河野亮仙の天竺舞技宇儀⑥
インドを夢見た僧侶たち
わたしが学生の頃は、インド旅行というと、仏跡参拝が多かった。父が行った仏跡ツアーの同行講師は密教学者の頼富本宏だった。その縁で、わたしもかなりお世話になったのだが、先年亡くなられてしまった。
また、ヒッピー旅行といって、沢木耕太郎『深夜特急』のような旅をするものが多く、探検部の同級生もそんな旅をした。ちょっと上のインド学や文化人類学の先輩たちにもヒッピー旅行をした方々が少なくない。
インドのみならず、香港やタイからカルカッタへ、さらにバスに乗ってパキスタン、アフガニスタンからヨーロッパまで貧乏旅行をするパターンだ。わたしも誘われたことがある。
今日、企業の仕事でインドへ行く人は増えてるが、仏跡参拝は少なくなった。お坊さんは日中国交回復の後、日本仏教各宗派の祖山がある中国に参拝するようになったからだ。
ことは昔も同様で、日本仏教の祖師となった高僧たちも、皆、中国に留学してインドまで足が伸びない。陸続きの中国や朝鮮半島からは、インドへ渡った僧侶の記録が少なくない。
唐の時代の文献に倭国僧金剛三昧がインドに渡ったとある。しかし、本名も分からないし、日本側の記録でその存在は知られない。最澄(766-822)も空海(774-835)も中国に一、二年留学するのが精一杯という状況だった。
空海の謎
最澄は天台学を学ぶため、天台山目指して短期の研修旅行をした。空海は二十年の予定、次の遣唐使が迎えに来るまでのはずであった。インド僧般若三蔵に梵語を習い、恵果阿闍梨から密教を授かるとすぐに帰国した。事情が許せば、密教の本場であるインドに行きたいと思ったのではないか。
真言を唱えるにも、漢字で音写したのでは母音の長短も曖昧で、正確に唱えられない。正確に発音しないと効果が得られないので、空海は梵語習得の必要性を認識していた。
空海の足跡をたどると、入唐前に七年ほど記録に現れない空白の期間がある。おそらくは大安寺や東大寺などで経典を勉強して語学を習い、山岳修行したのだろうから謎でも何でもない。いつ得度・受戒したか、そして、どうやって遣唐使船に潜り込んだのか、具体的なことは知られていない。
天台の安然によると藥生として、つまり、薬学を勉強するために乗り込んだというが、この伝承は真言側では採用されない。実質的には、筆力を買われて大使の書記として働いたようだ。大使の帰国後は長安の街を探索し、青龍寺の恵果の元にたどり着く。
最大の謎は資金調達だ。おそらく最澄の三倍、五倍の資金を用意したに違いない。それだけの経典や書籍、仏具、曼荼羅を持ち帰っている。
それよりはるかに謎なのは、幾多の大曼荼羅をどう用意したか。お店で売ってるわけではない。画家に頼んで描いて貰うのだ。いくら工房で多人数によって描いたとしても、数ヶ月であれだけ準備できるものだろうか。この点について検討されたことはない。学者や僧侶には分からない世界だ。
高岳法親王
インド志向は弟子に引き継がれた。空海の弟子に高岳(たかおか)法親王真如(799-865?)がいる。
平城天皇の第三皇子であるが、薬子の乱のあおりを受けて、出家する。円仁(794-864)の行った承和の遣唐使以降、遣唐使使節は派遣されなかったので、自分で行くことを決意する。円珍(809-884)のように中国人の商船に乗り込むことを考える。
空海の晩年に十年ほど師事したが、その亡き後、指導する者がいない。未解決の点を唐に渡って尋ねたいと考えた。円珍を乗せた唐の商人李延孝を頼り、僧侶だけで十名以上、総勢六十人を越すチームを組んで難波津から太宰府に向かう。
ところが、着いてみるともうすでに、李延孝の商船は博多を出発した後。そこはさすがに皇族、自分で船を造らせて、難波津を出てから一年後には唐に向かって出発している。貞観4(862)年のこと。もう、六十歳を過ぎていた。何という意思力、胆力、その財力。
五台山を参拝し、名刹を訪ね、高僧に会って教えを請う。しかし、はかばかしい答えが得られない。広東からさらに天竺行きを試みるも、そこから消息が途絶える。
『三代実録』には、羅越国からの噂として旅行中に遷化したと記される。船でインドへ行くルートから考えるとマレー半島の南辺り。後の道長の兄である慶政の日記には、ベトナム辺りで虎に襲われて亡くなったという話になっている。
遙か彼方の天竺
また、明恵が釈尊思慕からその遺跡を訪ねたいとインド行きを夢見たことはよく知られている。紀州湯浅、鷹島の海に足をつけて、この海の水は釈尊のいる天竺に通じているのかと恋慕したことはよく知られている。
明恵は「真言は梵学を宗として然らずんば詮無し」と梵学、梵字梵語の学習を重要視した。また、釈尊の時代のような戒律を守ることによってこそ、修法も授戒も験があると考えた。
栄西が二回目に宋に渡ったときは、諸手続を進めてインドへ行くつもりだった。政情不安のため、許可が下りず、結果的に臨済禅を持ち帰ることになった。インドに渡ったら野垂れ死にしていたかもしれない。
歴史上、インド亜大陸に行ったことがはっきりしているのは、仏教徒ではなくキリスト教徒であった。イエズス会の拠点が、当時、ポルトガル領のゴアにあった。1548年にアンジロウ、ジョアン、アントニオという三人の日本人がゴアに上陸している。アンジロウはフランシスコ・ザビエルを日本に案内する。
また、九州のキリシタン大名は、1582年、天正少年遣欧使節を送る。マカオ、コチンを経てゴアに立ち寄っている。85年ローマ教皇に謁見している。各地を巡って歓迎され、90年無事に帰国する。よくもまあ四人とも無事に帰ってきたものだ。
御朱印船の時代には、天竺へ行った、祇園精舎に詣でたとする記録がある。ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマーにまで足を伸ばしたが、そこを南天竺と認識し、そのまた奥に、中天竺があると心得ていたようだ。 東インドといえば、インドネシア方面だし、西インド諸島はコロンブスのいうインディアスのこと、キューバ、ハイチ、ジャマイカ辺りだから、そういう理解もありかと思う。
寛永9(1632)年には、森本右近太夫が祇園精舎を参拝したとするが、インドではなくアンコール・ワット辺りのことであろうか。
伝統的に五天竺というものの、具体的にどの地方であるかは明確ではない。現ビハール州のナーランダ僧院や霊鷲山が中天、アーンドラのアマラーヴァティー、ナーガルジュナコンダ辺りが南天とするとその間は千キロほど。東海道を往復するくらいの距離だ。
法隆寺には鎌倉時代に写された五天竺図が残っている。想像上の仏教世界が描かれ、そこに玄奘三蔵のたどった道筋が書き込まれている。インドへの案内図とするのは無理な話だが、明恵はこれを眺めて夢見ていたのか。
インド学、文献学の始まり
江戸中期になって、浄厳は明恵に倣い、高山寺で自誓授戒して如法律を唱える。諸教の根源は梵文であって、密教の肝要は悉曇学、つまり梵学であるという。ちなみに、国学の契沖は、浄厳と共に高野山で文献学、音韻学の手法を学んだ。本居宣長も悉曇学を学んで国語学の基礎を築いた。本来、仏典研究の基礎としての梵語学、音韻学は、日本で独自に形を変えて研究され、五十音図もその中から生まれた。
1783年、ベンガル最高法院判事としてカルカッタに赴任したウィリアム・ジョーンズ(1746-1795)は、ヒンドゥー法研究のため、サンスクリットを勉強し、文学好きからカーリダーサの「シャクンタラー姫」、ジャヤデーヴァの「ギータゴーヴィンダ」を英訳した。近代的な比較文法学の始まりである。「シャクンタラー姫」はゲーテに影響を与えた。
ちょうど同じ頃、日本では慈雲が独自に梵語を学び、仏典の原典研究をする。1776年に葛城山中の高貴寺に入る。これはアメリカ独立宣言の年であった。
慈雲もやはり、釈尊の精神に戻ろうと禅を修め、戒律を重視して正法律を唱える。仏学は梵学にありといって、悉曇学の研究を進める。とはいえ、辞書も文法書もないなかで限はあった。
密教学、曼荼羅研究の大家である。良寛や白隠と並び称される能書家でもある。また、和歌などで民衆へ易しく教化し、「十善法語」を表す。インド憧憬と梵学、つまり、インド研究、原典研究と実践、戒律復興は一体であった。
仏典の戒律研究をしていたので、天竺の地を踏んで直に体験したいという気持ちは強かったことだろう。
近代仏教学を始める
原典研究をしたい、真実の仏教を知りたいという思いから南條文雄と笠原研寿は、明治9年に日本を発ち、オックスフォード大学でマックス・ミュラーに師事する。南條がイギリスから帰国すると、持戒、高徳で知られる増上寺門主福田行誡は、てっきりインドで仏教を学んだもの、釈迦牟尼が歩いたインドの大地、仏跡を踏んだ足と勘違いして、南條の足を拝した。それくらい、僧侶たちのインドへの憧れ、釈尊への思いは強かった。
一方、慈雲に発する戒律復興運動は釈雲照が受け継ぐ。明治16年、湯島の霊雲寺で十善会を設立する。目白僧園で河口慧海は雲照に真言律を学ぶ。雲照の弟子に甥の釈興然がいた。スリランカに留学した興然は、横浜の三会寺で河口慧海や鈴木大拙にパーリ語を教えた。大拙もインド・セイロン島への留学を希望していたのだが、老子『道徳経』の翻訳を頼まれ、ポール・ケーラスの元に渡米する。渡米中に神智学会員のベアトリスと出会い、結婚する。
僧侶たちが憧れのリアル・インディアに行けるようになるのは、やっと明治になってからのことだった。
英領インドのセイロン島に釈興然や釈宗演等の僧侶が留学してパーリ語の仏典を勉強するようになった。明治23(1890)年には、コロンボのスマンガラ長老の元で釈興然ら七名の日本人が学んでいたという。しかし、そこで行われているのは上座部の仏教である。
次には大乗仏教を勉強しよう、大乗仏典の原典を探そうということで、コロンボで学んだ大宮光潤が、一時帰国後出直して、明治33(1900)年カルカッタに向かう。翌年、真言の堀至徳も岡倉天心と共に渡印し、堀はタゴールの元、シャンティニケタンで学ぶ。
堀は、真言実行会で仏教復興運動をした丸山貫長(女人高野と呼ばれる室生寺の住職)の弟子であった。丸山は、慈雲の弟子である能満院海如に師事した。堀は、同じく丸山に指導を受けた岡倉天心に誘われ、共に船に乗り込むことになった。
井上円了の開設した哲学館(東洋大学の前身)で、南條の教えを受けた河口慧海や能海寛らはチベットを目指す。大宮孝潤も、そこで共に机を並べて学んでいた。
1902年井上はインドに向かい、カルカッタで大宮と河口に再会する。河口は井上をバナーラスに案内し、そこでアニー・ベサントに出会う。
1905年にネパールで多くの梵語仏典を入手した慧海は、それを読みこなすためサンスクリット語学習の必要性を感じていた。1906年、神智学協会第二代会長アニー・ベサントの創設したバナーラスの中央ヒンドゥー学院に教授用の宿舎を与えられ、サンスクリットを学ぶ。その時の校長は、後に第三代会長となるジョージ・アルンデールであった。ケンブリッジ大学出身で歴史を教えに来ていた。
アルンデールの家庭教師だったのが、リードビーターで、日本でもその著『チャクラ』は、1978年に平河出版社から出版されている。『神智学入門』もたま出版から出ている。
この学院(神智学院と記した本もある)に滞在中、河口の「Three Years in Tibet」の草稿を、ドイツ人教授に見て貰って完成した。出版も1909年8月神智学協会からで、この著作によって河口の名は世界中に知れ渡る。欧米の探検家たちがチベットについて書き表した後ではあったが、ベサントは同じ東洋人仏教徒としての視点が面白いと尻を押した。『チベット旅行記』は、面白すぎるほどの冒険譚で、日本では最初、でっち上げのほら話だろうと思われていたが、西洋人のお墨付きを得て評価された。
最初、この英文を仕上げたのはアルンデールかと思った。しかし、謹厳実直な教育者のアルンデールと、真面目なんだかいい加減なんだか分からない得体の知れない慧海とは馬が合わなかったと思われる。絶対、世話になったはずなのに、慧海の本にアルンデールの名は出てこない。
一方、仏跡を訪ね歩きたい、仏教東漸の路を明らかにしたいという気持ちから、浄土真宗本願寺派第22世法主となる大谷光瑞は、1902年8月、ロンドンからサンクトペテルブルクに赴く。探検隊を率いてパミール高原を越え、1902年11月、スリナガルに至る。12月はガヤーに着いて、井上円了、河口慧海と邂逅する。インド仏跡に参り、調査を敢行した。大変な苦労をした天竺の旅、留学であり、堀至徳、藤井宣正、清水黙爾等この時期にインドで命を落とした日本人僧侶は少なくない。
大谷光瑞の孫である大谷紀美子は、60年代半ばにマドラスのカラークシェートラに留学してバラタナーティヤムを学んだ。冒険家の血であろうか、この時代に女子がインド留学するのはかなり勇気のいることだ。ルクミニー・デーヴィーとジョージ・アルンデールの夫婦が1936年に開設したカラークシェートラは、いわば神智学協会のミッション・スクールであった。
舞踊家シャクティの母ヴァサンタマラは、やはりカラークシェートラでバラタナーティヤムを学んだが、夫のチャクラヴァルティは神智学協会員であった。ベンガル人なのでボースを慕って来日したが、もともとは、戦後に日本で行われた世界宗教会議で来日したのがきっかけであるという。
この辺のことは、また、詳述しないといけない。
参考文献
奥山直司『評伝河口慧海』中公文庫、2009年。
春日井真也『インド/近景と遠景』同朋社、1981年。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論
更新日:2018.10.02