河野亮仙の天竺舞技宇儀㉒
語り部と流浪する芸人たち
サンスクリット文学史上では、ヴェーダ文献の新層にシャイルーシャと呼ばれる歌舞を職業とする者の名が見える。ヴェーダにはまだ、ナタ、舞踊家・役者の語はない。
紀元前5世紀にサンスクリット文法を記述したパーニニのスートラにナタ・スートラの語が見え、その注釈を書いた前2世紀のパタンジャリは、ナタが暗誦や歌を業とし、素行が芳しくなく、社会的評価も低いと記す。男で女に扮する者をブルークンシャと呼んだという。「演劇」に従事したかどうかは分からない。
パタンジャリはクリシュナ神によるカンサ殺し、悪魔バリの捕縛が演じられたことも伝える。ヴィンディヤ山のチョター・ナーグプル、ラームガリーの洞窟にある碑文に、なんらかの演劇に類する興業があったことが記されたのも、やはり、前2世紀のこと。
また、アショーカ王によって建設が始まったサーンチーの第一ストゥーパのトーラナ(塔門)には、カタカに比定される楽隊が認められる。物語、カターを語る者という意味だ。打楽器とともに身振りをしている。仏塔を供養しているのだろう。これがカタック舞踊の起源といわれることもあるが、時代が離れすぎている。仏教の文脈ではバーナカと呼ばれている。
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同じくサーンチー塔門には、巻物を横に開いているらしい様子も見える。絵語りをしているのではないかとも見られているが、確証はない。ベンガルの絵語り師ポトゥアの巻物ポトは縦に広げる。大道芸的には立って遠くから見えた方がよいし、声もよく通る。
ラーマーヤナを語る者はラーマの子であるクシャとラヴァの名によってクシーラヴァと呼ばれる。この双子はヴァールミキ仙によって育てられ、ラーマの物語を語り継ぐ。後にクシーラヴァの語は俳優の意味になった。
説法師ダルマバーナカ
仏伝「ラリタヴィスタラ」によると、釈尊は64種の文字をよく書いたという。いくつもの方言を話したことだろう。アショーカ・ブラーフミー以前に、インド西北部、ガンダーラ地方ではカローシュティー文字、さらにアラム文字、ギリシア文字なども使われていたのだが、釈尊の紀元前6世紀にインドで文字が使われていたかどうかは知られていない。
従って、仏説は書写ではなく口承であり、お経とは暗唱するものであった。教団内では専門というか、弟子によって得意分野があり、戒律を持する者はヴィナヤ・ダラ、説法を得意とする者はダルマ・ダラといわれた。
ダルマ・ダラはお経、すなわち、スートラをよく保持する、身に付けて暗誦するのでスートランティカ、解説する者はダルマ・カティカ、法を語る者とも呼ばれた。「ミリンダ王の問」によると、ジャータカ・バーナカ、ディーガ・バーナカなどジャータカ物語を語る者、長部経典の暗誦者などの専門家がいたことが分かる。
ハールフットやサーンチーの仏塔にある銘文からも、紀元前2世紀には専門の持経者や説法者がいたことが読み取れる。
説経から芸能へ
聖地参りをする巡礼者に対して、誦経等の讃仏供養の儀式を執り行うとともに、比喩を用いて説法をしていた者たちがいた。語りというのは、たいていの場合文語的な文句を暗誦し、それだけでは分かりにくいので口語で解説する。決まり文句の朗誦はやがてメロディアスな歌に発展するだろう。話には面白おかしく尾ひれが付くことになる。
ラージャスターンで絵解きをする芸能者であるボーパ(女はボーピー)は、縦1.5メートル、横は数メートルくらいの布パドに地方の英雄神の物語を描き、それを語り、歌い踊り、ラーヴァナハッタと呼ばれる小型のフィドルの演奏をする。サーンチーの塔門に描かれたレリーフの解説をするのも一種の絵解きである。楽器が鳴れば踊り出す。人形劇や、夜になれば影絵芝居もあったかもしれない。
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また、仏塔の周りだからといって、集まるのは仏教徒に限らない。ラーマーヤナやマハーバーラタの出し物もあったはずだ。馬鳴の「ブッダチャリタ」にはラーマーヤナの影響が強く、バガヴァッド・ギーターと法華経如来寿量品との共通点も古くから指摘されている。説経師も芸人も面白いところ、いいところを真似て取り入れたに違いない。
昔話は「昔々ある時」で始まり、源氏物語は「いづれの御時にか」、経典は「如是我聞」で始まる。仏塔を中心とした説法会では、真実の言葉が語られることにより霊力が発現して、現実を飛び越えた幻想空間へ誘う。法華経の語りなら霊鷲山での釈迦の説法に参加することが出来たのであろう。
「実利論」に記される芸人たち
紀元前2世紀の時点で、多種多様な職種の芸人がいたことが知られる。それは、「実利論アルタ・シャーストラ」にも記される。「アルタ・シャーストラ」は「マヌ法典」と並ぶ、古代インドを知るための基本文献で、マウリア朝初代チャンドラグプタ王の宰相だった、前4世紀、カウティリヤの作とされている。
実際には、マヌ法典と同様に前200から後200年頃に成立したと見られる。インドでは、古来、ダルマ(法、正義)、アルタ(実利、富)、カーマ(享楽、愛欲)を人生の目的とすることによる。そこにモークシャ、解脱が加わる。
「実利論」第2巻第27章「遊女長官」の項の25には、「役者、舞踊家、歌手、演奏家、咄家、吟誦家(クシーラヴァ)、綱渡り、奇術師(あるいはショーマン、サウビカ)、旅芸人の名が挙げられる。
第28章には歌・器楽・吟誦・舞踊・演劇・絵画・琵琶(ヴィーナー)・笛・太鼓・読心術・香や花環を作ること・会話術・マッサージ・遊女の手管など、技術(カラー)に関する知識を、遊女や奴隷女や舞台で生活する女たちに教える者には、国庫から生活費を支給すべきである」と記される。
第29章には「彼等は遊女の息子たちを、舞台で生活する者たちと一切の舞踊家たちの指導者に仕立て上げるべきである」とまるで、後のラージャダーシーやデーヴァダーシーと、その夫、息子である音楽舞踊の指導者ナットゥヴァナルを思わせるような記述がある。
山崎元一「古代インド社会の研究」には、律文献、ジャータカやパーリ仏典を渉猟して芸人や商人たちの楽しみが描かれている。
祭りの日に町は美しく飾られ、人々は着飾って出かけ、王も象や車を飾り立てて巡行する。歌や踊り、音楽が鳴り響き、物語を語るものも出現する。職人(金細工師)の集団が遊興地に仮小屋を建て、酒宴を楽しんだという。遠来の商人たちが酒や歌舞を楽しんだ話も伝えられる。
逆に、出演する芸人の方からいうと、祭りの日に村から出てきて、歌舞や太鼓などを披露して一儲けする話になる。祭りが終わると飲み物食べ物をたんまり買って村に帰る。
王の即位式も全市民によって祝われるものだが、新王は着飾って彩られた町を右回りに巡回して王宮に戻る。玉座の四方には、大臣、ブラーマンと居士(富裕な商工業者)、市民、舞妓の四集団によって囲まれたという。
都市における遊興に遊女は付きもの、あるいは呼びもので、町の経済に貢献した。ガニカーと呼ばれる高級娼婦がダーシー(家内奴隷)や遊女を仕切っていた。ガニカーは裕福なばかりでなく尊敬される存在であった。彼女らの元には長者、宮廷付きの司祭やその息子たちが通った。勿論、王のお気に入りとなるものもいた。
ガニカーのアンバパーリーは美しく、歌舞音曲をよくし、一夜に50金を受け取ったという。マンゴ園を仏教教団に寄付したことで仏典に名を留める。
ガニカーの家では一夜に1,000金を取るとも伝えられる。500金がガニカーの取り分で、残りが経費、衣装、香料、花環等に当てられる。男はその家に入ると衣服を貸し与えられて一夜を過ごし、翌日また着替えて帰る。マハーラージャの衣装や装身具でも身につけたのだろうか。
「実利論」第2巻13章「貴金属庁における黄金長官」、同じく第19章「秤と桝の標準」に金や銀のことが規定されている。10個のマーシャ豆が黄金の1マーシャカ、16マーシャカが1スヴァルナ、88個の白芥子の種子が銀の1マーシャカ、20の米粒が1ダラナのダイヤモンドなどと書かれていても換算できない。
1金、1スヴァルナは10グラム前後とされているので、100金で高級車レクサスあたりが1台、1,000金で海外のスーパーカーが買えると思えば分かりやすい。ローマとの交易によって儲ける者は桁違いに儲けた。
お釈迦様は何時から武芸を披露したか
仏伝「ラリタヴィスタラ」には、釈尊が様々な学問と各種の技芸、スポーツと武術のあらゆる面で卓越し、妃を獲得する競争に勝ったことが記される。このことは仏伝「大事経マハーヴァストゥ」にも描かれる。しかし、1、2世紀頃のガンダーラで活躍した詩人馬鳴の仏伝「ブッダチャリタ」にそのような英雄的な活躍は描かれず、むしろ女々しく表現されている。
これを図像表現の方から探求していくと、紀元前後の仏伝美術には武芸を競う場面は描かれない。ようやく、1世紀中頃から3世紀にかけてガンダーラで制作されたのみで、同時代、他の地域で武芸は描かれていない。5世紀になるとアジャンター石窟の壁画に弓技の図が認められる。ガンダーラから中インド、南インドへというより、むしろ、中央アジアから中国へと伝えられている。
イタリア調査隊によると、スワート地方ブトカラⅠ遺跡出土のレリーフには、仏伝の「通学」「婚約」「四門出遊」「出城」「馭者・愛馬の帰城」というテーマが描かれる。クシャーナ朝の1世紀前半のものと考えられている。
スワート地方サイドゥ・シャリフⅠ遺跡からは「託胎霊夢」から「涅槃」前後に至るまでの六十数枚の石版が配置され、その中に「擲象(象をぶん投げる)」「相撲」「綱引き」等の競技を表すレリーフが認められる。これは1世紀中葉以降の制作と見られている。以降、ガンダーラ全域から出土する作例は、この三つに加えて「剣技」と「弓技」がある。
図像で示される剣の技は、互いに向き合って戦うものではなく、いわゆる試し斬り、葦や稲をすぱっと切って見せたようだ。実際に戦ったら怪我をしてしまう。
広義のガンダーラに属すタキシラの町は、古来、武術の本場として知られている。ジャータカには、タキシラに学芸、武芸を学びに行ったという話が伝えられる。インドで武術というと、ラーマやアルジュナが弓の名手として讃えられるように、ダヌル、弓が基本である。
インドの武芸書はダヌル・ヴェーダと呼ばれる。弓は、ただ遠くから的中させるだけでなく、矢を強く引いて木を打ち抜くなど、破壊力、殺傷力が評価される。
象を投げたとしても子象かと思われるが、遊牧民にとっては関節を取って羊や馬の動きを止める技、レスリングは必須であった。相撲の語は法華経にも見えるが、レスラーはマッラである。相撲はまわしを取るので、厳密には柔道と同じく着衣の競技で、インドにあるのは相撲ではなくレスリングだ。
インドに胡旋舞は来たか
胡旋舞というのは、中国において、胡人、多くはソグド人、すなわちモンゴロイドではなく色白のコーカソイドの美女がくるくると旋回して魅了した踊りだ。リボンを持って回転する新体操を思わせる。唐の時代に白居易などが詩に歌い、当時、大いにもてはやされたことが分かる。
ソグド人は、ソグディアナ(地域的には現ウズベキスタン)、ユーラシア大陸のど真ん中に本拠を構え、シルクロードの拠点にいくつものコロニーを持った。玄奘三蔵はその通商ルートでインドに行っている。
ソグド人は商人のみならず、武人、外交使節、通訳として活躍し、楽舞や幻術に秀でた。胡旋舞のみならず、胡とう舞といって戦闘的、アクロバット的な踊りもあり、安史の乱を起こした武人安禄山が得意としたという。唐の時代、外教坊には3,000人の楽人がいてその多くは妓女といわれている。
これだけ流行した胡人の舞は、果たしてインドに入って影響を与えただろうか。インド音楽において、イラン系の音楽の影響が認められるのはムガル朝からなので、盛唐の時代に現在の形に近いカタックはなかったことだろう。音楽と舞踊は一体だからだ。
胡人の舞踊もインドではなく、武芸図と同じくシルクロードをたどって中国に渡ってしまったのかもしれない。図像や文献の上では確認できていない。楽人、芸人もカースト的に縄張りを持っていて、よそ者は入り込めなかったのかもしれない。
参考文献
上枝いづみ「ガンダーラの仏伝浮き彫りにみられる競試武芸説話について」『密教図像』第38号、密教図像学会、2019年。
カウティリヤ著上村勝彦訳『実利論』上・下、岩波文庫、1984年。
小西正捷『インド民俗芸能誌』法政大学出版局、2002年。
森安孝夫『シルクロードと唐帝国』講談社学術文庫、2016年。
山崎元一『古代インド社会の研究』刀水書房、1986年。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論
更新日:2020.02.05