河野亮仙の天竺舞技宇儀㉑
シヴァ神が踊り出したのは何世紀からか/インド舞踊・演劇の始まり
インドでは何でも起源をヴェーダやインダス文明に求める傾向がある。さらに遡って神話に起源を見いだすと安心する。
ヨーガの始まりをインダス文明のシヴァ神像?に求めたり、娘が踊ってるらしい像を見つけてはインド舞踊の始まりとする。
ヨーガという体系的なものでなくても、私も子供の頃に鋤のポーズをやってたし、お風呂では息を止めたりしたものだ。中国にも導引と呼ばれる気功や太極拳の元になるような体操があり、漢代の布、帛書にその図が描かれている。後漢の末頃には伝説的な医者の華陀が導引を五禽の戯といって、虎、鹿、熊、猿、鳥の姿を真似る養生法に仕立てた。世界中で気持ちのいいポーズをやっていた人はいくらでもいるはずだ。
瞑想も決してインド起源ではなく、キリスト教の伝統にもある。それどころか、ミーアキャットは夕日を見て瞑想しているし、動物の方が瞑想の達人?ではないか。雑念・煩悩が多く、大脳新皮質が発達しているのは人間の方なのだ。瞑想とは大脳新皮質の活動を抑制する技術ではないのか。
インドの舞踊・演劇の始まり
歌や踊りというのは自然発生的なもので、ことさら起源を求めることは出来ない。インダス期に舞踊があったとしても、もちろん、その時にインドという国はないし、文化的に現在の「インド舞踊」と連続するものではなく、インド亜大陸にありえた踊りの一つにしかすぎない。
梵字の始まりはブラフマー神が作ったものという。そもそも創造の神、ブラフマー神が世界を作ったのなら、当然、梵字もその中の一つである。
演劇、ナーティヤの起源は神聖なものであって、ブラフマー神が四ヴェーダの神髄を集めて第五のヴェーダたる「演劇ヴェーダ」を作ったという。いわく、工巧神ヴィシュヴァカルマンが劇場を作った。聖仙バラタに命じて上演させ、人間の世界にも広めたという。
「ナーティヤシャーストラ」第一章によると、天上における最初の演劇はインドラ神の旗祭りに行われた。魔類の敗北を上演すると、魔物は憤慨して妨害を企てたので、インドラの旗ジャルジャラの威力で魔物を退散させた。演劇は目で楽しむ供犠、祭式と呼ばれ、神々を喜ばせるため乳海攪拌神話を上演し、神々の勝利を祝った。
リグ・ヴェーダから朗誦、台詞を、サーマ・ヴェーダから歌、音楽を、ヤジュル・ヴェーダからアビナヤ、所作を、アタルヴァ・ヴェーダからラサ、情感を得たという。
108カラナ
ブラフマー神がタンドゥを呼んで、バラタ仙にアンガハーラ、身体の振りを教えるように命じた。「ナーティヤシャーストラ」には、32のアンガハーラが数え上げられる。踊りにおいて、手と足を同時に動かす一つの単位がカラナ、二つのカラナが集まってマートリカー、二つ三つ、あるいは四つのマートリカー(母単位)が集まってアンガハーラ、振りになると説明されている。108カラナが同じく「ナーティヤシャーストラ」第四章に記述されている。
108カラナについては、第17回に書いたように、南インドのみならず、海を越えてインドネシアのプランバナンのシヴァ堂(9世紀頃)にも描かれている。ボロブドゥールの彫刻にもいくつか認められる。これも108を数え上げたのが「ナーティヤシャーストラ」の時代ということで、基本的なカラナというのは以前からあったのだろう。
シヴァ神が勇壮な踊りターンダヴァを、神妃であるパールヴァティーが優美な舞いであるラースヤを舞ったと記されている。もともと、正統圏からはずれて土着的な要素の強いシヴァ神、同じくサンスクリット的でない名前を持つタンドゥに由来するターンダヴァというのは、正統的な伝統を記述すべく書いた「ナーティヤシャーストラ」において、どうも、位置づけが不明確で、後から割り込んだように見える。
「ナーティヤシャーストラ」には、劇場の建設、ラサの理論、ハスタ・アビナヤなどの演技術について記述される。「ナーティヤシャーストラ」の写本は、1915年にアビナヴァグプタの注とともにマラバール地方で発見され、マドラスでも見つかったが、バラタナーティヤムなど現代のインド舞踊、サンスクリット劇を千年伝承しているクーリヤーッタムにしても、「ナーティヤシャーストラ」の伝統を保持していたわけではない。伝承は途絶えている。
クーリヤーッタムの伝承者チャーキヤール達は、「クラマディーピカー」という貝葉写本の演劇マニュアルを保持している。劇場クータンバラムの作り方にしても、「ナーティヤシャーストラ」に記述されるものとは異なる。
ラーガヴァンなどブラーマンの学者達が中心となって再興したバラタナーティヤムは、デーヴァターシーの伝承にカタカリ等の演技術を取り入れ、「ナーティヤシャーストラ」で理論武装した、再創造された伝統である。
「ナーティヤシャーストラ」自体もまた、文芸の発達したグプタ期に企画され、演劇の伝統を集大成しようと神話的権威を付加した、新たな伝統の創造だったのだろう。
この演劇論書「ナーティヤシャーストラ」は、600~800年頃成立といわれている。前4世紀の文法家パーニニが「ナタ・スートラ(演技者の綱要書)」について言及しているので、インドの学者は直接的に結びつける、同じものと見る学者もいる。2世紀に活躍した馬鳴の戯曲の発達具合からすると、その頃には骨格が出来ていたと思われる。馬鳴は、現代でいえば、タゴールのようなノーベル賞級の詩人で歌がうまい。
中国人は正史を書いたので歴史が分かるが、インドではマハーバーラタも成立が紀元前4世紀から紀元4世紀にかけてなどといわれ、はっきりしない。
リグ・ヴェーダが紀元前1200年といわれているのも、実は根拠、物証はない。大ざっぱに、いわゆるアーリアンの侵入を紀元前1500年において、紀元前6世紀のお釈迦様の時代の中間に、リグ、ヤジュル、サーマ、アタルヴァの四ヴェーダとブラーフマナ文献を成立順に適当に配置しただけの話だ。
シヴァ神は、ヴェーダ時代には主要な神ではなく、ルドラと呼ばれる荒らぶる暴風雨の神であったことはご存じだろうが、ターンダヴァを踊り出したのはグプタ朝、5世紀頃の話なのだ。
シルプルでは八臂の踊るシヴァ像が認められ、5世紀の作とされる。エローラでも同様の像があって、6世紀頃のものとされる。続く、パッラヴァ朝(6~9世紀)の時代に顕著になり、中ベトナムのチャンパー国(林邑)にも伝播している。
踊り出す彫刻
インドでは仏像が制作されるより前、紀元前から樹木の精霊、豊穣の女神ヤクシー、ヤクシニーの石造彫刻が残されている。木にしなだれかかって一体となったような姿で彫られた。樹木に子供を授かるように祈ったという。
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踊る像自体はシュンガ朝、1、2世紀頃のアプサラス像が知られ、腰をひねって手を挙げているが、足のステップは未発達のように見える。これはコルコタの国立博物館に収蔵されている。
また、いわゆる三屈法、トリバンガ、首と胸と腰をくねらせたポーズをとるのは、オリッサ地方の舞踊オリッシーの特徴であるが、アジャンタやエローラの神像にも見いだせる。トリバンガも、初期においては樹木に寄りかかるような静止的なポーズであるが、グプタ期の4、5世紀に入ると練って歩くようなポーズになる。
シヴァ神の彫刻についても同様で、ダイナミックに足を上げて踊り出すのはそれ以降のことだ。このシヴァ神のホーズは、いち早くシヴァ信仰の強い中ベトナムのチャンパー国にも伝えられた。ストロボを一秒間に何回も発光させて撮った写真のように、手の動きが分かるような多臂の像が描かれる。ナタラージャのポーズである。
典型的な今見るナタラージャとしてのシヴァ神の彫刻は第17回で述べたようにチョーラ朝(8~13世紀)に特徴的に現れ、10世紀過ぎに定型化していく。
あるとき、シヴァ神が森で修行する仙人たちを論破しようと出向くと、彼らは祭式の火の中に虎を作り出してシヴァに向かわせた。シヴァは難なく捕まえて皮を剥ぎ、腰巻きにした。さらに巨大な蛇におそわせたが、これまた自分の首飾りにしてしまった。さらに凶悪な侏儒ムラヤカをシヴァに立ち向かわせた。
火炎の円環の中、編んだ頭髪は踊りのため旋転し、その中にガンガー女神がいる。右足でその凶暴なムヤラカを踏みつけて、さらに、踊った。そのティッライという場所が、ウールドヴァ・ターンダヴァを踊ることによってカーリー女神を打ち負かした場所であり、ナタラージャ寺院の中心部、本尊のましますところで世界の中心とされる。
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コトコトコトという太鼓の鼓動で生命が動きだし、宇宙が開展する。一つのエピソードが曼荼羅的にナタラージャ像に表現されている。
左足を大きく上げた四臂のブロンズ像が盛んに作られた。シヴァの力がターンダヴァで表されて、火炎の中のナタラージャ像は勝利のシンボルであり、歓喜の踊りを踊る。
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人間が踊る場合は、右手で施無畏印、アバヤ・ムドラーで安心を与え、左手はガジャ・ハスタ、象の鼻のようにぶらっと下げる。右左反対のポーズも見られる。四臂の場合はもう一つの右手にでんでん太鼓、ダマル、左手に火炎を持つ。今日、このナタラージャ像は、バラタナーティヤムの舞台に鎮座まします。
このエピソードは、おそらくチョーラ朝の時に、チダンバラムの坊さんたちによって創作されたナタラージャ寺院の縁起物語、神話であろう。ヒンドゥーの他の宗派の学者たちを論破して、他の神様、民衆の間で人気のあった女性神崇拝より、ナタラージャとしてのシヴァ神を主神として選んだとことを物語る。
お釈迦様も踊った?
文献の方から見ると「ラリタヴィスタラ」という仏伝文学に、釈尊が学んだ学芸のことが記されていて、その中には語りや踊り、お笑いまである。
現存のサンスクリット語「ラリタヴィスタラ」自体は漢訳されず、外薗幸一によると紀元500~600年頃の成立である。それに近い「普曜経」の漢訳は308年であり、さらに内容が近い「方広大荘厳経」の訳出は683年。
竹取物語ではないが、釈尊は多くの王子達と競争をして勝ち抜いて嫁を獲得する。書画や算数、ヴェーダ学、各種運動競技、武術、占い等々すべてにおいて釈尊が卓越していたことが語られる。
そのなかに、ヴィーナー、鳴り物、踊り、歌、読誦、講釈、諧謔、舞い、演劇、道化という十種の芸能が取り上げられる。原語に戻すと、vina vadya nrtya gita pathita akhyana hasya lasya natya vidambita。
ヴィーナーの語がない写本もあるが(元々はなかったか)、ここでいうヴィーナーとは、現代の南インドで用いられている楽器のことではなくて、単に弦楽器という意味だ。ビルマの竪琴のようなハープも図像として残されている。
古代の伴奏楽器はほとんど打楽器ヴァーディヤである。ケーララのトリチュール・プーラムという祭りに登場する楽隊はパンチャ・ヴァーディヤムと呼ばれる。五つの鳴り物とは、三種の太鼓(イダッキヤ、ティミラ、マッダラム)と小シンバルに、音程の出せないラッパ。管楽器もメロディーを奏でることは出来ず、パッパカパーとパーカッシヴに用いられるのみだ。
また、鳩摩羅什訳法華経に見る「伎楽」の原語は、ほとんどの場合ヴァーディヤであり、音が鳴り出すと踊りも踊りだすので楽舞のことをいう。日本の伎楽面の伎楽とは別物。
ヌリティヤは一般的な意味での舞踊、この仏伝に優美な女性的舞いを意味するラースヤがあって、ターンダヴァの語がないことに注目してほしい。ターンダヴァは6世紀以降に発達する。インド舞踏といわれると落ち着かないが、ターンダヴァは舞踏か。
その時代に何が起きたかというと、仏教もヒンドゥーもタントラ化したのである。ブラフマニズム圏外の、インドの土着的な要素が顕在化する。威嚇的なポーズをとる忿怒像が造形されて流行するのは密教時代のことなのである。武器を持ち武術的な要素が彫像にも取り入れられる。バラタナーティヤムの基本的な足構えの一つであるアーリーダというのは、弓を引くポーズの足構えが元で戦士のポーズだ。
カタカリを最初に踊ったのはケーララの武術カラリパヤットを習得した王の戦士だったといわれる。中国には文舞、武舞があった。周代における戦争は戦車(馬車)が中心で、戦士は貴族の子弟から選抜されて学校で学問と舞を習った。武舞は武器を持って戦争を再現する軍事教練であった。京劇の立ち回りは中国拳法そのものである。
紀元前の興業は?
さて、文献ではなかなか年代がはっきりしないが、紀元前2世紀の中インド、チョータナガプルのラームガルヒ丘の碑文によって、その洞窟で、演劇とまではいい切れないが、何かしらの興業が行われていたことがわかる。
アショーカ王(紀元前3世紀)によって建造が始まったというサンチーの仏塔などの聖地でお祭りが行われると、坊さんや坊主もどきの説法師、絵解き、大道芸人や露天商、さらに乞食も集まったことだろう。人が大勢集まれば、食べ物、飲み物は必要だ。お土産もほしい。市が立ったか。サーンチーは丘の上にあるので、交易センター目指して、遠方からも多くの人が集まったことだろう。
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文学や経典などからも、歌手や朗誦者、役者、アクロバット、レスラーなどの格闘家(辞書にはプライズ・ファイターとある)、踊り子、売春婦がいたことが分かるが、貨幣経済の発達していない時代に、一体、彼らは対価として何を得たのであろうか。
中国では貝貨といって子安貝、つまり、タカラガイが使われていた。貨幣、売買とか負債、貯金など商業用語には貝の字が付くことが多いのはそのためだ。インドでも14世紀頃タカラガイが使われたことが知られている。米や麦と交換したようだ。
竹取物語には、一人の王子にツバメの産んだ子安貝を持ってきなさいという課題が与えられている。遣唐使は砂金を持って行ったが、ストリート・パフォーマーがそれほどもらえるわけがない。
物々交換といっても羊や牛はもちろんのこと、穀物だって量があれば重い。貴人に布を贈呈する習慣もインドやチベットにはある。昔はよく反物をもらった。高級売春婦なら金銀、宝石、衣服を頂戴したかもしれない。大きな興業ならプロモーターはそんな謝礼を得たかもしれないが、紀元前ではどんな規模だろうか。
全く想像にしか過ぎないのだが、大道芸の対価は、おそらく坊さんと同じで、基本的には食料だったのではないか。日銭を稼ぐようなその日暮らしで、食を乞うていたのだろう。祭りは市場となって、穀物をもらったら、それをまた何か高価なものに交換して持ち帰ったか。博打でスッカラカンになる人もいただろうな。人間のやることと考えれば、昔も今も同じだ。
参考文献
外薗幸一『ラリタヴィスタラの研究』上巻、大東出版社、1994年。
立川武蔵『シヴァと女神たち』山川出版社、2002年。
Ananda K. Coomaraswami, “The Dance of Siva” 1924.
G.Sivaramamurti, “Nataraja” National Museum,NewDelhi, 1974. “The Natya Sastra by a board of scholars” Sri Satguru Publications, Delhi.
付言
年末に入ってうれしいニュースが入ってきた。第13回でも紹介したクンクマ・ラールさんが、Odissi InternationalからLifetime Achievment Honourという賞をいただいた。長くオリッシーの振興に貢献したという意味だろう。
クンクマさんは1983年春頃、夫の日本での仕事に伴って来日し、舞踊家、指導者として日本にオリッシー・ダンスの種をまいた。ダンスを習ったわけではないが、私にとっても恩人であり、ある意味、盟友だ。数人が集まって習い始め、こんなに日本でオリッシー・ダンスが興隆するとは思ってもみなかった頃の話である。
帰国後デリーでは、オリッシーの舞踊家の間で、仲を取り持つような仕事を献身的になさっていたように思う。組織をまとめるというのはインド人の最も苦手とするところで、人望が厚く信用のあるクンクマさんならではのこと。
また、オリッシーは歴史も浅く、グル・パンカジ・チャラン・ダースの系統もあるが、ほとんどがグル・ケールチャラン・モーハパトラの弟子筋なのでまとまりがよいのだろう。クンクマさんはオリッシー・ダンスのレパートリーというものが、数えるほどしかなかった創始期からのシニア・ダンサーだ。
手元にはOdissi Internationalの2010年の年報がある。ここには高見麻子さんを偲ぶ記事が5ページ収録されている。よくは知らないが、年次総会を行って、成果や報告、論文を年報に記し、貢献者を表彰するという裏方の仕事を一所懸命なさっていたように思う。
以前にも紹介したが、田中晴子さんの編集された「インド回想記」七月堂は、高見麻子さんのエッセイをまとめた追悼集だが、それはクンクマさんや亡くなられたサンジュクター・パーニグラヒ、そのまた師であるグル・ケールチャランを賛美した美しい書である。
クンクマさんは私より少し年上くらいなので、「生涯にわたって貢献し」は、いささか大袈裟だが、これからも長く指導してほしいし、来日してほしいものだ。
その前に、私は日本文化紹介のプログラムで、ニューデリーのIICで2020年3月に、梵字について発表することになったので、再会を楽しみにしている。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論
更新日:2019.12.27