河野亮仙の天竺舞技宇儀⑤

日印交流はじめの一歩/752年東大寺大仏開眼導師の菩提僊那と林邑楽の仏哲

来日したインド人僧侶

 7世紀頃に、天竺・霊鷲山から来たという法道仙人が、中国・朝鮮半島経由で来日し、播磨の国の多くの寺を開基したと伝えられる。鉄の宝鉢を持つことから空鉢仙人とも呼ばれ、不思議な術を使ったという。密呪を唱えたとも伝えられるが、当時の人々の認識では天竺といっても崑崙といっても何処にあるのか分からない。インドから来たのではなく、東南アジア方面出身の浅黒い仙人なのかもしれない。

 歴史的にはっきりしているのは、第九次遣唐使の帰りに乗船してきた菩提僊那(704-760)と仏哲(生没年不明)である。菩提僊那のインド名はボーディセーナ、菩提僧正とも婆羅門僧正とも呼ばれている。昔の認識でインドは婆羅門国、従って、インド人は婆羅門と通称された。婆羅門僧正といってもこれは尊称であって、必ずしもブラーマンを意味しない。

 仏哲は林邑僧といわれ、日本の芸能史の中ではベトナム人と見なされている。もちろん、その頃はインドという国もなければベトナム国もない。林邑国は現在の中ベトナム辺りにあった。

 平安後期に成立した「大安寺菩提伝来記」によると、仏哲は北天竺の瞻婆国僧とされる。林邑と同じ国と割注が入ってる。これに先立つ修栄の「南天竺婆羅門僧正碑」に林邑僧仏徹と記されているからである。

 修栄は婆羅門僧正の弟子であり、僧正の死後十年ほどで碑が建てられている。僧正は南天竺の人と伝えられるが、これにも混乱があり、「伝来記」には北天竺迦毗羅城の人とも記される。釈尊生誕地カピラヴァストゥは現在のネパールにある。これらの問題は後回しにして、とりあえず婆羅門僧正の話から。

菩提僊那の役割

 2010年には、菩提僊那遷化1250年ということで、ミティラー美術館の長谷川時夫らの活動により、顕彰の機運が盛り上がった。

 菩提僊那は、遣唐使船の帰り、第二船に乗り、736年5月に薩摩国を経て、唐僧道璿らとともに太宰府に上陸する。摂津国、おそらくは難波津に至り、8月には入京し大安寺に入る。

 752年4月9日、東大寺大仏開眼式において導師を勤め、聖武太上天皇に代わって開眼の筆を執ったことで知られる。仏哲は開眼を祝う式典の中で、林邑楽を披露したとされている。

 一方、国文学者の間では、行基が百人の僧を従え難波津で婆羅門僧正を迎えて、歌を交わしたことがよく知られている。僧正がいかに語学の達人であったとしても、和歌を詠むのは無理ではないか。「三宝絵詞」がこの物語の初出のようなので、十世紀半ばに創作された歌のようである。

 大唐国にもない鋳造の大仏の開眼式導師に選ばれ、751年に僧正の位を得た菩提僊那(704-760)は、かなりの大物であったと思われる。高野山大学名誉教授高木訷元によると、菩提は金剛智三蔵(671-741)の弟子である。つまり、最澄、空海より先に正純密教を日本に伝えたことになる。同じく金剛智の弟子で、玄宗皇帝に重用された不空三蔵(705-774)と同年代で、似たような来歴を持っていたことが想像される。

 菩提に遅れてやってきた超大物の鑑真(688-763)についてもいえることだが、昔の人々に期待されたのは、決して仏教学の知識ではない。厳しい修行を積み、異国のまがまがしい仏教を身にまとった僧侶に期待されたのは呪力である。密教の修法の中には医薬を用いるものもある。健康や天下太平、五穀豊穣を祈るというような漠然としたことではなくて、具体的には病気治療や安産、延命が望まれたのである。密教は天文学・占星術や暦法、医術を含む最新テクノロジーであった。

 遣新羅使、あるいは遣唐使がもたらしたものか、735年に太宰府で天然痘が勃発した。それはすぐに京まで伝染し、737年には藤原不比等の四子が相次いで死ぬ。彼らを兄弟とする光明皇后、そして聖武天皇も、相次ぐ天変地異に祟りかと恐れおののいた。菩提僧正は密教を伝えることに専念できず、加持祈祷で病魔退散をやっていたというのが、高木説である。

菩提僊那と仏哲の授業

 菩提僊那は大安寺に留まり華厳を説いた、華厳経を風誦したと伝えられる。サンスクリット語、陀羅尼を教えたようだ。だが、ちょっと待ってくれ。一体、それは何語で講義をしたのだろうか。何語の華厳経を読んだのだろうか。

 明治時代に外国からお雇い教師がくると、それぞれ自分の国の言葉で授業を行った。もちろん江戸時代からそうである。岡倉天心やクラークス博士の札幌農学校に学んだ内村鑑三も新渡戸稲造も立派な英文を書くことが出来た。

 たいした自慢にならないが、わたしも留学時代、英語で行われる大学の授業のほかに、サンスクリット文学のテキストをサンスクリット語で個人教授してもらった。予習をしてテキストをにらんでいると、なんとなく何をいってるのか分かる。

 さて、菩提僊那は何語で教えたか。大安寺は東大寺が出来る前は最も重要な官寺である。今でいう追善供養をするお寺のイメージではなく、外国から来た賓客が泊まったりする国際交流センターであり、セミナーハウス、学寮を持つ。

 現在、江戸時代の律院の造りが、大阪の高貴寺と野中寺にだけ残っているが、菩提の住した部屋もそれに近いものと思われる。帰国後の空海が逗留した太宰府の観世音寺には、僧坊の礎石が残っているが、部屋は狭い。ビジネス・ホテルのように机と寝具だけというシンプルな造りである。

 大安寺には、菩提と同じ船で来日した唐僧道璿も滞在して講義をした。東大寺大仏開眼供養の際の呪願師である。朗々と美声で唱えたことが伝えられている。新羅僧、百済系の僧侶も大安寺にいて、彼らは今でいう客員教授である。

 仏教は百済からもたらされたものなので、当初は百済語で授業をしたのかもしれないが、おそらくは漢文というか、東アジアの共通語である中国語で授業をしたのだろう。論語の素読のように、ひたすら読んで暗唱し、後に講釈するのが基本である。

 中国語というのが何であるかというのも問題である。この時代はまだ漢音ではなくて、百済なまりの呉音が使われていたのではないか。お経の読み方の基本は呉音である。桓武天皇の時代に漢音(中国古典の読書音)に切り替えようとした。天台宗の阿弥陀経や法華経のなかの安楽行品などは漢音で読まれているが、実態として呉音は残ってしまった。

 最澄の留学に際しては、唐語通訳として弟子の義真を連れて行ったが、空海は中国語を話せたという。空海は、十八歳で大学寮に入って儒学を学ぶ。大学には音博士として高名な袁晋卿がいた。若くして来日したが、長安と洛陽の音韻に通じて、呉の三都市の訛りを正し、唐の言葉を話したという。

 袁晋卿の卒年は不明だが、彼の第九子浄宝を官職に推薦する手紙を空海が書いて、それは性霊集に収められている。浄宝の方から中国語を習ったのかもしれない。漢文の読みのみならず、唐の話し言葉も習って、密かに唐に渡ることを夢見ていたのだろう。ちなみに、最澄、空海の手紙のやりとりは中国語、漢文である。

 婆羅門僧といわれる菩提僊那がサンスクリット語を話せたかどうかは分からない。話したとしてもサンスクリット語、あるいはインドの言葉で授業をしたら、誰も理解できない。華厳を講じたとすればおそらく中国語であろう。

 さらに、菩提は「優婆塞貢進解」に漢字で大安寺僧菩提とサインしている。その筆跡が素朴であって、流麗に書かれた前の部分とは異なる。わたしは菩提自らの署名だと思っている。つまり、菩提僧正は中国語が出来た。漢字の読み書きも、ある程度は可能だったと思われる。

 「優婆塞貢進解」というのは、出家希望者(在俗の優婆塞)を師匠(この場合は菩提)が推薦する書状で、正倉院文書の中にある。当時、いわば国家公務員のエリート僧として十名、後に十二名の年分度者、つまり、一年間の得度者が認められた。また、この東大寺文書によって菩提が梵本の陀羅尼を教えたことが分かる。陀羅尼や護国経典を数年学んで沙弥に推薦される。その中から年分度者が厳選される。

日本に至るルート

 僧正の弟子修栄は師の死後十年で「南天竺婆羅門僧正碑」を表しているが、菩提の経歴について「流砂を渉り、蒼海を凌ぎ、遙かにわが国に来朝された天竺の僧」と記している。

 しかしこの文は、シルクロードのたとえばタクラマカン砂漠をわたって、しかも青い海を越えて中国に至ったということを意味し、陸路、海路双方を取ったことになる。これはあり得ない。

 弔辞とか、結婚式の祝辞のように美辞麗句を連ねただけものである。婆羅門僧正は若いときに中国に渡ってきたか、あるいは西域出身のインド人の可能性もある。不空三蔵はインド系の父とサマルカンド系の母を持つ混血児であって、梵漢に通じていた。

 菩提に関する最も古い記事である「国家珍宝帳」の中にある光明皇后の願文には、菩提僧正は流砂を渉り、鑑真和上は蒼海を凌いではるばるやってきたと語られる。文字通りに読めば菩提は陸路、鑑真は海を越えてきたことになる。もちろん菩提も唐から渡海してきたわけで、単に修辞上の対句と考えられる。

 修栄の碑文では、鑑真が海を凌いできたという部分も菩提の事績としてちゃっかりいただいている。この手のものは引用と潤色、改作、神話化で成り立ってくるものだが、仏哲との関係を考えると、海を介して出会ったとする方が理解しやすい。

 「伝来記」には呪術をよくする仏哲が竜王から如意宝珠を奪おうしたが、暴風雨に見舞われ、南天竺に吹き飛ばされて菩提僧正と出会い、弟子入りしたと語られる。北インドの仏哲と南インドの僧正が海で出会う分には無理がない。しかし、竜王の登場は神話的だ。竜がドラゴンボールを持つというテーマはありがちではあるが。鑑真についても、竜王が鑑真の持つ仏舎利を奪うため、船を転覆させようとしたという話が伝えられるが、物語である。

 結論的にわたしの推理を語ろう。仏哲は海の商人で、時として海賊に豹変する。宝物を貿易船から奪おうとして台風に出会い、遭難したのではないか。一般論として、貿易船には言葉が出来て、交渉に長けて事務処理能力が高く、いざというときには呪術で暴風雨を沈める僧侶が乗っている。菩提はそんな貿易船に乗り込んでインド、東南アジア、中国を往復していたのではないか。

 たまたま、仏哲と出会って弟子にする。その仏哲の役割は、菩提の従者。もっというとボディガードである。三蔵法師の旅に付き従う孫悟空の役割で術も使う。おそらくは陀羅尼を中心とした密教であろう。ヒンドゥーのタントラかもしれないが。

 仏哲の出身地瞻婆国、チャンパはマハーバーラタにも出てくるアンガ国の首都で、ガンジス河の南岸、現在のバガルプル辺り。

 インドの東海岸から出港して、東南アジアと交易があり、インドから中ベトナムに移り住んだ人たちもチャンパ国を名乗る。二世、三世も大勢いるが、彼ら、海の男に国境はない。インドシナで生まれようと、そのアイデンティティーはインド人であり、その言語や文化を保持している。

 仮に仏哲がベトナム生まれであってもインド人、サンスクリット文化圏の人である。多少のサンスクリットが出来て、大安寺で文字と発音を教えていた。その証拠として、梵語の練習帳である「仏哲悉曇章」が明治初期まで残されていた。

 空海も大安寺において、この書で梵語、梵字と発音を学んだのではないか。金剛智から不空へ、不空から恵果へ。空海はこの恵果阿闍梨の弟子となって金胎両部の密教を学んだ。

 菩提の師である金剛智は、南天竺国から将軍マディヤナと共に、三十数隻を率いて玄宗皇帝の元に赴いた。インド側からの遣唐使の一員であった。また、不空は743年、師金剛智の遺命によって、密教経典を唐にもたらすためインドに向かっている。僧俗の随行二十一名を率いているが、唐国の信書を携えた使節と考えられる。菩提や鑑真も唐側から何らかのミッションを帯びて来日したのかもしれないが、それはインポッシブルであった。

仏哲はインド舞踊を踊ったか

  さて、仏哲(あるいは仏徹)は「大安寺菩提伝来記」によると、瞻婆国で習得した菩薩舞、倍侶、抜頭を教授したという。それは東大寺大仏開眼式の中で披露された。おそらく、唐楽、高麗楽、度羅楽、伎楽や大和舞など日本の楽舞だけでは不足で、国際的な大イベントとしての彩りとして林邑楽が必要であったのだろう。

 この開眼式というのは、今でいえばオリンピックの開会式、万国博のメインイベントである。その中心に菩提僧正、そして仏哲がフィーチャーされたのは、中国・朝鮮に対して、東大寺が世界の中心で、仏教の本場であるインドと直結しているということを誇りたいからであろう。

 隋唐に天竺楽という楽舞があったのは知られている。林邑楽といったとき、果たしてそれが地理的にインドのものであるか、隣り合ってる地域、インドシナのものであるかなどということにも考えが及ばなかったのではないか。

 ここでインド直伝を国際的に宣揚しようと思ったら、林邑楽はインドシナ方面ではなく、インドの楽舞でなければならない。しかしてその実態やいかに。

 具体的にインド舞踊を教える場を考えてみよう。カラオケは当然のことながらない。師匠が歌いながらリズムを叩いて教える。もちろん、その前に型が出来てないといけないが。練習はそれでいいとして、本番はどうなるか。それこそカラオケもなければ楽団もないのである。踊りには伴奏が必要となる。それをどう解決したらいいのだろうか。

 解決できないのである。ほかに二、三人楽師を帯同していればいいが、いるのは菩提僧正のみ。音楽の専門家ではないし、インドといっても出身地が違う。もちろんインドの楽器もない。古代のインドの楽は、カタカリ、クーリヤーッタムもそうだが、基本的には太鼓とシンバルである。ラッパはパーカッシヴに使われる。そのアイデアは採用されない。

 仏哲が仮に故郷の音楽と踊りを示したとしても、実際に上演するのは日本在住の楽師であり、日本にあるいわゆる雅楽の楽器で演奏することになる。音階もリズムも異なる。インドの踊りは基本的には上半身裸であるが、奈良は寒いし、そんなのみっともないとばかり、豪華な衣装が用意される。林邑楽といったところで雅楽に準じたものにならざるをえない。

 さらに具体的に、8世紀の東インドの舞踊を想定するとどのようなものであるか。グプタ朝が終わり、密教時代に入ると図像が変化する。神像、仏像が踊り出す。いわゆるターンダヴァと呼ばれる勇壮な男踊りの型が登場する。それは弓を弾くなど武術の型に基づいている。これについては稿を改めて論じる。

参考図書

河野亮仙『天平勝宝のインド舞踊』

藤喜眞澄「中国佛教史研究」法蔵館、2013年。

湯浅質幸「古代日本人と外国語」勉誠出版、2010年。

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職

専門 インド文化史、身体論

更新日:2018.09.12