河野亮仙の天竺舞技宇儀⑱

タンジャーブールからトラヴァンコールへ

さて、話は第十六回の続きになるが、三楽聖の時代に、有力な文芸のパトロンであったのが、マラータ王のサルフォージ二世(在位1798-1832年)である。彼の没後、音楽家、舞踊家はトラヴァンコール王国のスワーティ・ティルナールの元へ移った。

1956年、マラヤーラム語の言語州であるケーララ州の成立前は、英領マラバールと藩王国のコチ(コーチン)とトラヴァンコールに分かれていた。現在はタミル・ナードゥ州に属すヴェーナードの王マールタンダ・ヴァルマ(在位1729-58)が、他の領主らを征服して創ったのがトラヴァンコール王国である。

ヴェーナードのパドマナーバプラムが元々の首都で、王国の守護神パドマナーバとは、へそから生えた蓮(パドマナーバ)の花の中にブラフマー神をいただくヴィシュヌ神のことで、とぐろを巻いた大蛇(アナンタ)を寝床にして横たわっている。

トラヴァンコールは先進的で、下級裁判所の設立、英語学校、公立図書館の開設、税務調査と土地査定、国勢調査、気象台の設立等、近代を開いた。

インド西南部ケーララ州都トリヴァンドラム(現ティルヴァナンタプラム、聖なる蛇アナンタの都)では、パドマナーバスワーミ寺院が有名。2011年のニュースで、150年ぶりにその地下倉庫を開いたら、百億ドルとも二百億ドルとも見られる金銀財宝が発見されたという。その後の報告は見ていないが、莫大な利益は海外交易によるものであろう。
http://nazo108.sblo.jp/article/95081150.html

スワーティ・ティルナール・ラヴィ・ヴァルマは、1813年生まれで46年に亡くなっている。マールタンダ・ヴァルマ王が、パドマナーバスワーミ寺院を現在の形に建設したという。大いに稼いだのは彼の時代なのか。元々のパドマナーバプラムにある王宮はケーララ特有の木造建築で慎ましい。

ティルナールは十六歳にして藩王となる早熟の天才であった。英語も含め十三カ国語を話し、音楽、絵画、彫刻に堪能、自ら学芸に秀でた芸術の庇護者であり、南インドのみならず、北インドからも音楽家、舞踊家を招いた。ティルナール作とする曲は四百もあり、北インドのドゥルパド、カヤール等々あらゆる音楽形式にも習熟し、そのほとんどが宗教歌である。サンスクリット語、マラヤーラム語、ヒンドゥスターニー語、テルグ語、カンナダ語の歌を作った。

タンジョール四兄弟のヴァディヴェールは、三楽聖の一人ムットゥスワーミの弟子であるが、バイオリン名人として知られる。ティルナールから象牙のバイオリンを賜ったという。以降、カルナータカ音楽において重要な楽器となる。

ヴァディヴェールはタンジャーヴールから踊り子一座をドヴァンコール王国に連れてきたので、ティルナールはヴァルナム、パダム、スワラジャティ、ティッラーナという舞踊のための曲を多く作った。何曲かは四兄弟との共作である。元祖「踊るマハラジャ」だったのかもしれない。

ヴァルナムの作者として彼の右に出るものはいないといわれ、今日のバラタナーティヤムの曲として人気がある。ヴァルナムとは、練習曲の形式の一種で、サリガマパダニサの階名唱と歌詞の部分が交互に現れるものだ。

パダムは詩的表現を重視する。マドゥラ(甘美な)・バクティといって、人から神への信愛を歌う形だが、男女の愛の物語として理解される。ゆったりとしたテンポの歌曲。デーヴァダーシーが歌い踊ったが、バラタナーティヤムの重要な演目でもある。アビナヤ、歌詞の内容を身振り手振り、目や顔の表情で伝えるのが中心。

ティッラーナはタキタカディミなどの口三味線、口唄歌を中心としたリズミカルで軽快な曲。ヌリッタと呼ばれる身体運動が中心で、しばしばリサイタルの最後を飾る。
https://www.youtube.com/watch?v=1DabudO94Fw

宗教やカーストを越えてインド各地から多くの音楽家を招き、好待遇を与えた。同様に様々な舞踊一座を招き、宮廷の専属になった一座もいる。様々な様式の画家、ヨーロッパの画家にも惜しみなく報酬を払った。詩人や学者も受け入れた。

イギリス国王もティルナールを高く評価していたが、1840年にこの王国の駐在官となったカレン将軍は敵対して、行政に干渉し、イギリスに不利な情報を送った。世俗から遠のいて、王国の守護神パドマナーバに深く帰依し、祈りと冥想をして1946年12月25日に短い生涯を閉じた。

トラヴァンコール王国は、逆三角形のインドの底の方にある。最南端はタミルのカニヤークマリ、いわゆるコモリン岬。英国支配の直前に、爛熟した北インド、南インドの伝統が、金銀財宝の如き音楽舞踊の至宝が、トラヴァンコールに流れ落ちたかと思うと興味深い。伝統インド最後のあだ花だった。

インド武術の道場C. V. N. カラリ

トリヴァンドラムは、インド留学から帰った後の十年ほど、毎年、訪れて根城にしていた。

1983年の夏、利賀フェスティバルに招かれ、トリヴァンドラムから来日したK. N. パニッカルの率いる劇団ソーパーナムが、プランBや早稲田銅羅魔館でも公演を行った。

パニッカルやヤクシャガーナを喧伝したカラントとは、1981年に、B. H. U.で行われた国際サンスクリット学会で顔を合わせていた。何故か、私がパニッカルを成田空港まで迎えに行った。

我が延命寺でも友人達を招いて小さな会を催した。その際、劇団員がカラリパヤットというケーララ州の武術を披露した。劇のトレーニングとして取り入れているという。

ピーター・ブルックの劇団が「マハーバーラタ」を制作するときにも役者達が習っていた。

滞在の間、氏は訛りの強い英語、早口でケーララの芸能の話を続け、そのため興味を持って翌年には、ケーララに向かう。

パドマナーバスワーミ寺院にも近い、フォート地区の東にあるカラリパヤットの道場C. V. N. Kalariに泊まって、カラリパヤットというケーララの武術を習うことになった。

当時のグルカル(師匠)は早くなくなり、ご子息サッティヤンが道場を継いでいる。アーユルヴェーダのマッサージを生業としている。背中の上に乗っかって、ココナッツ・オイルをすり込む。日本で古武術の道場主が接骨師をしているのに似ている。
https://www.youtube.com/watch?v=5aR-pkqOtAc

平成生まれの人には分からないかもしれないが、昔のアリナミンのコマーシャルでボールを蹴って見せた「いやはや鳥人」その人である。撮影はコヴァラム・ビーチのリゾートホテルで行われ、私も立ち会っていた。浅葉克己ご一行様の仕事であった。
https://www.google.com/search?

今ではその本家の方から指導者が来て、東京にもカラリパヤットの教室がある。昨年、インドネシアでアジア競技会が行われた時には、インドネシアの武術プンチャック・シラット(かなり中国拳法に近い)も正式種目となり金メダルを何個も稼いだ。将来、インドで行われる頃には、アジア競技会の種目にならないものか。
http://kalari.jp/

ちなみに、達磨大師は南インド香至国(カンチープラムか?)の第三王子という伝承があり、少林拳の開祖とも伝えられる。日本の少林寺拳法の団体が達磨大師の祖国であるインドを訪ね、少林寺拳法のルーツはカラリパヤットではないか、これが達磨大師によって中国にもたらされたとした。似てないこともないが、達磨大師の存在、史実性も疑われている。大野晋の日本語の起源がタミル語にあるという説が流行った頃の話である。

パニッカル来日の翌84年、第二回増上寺インド祭りの中でケーララの芸能、仮面劇チョウなどの写真展を行い、その後もケーララやカルナータカ州の芸能を追いかけ、『カタカリ万華鏡』として結実する。

先輩や後輩を案内して、今や、ケーララの芸能・武術を習う人、研究する人も少なからず出てきた。本を見て現地に向かったカメラマンもいる。クーリヤーッタム等公演団体の来日も増えた。開拓者と自負しているが、どこからも表彰されたことはない。

参考文献

河野亮仙『カタカリ万華鏡』平川出版社、1988年。
古賀万由里『南インドの芸能的儀礼をめぐる民族誌』明石書店、2018年。
丸橋広実『おしゃべりなインド舞踊/ケララに夢中』ケララ企画、2018年。
森尻純夫『歌舞劇ヤクシャガーナ』而立書房、2016年。
B.C. デーヴァ著中川博志訳『インド音楽序説』東方出版、1994年。
V. ラーガヴァン編井上貴子・田中多佳子訳『楽聖たちの肖像』穂高書店、2001年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2019.09.24