもある。写真ではよく分からないが両方あるのだろう。古代の踊り子は、はたして裸で踊ったのだろうか。
男性舞踊家の衣装
絵画に男が踊り手として現れるのは、そう多くない。仏像などは上半身裸で表現されることが多いが、男は着衣で踊ったのではないか。現代の踊りを見ると上半身裸の方が、胸の動きにも表情があって、胸から放射されるエネルギーがダイレクトに伝わってくるような気がする。
チョウ・ダンスは仮面舞踊として知られるが、何度か来日している西ベンガル州のプルリア・チョウ、ビハール州のセライケラ・チョウは仮面を被る。両者は着衣であって、セライケラの場合、青とか肌色とか仮面の色に合わせたような衣装を着ていることが多い。
今、YouTubeで見ると舞踊としてショーアップされているマユルバンジのチョウは仮面を付けない。そして上半身裸で舞っているが、昔の写真を見ると、裸の上に肩からショールのようなものを掛け、胸は露出し、瓔珞、装身具を掛けている。
さらに、田舎からそのまま出てきたようなジャルグラム・チョウの場合は、地芝居に近い衣装を着ている。仮面は被らず顔には肌色というよりピンク、赤っぽい化粧を施す。もともとは、こんな感じではなかったかと思う。
カタックの男性舞踊家も基本は着衣である。それでは、ウダエ・シャンカルはどうだったのだろうとラヴィ・シャンカルの自伝などを見ると両方ある。強いていうと、役柄の演技として行うときは着衣、ダンス自体を見せるときは上半身裸ということであろうか。
ウダエ・シャンカルが踊り始めた頃の関係者は生きていないので分からない。画学生として美術を学んでいたウダエの頭には、古代の舞踊を復元するというアイデアがあり、アジャンタの壁画、最もよく知られた蓮華手菩薩などのイメージがあったはずだ。
あるいは、ナタラージャーたるシヴァ神を踊るので、上半身裸に、装身具や宝冠というスタイルが出来上がったともいわれる。
2、3世紀のナーガルジュナコンダに見る彫刻でも、上半身裸でドーティ、腰巻きと装身具、冠となっている。6世紀マッディヤ・ブラデーシュのバーグ洞窟に見る壁画で、ダンサーはクリーム色の衣装を着ている。
7世紀ブヴァネシュワール、カピレーシュワル寺院の舞踊図では鬼面の男たちが薄い上着を着て、腰布を巻き付け、ぴったりした膝までのショートパンツ(腰布か)をはいているように見える。
10世紀チョーラ朝、タンジャヴールのブリハッディーシュヴァラ寺院の壁画には、男一人と女二人が踊っている姿が描かれる。上半身裸で腰布を巻き、装身具をじゃらじゃら着けている。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chola_fresco.png
パンツが見える?
そもそも、ブラジャーが普及するまで胸は隠すものではなく、わたしが子供の頃は、みんなのいる前でふつうに授乳していた。農家のおばあさんは夏は上半身裸だった。
画家のミゲル・コバルビアスの『バリ島』の表紙は、腰巻きを巻いて上半身裸の少女二人の絵で、そういう写真もたくさん載っている。20世紀初頭、バリ島観光はそれが売りだった。
日本の海女も昔は上半身裸だったので、それを売り物にした写真家もいた。事情はインドの田舎、山間部でも同じだったのではないかと思う。ヌードというよりはネイキッドだ。
ケーララは伝統的で古い習慣が残ったと思われるが、17世紀にニューホフがクイロン王に謁見した際、王族の女性であって上半身は肩に布を引っかけるだけであったという。20世紀半ばになっても、ナイルの女性がナンブーディリ・ブラーマンの寺に入るときは腰巻きと、肩に無造作に布を掛けるだけであった。
ブラーマンは清浄を保たないといけない。汚れが空気感染すると考えられたので、下位カーストはそのランクに応じてナンブーディリに近づくとき、ソーシャル・ディスタンスを取る必要があった。また、ナイル以下のカーストの女がナンブーディリの男に会ったら、神に対してと同様に、敬意を表するため上半身をさらさなければならなかった。
日本人は裸では失礼と考えるが、インド人はお寺に入るとき上着を着ていては失礼と考える。ギリシアの元祖オリンピック、神々に捧げる祭典では、ギリシア彫刻に見るように全裸で競技したことが知られている。もちろん、男子だけである。しかし、踊りも行われていたのだが、それは着衣だったのだろうか?
ギリシアの豊穣の女神、豊かな胸のアフロディティ像はよく知られている。これがインドのヤクシー像に影響を与えたといわれる。古代のギリシアとインドは裸つながりなのだろうか。一説では、裸で走った方が早いから全裸の競技会になったと説明される。わたしは、競技でも踊りでもぶらぶらするものがあったら邪魔で、着衣の方が引き締まると思うのだが。
『パンツが見える』というのは国際日本文化研究センター所長となった井上章一の著書で、白木屋の火事で逃げ出すときにパンツをはいてなかったから云々を論じた羞恥心の文化史である。インドの彫刻史においても、誰かパンツをはいてるかどうか徹底的に調べてほしいものだ。
ケーララの武術カラリパヤットの練習着はふんどしである。北インドのレスリング道場アカーラーではビキニに近いような短いパンツをはいている。ペシャワール博物館蔵にある2、3世紀の相撲のレリーフは、ふんどしというよりまわしに見えるものがある。これはむしろ珍しく、パンツの上にふんどしを着けて尻を隠す文化だ。西洋人も大相撲のように尻を出すのはとても恥ずかしいことだそうだ。
女性舞踊家の衣装
それでは、踊り子は何時から着衣になったのか。デーヴァダーシーは厚く身体を覆っている。バレエの「ラ・バヤデール」などは想像上のインドなので、デーヴァダーシーといってもバレエの衣装を着て、バレエの動きをしている。
10、11世紀に建設された中インドのカジュラーホーの寺院彫刻においては、薄い腰布を着けているようにも見える。それよりやや遅れるチョーラ朝の108カラナの舞踊像においては、膝の辺りまでタイツ様のものをまとい、長い腰布を巻いてその余りを細く前に垂らす。
この典型的な舞踊の衣装の着方は、チョーラの影響が及んだ中部ジャワにおける宮廷舞踊の衣装の着付けに、今日も受け継がれている。
https://tsunagaru-india.com/knowledge/河野亮仙の天竺舞技宇儀⑰/
イスラームの影響で、13世紀以降に宮廷などでは上着を常用するようになったのではないかと思うが、それまでは上半身裸がふつうだった。南インドのヒンドゥー王朝では、それよりいくらか遅れることになる。
バラタナーティヤムの衣装については、やはりバーラサラスヴァティーが伝統的で、ルクミニー・デーヴィーが改変を進めた。白を基調とした黄金色の眩いばかりの衣装でデビューした。おそらく、モーヒニーアーッタムの衣装はその影響だろう。ヤーミニー・クリシュナムールティなど、それぞれが工夫を凝らした衣装を着ている。
https://sangeethas.wordpress.com/2013/11/16/some-historical-snippets-of-bn-part-17-dance-costume/
前回も紹介したように、このPart17にあるmaharanee of barodaの映像、牛にヘッドロックを掛ける闘牛の後、8分半経過したところから、無声ながら1930年代前半のバラタナーティヤム、というかデーヴァダーシーの踊りが見られます。ほかにもいろいろと激レア映像がこのサイトにはある。
タンジャブールの王女チムナバーイーⅠがバローダの藩王サヤジラオ・ガエクワードⅢ(在位1875—1939)と結婚するとき、1980年頃に、ダウリーとして贈られた品々と共に、デーヴァダーシーのガウリーとカンティマティーも送られた。
その後この二人、あるいはその後継者と交代して行った少女の映像と思われる。バグパイプのような楽器も珍しい。トッティといってドローンを演奏する。チンナメーラーといわれるデーヴァダーシーの踊りの伴奏スタイルである。
続いて14分頃からは、やはり少女による素朴なカタックが見られる。サーランギ等を立って演奏している。細密画に描かれる情景に近い。
日本の彫刻史においても着衣は研究されているが、それがインド彫刻にまでは及んでいない。近代のインド舞踊の衣装についての資料は豊富にあるが、中近世、あるいはインドネシアやカンボジア、タイと、どのようにつながっているかも未知の問題である。そのギャップを埋めていくのがこれからの研究テーマであろう。多方面からの協力が望まれる。パンツをはいてるかどうかよく調べてほしい。
参考文献
小林勝「サリー/サリー以前ーカーストと着衣規定、そして国民化」鈴木清史・山本誠編『装いの人類学』人文書院、1999年。
姫野翠「チョウの魅力/東インドの舞踊」えとのす27号、新日本教育図書、1885年。
ミゲル・コバルビアス著関本紀美子訳『バリ島』平凡社、1991年。
平川彰「三衣について」佐藤博士古希記念『仏教思想論叢』山喜房書店、1972年。
西村公朝『やさしい仏像の見方』新潮社、1983年。
ひろさちや監修松浪健四郎・河野亮仙編『古代インド・ペルシァのスポーツ文化』ベースボール・マガジン社、1991年。
松濤誠達『仏教者たちはこうして修行した』浄土選書、浄土宗出版室、1991年。
吉村玲『仏像の着衣と僧衣の研究』法蔵館、2019年。
G. S. Ghurye, “Indian Costume” Humanities Press, New York, 1966.
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論
更新日:2020.05.11