河野亮仙の天竺舞技宇儀⑲

「ブッダ・チャリタ」/「バガヴァッド・ギーター」/「ギータゴーヴィンダ」

馬鳴菩薩が歌うと

インドのサンスクリット文学史上で「ラーマーヤナ」が美文体のさきがけといわれ、美文体を完成させたのがグプタ朝の詩人カーリダーサ、その間に位置するのが、2世紀頃活躍した詩人アシュヴァゴーシャである。

文字通りでは馬アシュヴァの声ゴーシュ、インドでは馬の鳴き声が美しい声とされ、仏教では馬鳴菩薩と呼ばれている。めみょうと読む。日本の民俗では蚕の神様とされている。時々、フリージャズのサックスの音色が馬の叫び声のように聞こえるが。

アシュヴァゴーシャ作「ブッダ・チャリタ(仏所行讃)」がよく知られている。仏陀の所行を美しい詩で讃えた作品だ。断片しか伝わっていないが、「シャーリプトラ・プラカラナ」も文学史上重要な作品で、舎利弗と目連の仏陀への帰依を物語った戯曲である。道化の登場など、サンスクリット文学の戯曲の約束事が、この頃には、ほぼ、出来あがっていたことが想像される。

5世紀北魏の『付法蔵因縁伝』によると、馬鳴は議論が得意であったが、富那奢(ふなしゃ)に導かれて仏教に帰依する。無常を説いた頼噸和羅(らいたわら)という伎楽を作った。パータリプトラ市にやって来て、それを楽人達に演奏させた。その楽人はうまくできなかったので、自ら僧衣を脱いで白衣を着て俗人に交じり、鉦鼓(鐘と太鼓)をならして調和を図ったという。

そして、哀調を帯びたメロディーで、諸法は苦、空、無我であると馬鳴が歌うと、500人の王子が悟りを開き、世俗を捨てて出家してしまった。王は、このままでは国中の人が出家してしまうとばかり、この曲を禁止したと伝えられる。ハーメルンの笛ではないが、音楽には魔力がある。

馬鳴、アシュヴァゴーシャは、バラモン教学を収めた学者、文人であって、音楽の教養もあったらしいことが想像される。このように諸国を遊行して、仏陀を讃え、歌詠によって教化したのだろう。楽聖ティヤーガラージャがラーマを讃えて遊行した姿と重なる。

2世紀頃、おそらく貿易で潤った商人が仏教を護持して布施し、仏教寺院においても豊かな生活、文化を誇っていたと思われる。ブラーマンも出家して僧院に依拠した。宮廷に次ぐ就職先ということか。それに伴って次第に仏教寺院にも楽が取り入れられてきたのではないか。

僧院は教養のあるライターを獲得するようになり、次第に法華経、維摩経など物語性の豊かな大乗経典が発達してくる。

この稿でいう伎楽、経典に見える伎楽とは、東大寺、法隆寺などで行われた仮面劇の伎楽とは別物で、単に、インドで行われていた仏教行事に関わる楽舞を表す漢語である。

原語は、たいていの場合、Vadya、ヴァーディヤであり、鳴り物という意味だ。打楽器の伴奏であることが多いが、リズムがあれば踊り出すので、踊りが付属することも予想される。

馬鳴が作った伎楽、頼噸和羅伎とは、戯曲、演劇であった可能性が高く、辻直四郎は「ラーシュトラパーラ・ナータカ」という作品を予想している。これが中国からさらに日本に伝えられ、天台宗にはインドで作られた声明曲として伝承されている。昭和48年には国立劇場の声明公演で上演された。

バガヴァッド・ギーター

紀元前後に成立した二大叙事詩ラーマーヤナと並び称されるマハーバーラタ全18巻の第6巻の中に約700詩節の「バガヴァッド・ギーター」がある。古来、学識者の間ではヴェーダとウパニシャッドが尊重されたが、近世北インドの民衆の間ではヒンディー語版のラーマーヤナである「ラーム・チャリト・マーナス」が愛唱されてきた。

近代に入ってからは、座右の書として「バガヴァッド・ギーター」が挙げられることが多い。ガンディーもイギリス留学時代に神智学協会と接触してその意義を知るに至った。

パーンダヴァ五兄弟と従兄弟であるカウラヴァ百王子の戦闘の前に、ためらうアルジュナに対して御者を務めたクリシュナが説いた教えであり、ここにバクティ(神に対する信愛、誠信)が本格的に説かれた。

自らに課せられた行為、この場合は戦いに対して、その結果に拘泥しないで義務として行うべきであると説く。その行為を神に捧げて、ひたすら神を信頼して従うことによって、神の救済にあずかることができるとする。

また、クリシュナ神はヴィシュヌ神の化身アヴァターラである。ヴィシュヌ神は民衆を救済するために、魚や動物、人間など様々な姿をとって地上に現れる。仏教でいうと、観音菩薩が様々な変化身で救済に来るのに対応する。

クリシュナ神の信仰というのは、マハーバーラタの続編である「ハリ・ヴァンシャ」(2~4世紀頃)に牧童クリシュナの伝説が語られて育まれていく。続く「ヴィシュヌ・プラーナ」(3~5世紀)でも取り上げられる。

さらに、「バーガヴァタ・プラーナ」で、牧童として親しまれるクリシュナのイメージは出来あがり、牧女ゴーピー達と戯れているが、ここにラーダーの姿は見られない。

ギータゴーヴィンダ

ジャヤデーヴァの「ギータゴーヴィンダ」は、サンスクリット文学史上の最後を飾る叙情詩といわれ、またジャヤデーヴァは、歴史に残る最初の音楽家ともいわれる。14、5世紀ベンガルのヴィシュヌ派文学・歌謡の先駆けでもある。

ゴーヴィンダ、すなわち、牧牛者の主とは牧童クリシュナとして仮現したヴィシュヌ神のこと。ゴーヴィンダを讃える歌である。

ジャヤデーヴァは、12世紀ベンガル、セーナ朝の宮廷詩人と伝えられるが、若いときには、物乞いのように神の名を唱えながら放浪したという。托鉢をして歩き、強盗に腕を切られたという伝説もある。幸い、妻パドマヴァティーと結ばれ、苦行者の生活から家庭生活に入る。

「ギータゴーヴィンダ」は冒頭の技巧を凝らした詩節ヴァースで場所と雰囲気を提示する。12章にわたって展開され、プラバンダと呼ばれる、ラーガが指定される24の歌謡部分がある。そこには俗語の歌のリズムが反映されているともいわれ、また、仏教タントラの詩人達の宗教詩との共通点も指摘されている。

タミルの宗教詩人たちからの影響もうかがわれ、今日残っている歌では、14世紀ミティラー地方の宮廷詩人ヴィディヤーパティの歌や、今日のバウルの歌に通じる旋律があるのではないかと思う。

「ギータゴーヴィンダ」は冒頭の4詩節で物語の場所、情景を提示し神々と詩人達を讃える。続く歌謡部分ではマーラヴァ・ラーガ、ルーパカ・ターラが指定され、ヴィシュヌ神とその十化身が讃えられる。ここに歌われる十化身とは、魚、亀、猪、人獅子(ナラシンハ)、矮人、パラシュラーマ、ラーマ、バララーマ(クリシュナの兄)、ブッダ、カルキである。通常、8番目バララーマの位置にクリシュナが入るが、それぞれの歌の中でケーシャヴァ(クリシュナの別名)よと呼びかけているので、重複を避けたのだろう。

昔の音楽が残ることないが、細密画としてギータゴーヴィンダやバーガヴァタ・プラーナに取材したものが残る。ラーガマーラー・ペインティングといって音楽の情感、主題を絵に表現したものが伝えられている。
https://www.metmuseum.org/exhibitions/listings/2014/ragamala

美しきラーダーが自分の元から離れ、他の牧女ゴーピーと戯れ踊るクリシュナを恋慕い、親しい友達サキーに悩みを打ち明ける。やがて、クリシュナは自分の所に戻って、再び結ばれるという話のヴァリエーションである。

写本にヴァサンタ・ラーガなどの指定があっても、同名で今日通用しているものとは旋律型も異なって、伝承は途絶えている。新たに創作されたものとしては、高名なオリッシー舞踊家、サンジュクタ・パーニグラヒの夫、伴奏者であったラグナート・パーニグラヒの歌が知られている。
https://www.amazon.com/Geet-Govindam-Raghunath-Panigrahi/dp/B07BZDJZDC/ref=sr_1_6?keywords=raghunath+panigrahi&qid=1568897170&sr=8-6

クリシュナと恋人ラーダー、ゴーピーとの戯れを歌い上げる「ギータゴーヴィンダ」は、多分に演劇的な要素がある。戯曲とは認められないものの、1499年にはジャガンナータ寺院で上演されたと記される碑文がある。インド中の中世演劇に影響を与えた。

「ギータゴーヴィンダ」は北インドやネパールのみならず、ケーララにも伝わり、ソーパーナム・スタイルの歌謡「クリシュナギーティ」が生まれる。それはクリシュナーッタムという、カタカリ舞踊劇の前駆となった舞踊劇を成立させる。ジャヤデーヴァの妻パドマヴァティーが踊り子であったという伝承もある。オリッサのみならず、インド中で上演されたと思われる。

直接、その伝承が続いているわけではないが、「ギータゴーヴィンダ」は今日のオリッシー・ダンスの代表的な演目となり、また、バラタナーティヤムの演目としても取り入れられている。

参考文献

天納傳中『天台声明』法蔵館、2000年。
梶山雄一・小林信彦・立川武蔵・御牧克己訳注『ブッダチャリタ』講談社学術文庫、2019年。
定方晟『カニシカ王と菩薩たち』大東出版社、1983年。
辻直四郎『サンスクリット文学史』岩波全書、1973年。
徳永宗雄「ヴィシュヌ教諸派」『インド思想2』岩波書店、1988年。
原実『ブッダ・チャリタ』中央公論社、1974年。
小倉泰・横地 優子訳『ヒンドゥー教の聖典二篇―ギータ・ゴーヴィンダ デーヴィー・マーハートミャ』東洋文庫(677)、2009年。
上村勝彦訳『バガヴァッド・ギーター』岩波文庫、1992年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2019.10.31