河野亮仙の天竺舞技宇儀②

第2回 小さな泉から大きなうねりに

 2015年7月5日に、東京芸術大学奏楽堂で三十三回忌を記念したリサイタルが行われた。わたしも、自坊の法事を終えてから出かけると、すでに、超満員で払い戻しをしているような状態であった。年月を経てその人気や名声は衰えない。

 インド音楽や舞踊について書こうと思ったら、いや、アジアの芸能について書こうと思ったら、この方の話から始めないといけないということに気がついた。

 今の若い人はご存じないもしれないが、黛敏郎が司会をした「題名のない音楽会」や團伊玖磨企画の「音楽の旅はるか」など、何百本ものテレビやラジオ番組に出演し、世界中を飛び回り、講演やコンサートの司会などで大活躍していた。彼の本は十冊以上買った。

 小泉文夫は1927年(昭和2年)に生まれる。一高理科乙類の出身で、医学の道を志したこともあるが 、東大の美学に進み、民族音楽学者、芸大教授となった。1957年(昭和32年)6月、インド政府給費留学生としてマドラスにあるカルナータカ中央音楽院に留学する。神戸から渡航した。当時は船旅が普通で、榊原帰逸のようにJALで行くのはVIPだ。

 インドは1947年にイギリスから独立すると、51年から政府給費留学制度を始めている。51年には浄土宗の藤吉慈海、52年に東洋史の荒松雄、53年には社会人類学の中根千枝が留学している。

 小泉はマドラスでヴィーナーを弾いてインド音楽を勉強し、北インドの音楽を勉強するためにラクナウに移り、バトカンデ・ヒンドゥスターニー音楽院でサーランギを習った。バラタナーティヤムもカタックも、一応、習っている。インド音楽の複雑なリズムを習得するのには踊りから習う必要があったのだ。

 あれほど万能、超人的とも思える小泉も、インドでの生活や対人関係については弱音を吐いているので、やっぱりそうかと親しみを覚える。

 ありったけの金を工面して楽器や資料を求め、1958年12月、インドを貨物船で離れ、翌年1月、尼崎に一文無しで帰り着く。4月から東京芸術大学音楽学部楽理科で非常勤講師として教え始める。1964年にはエジプトで行われる国際民族芸術祭に参加し、また、調査旅行をして「ナイルの歌/エジプト<アラブ連合>の音楽」という六枚組のレコードを出した。1965年からNHKFMの本放送(それまでは実験放送)で世界の民族音楽を紹介する。これは少なからず影響を与えた。

 中二か中三の頃、FMの聞ける小さな装置を買ってもらって、時々、聞くようになった。わたしが小学校の頃、家にあったステレオというのは、大きな横長の箱の両端にスピーカーがあって、真ん中にレコードプレイヤーが浮いているものだった。

 ステレオというのは、昔は実験放送で、チューナーを二つ搭載し、交響曲の左チャンネルをNHKラジオの第一放送で右チャンネルを、第二で左チャンネルを同時に流して聞くというようなシロモノだった。

 ああ、わたしも骨董品の部類に入ってきたなあ。今や、ポータブルのCDプレイヤーやMDでさえ骨董品である。

小泉は、1967年にはアメリカのウェスリアン大学に客員准教授として赴き、民族音楽学を講じる。71年には再び同大学から呼ばれ、今度は客員教授となる。氏の授業は面白いと評判であった。アメリカからの帰りにインドネシアに寄りガムランの楽器を買ってくる。

 ガムランの楽器がだんだんそろってくると、パーティーに集まった友人たちとガムランの合奏を行い、時には思い思いの民族衣装で集まったそうだ。芸大にガムラン・グループが発足する前、坂田明もアメリカ人のチェロ奏者らと共に小泉邸でガムランを習っていた。また、芸大に西洋人以外の講師を初めて招いたのも小泉だった。

 1979年、サプトノをインドネシアから招くことによって、日本のガムランは飛躍的に進歩した。1973年にネパールからやってきたスシュマ小俣も、79年から非常勤講師として芸大でシタールを教え始める。

 日本の音楽教育のなかに邦楽や世界の民族音楽を取り入れるよう、カリキュラム改革に努力したのも小泉だ。その音楽を好きになると文化にも興味を持ち、その国の人々に敬意を持つようになるからだ。                                  

 1978,80,82年に、民音のプロジェクトでシルクロードの音楽の調査に入り、それぞれ、その翌年にシルクロード・コンサートを行った。

 ちょうどその頃、1979年8月から82年1月まで、わたしはインド政府の給費留学生としてバナーラス・ヒンドゥー大学哲学科の修士課程に留学していた。留学の直前に、新宿の花園神社で小泉先生の講演があったので、その機会にインド留学の注意などを伺った。

 貴重品はトランクの中に入れて鍵をかけ、トランクはさらにチェーン・ロックでベッドの足にくくりつけること云々というような話だった。

 1983年5月から6月にかけてオフィス・アジアの企画構成によるカタカリ舞踊劇のツアーがあった。5月28日に西友大泉ホールで公演があったとき、先生も会議を途中で抜け出して見に来られた。

 てっきり夜の公演と思っていらしたそうだ。昼の公演を終わって帰ろうとしているときに、ばったり出会って立ち話をした。

 この半月くらい後に緊急入院され、8月19日に急逝されることになる。発見されにくい膵臓がん、直接の死因は肝不全であった。体調の悪いのを押して多忙に活躍されていた。56歳という、まことに、惜しまれる死であった。われわれは、皆、元祖小泉チルドレンである。

 30年ほど前、わたしもそのまねごとをして、南インドのケーララ州、カルナータカ州、バリ島の芸能の調査旅行をしていた。

 小泉は千にも及ぶ民族楽器を収集し、そのすべてを一応は弾けたという。小泉流の民族音楽研究は実践を通してだ。草野妙子は始めの頃の生徒だが、民族音楽の演習は、帰国の際に持ち帰ったムリダンガム(横型の太鼓)の実習をしてリズムを研究したという。自宅のテレビの脇にはウードを立てかけておいて、いつも弾いていたそうだ。最初に習ったのはヴィーナーであった。小泉が帰国してその話を聞くや、上原陽子がマドラスに留学し、ヴィーナーを学ぶ。

 その上原に的場裕子はヴィーナーを習って、1972年マドラスに留学する。その後73年、上原は再びデリーに赴いてシタールを学ぶ。

 上原は鈴木宏昌のアルバム「ロック・ジョイント・シタール~組曲シルクロード」(1973年SONY)に参加する。これは2011年にCDとして再発されるが、いわゆるジャズ・ロックである。上原も鈴木も故人となってしまった。

 われわれの世代がインドへ向かってシタールやタブラーを学ぶのは、上原より遅れる。中村仁は通称タゴール大学、ビッショバロティ大学に留学して、73年からエスラージ、シタールを十年間学ぶ。堀之内幸二も、ほぼ、同時期にバララーム・パタックに学ぶ。かんみなは、74年タゴール大学の哲学科に留学する。タゴールに魅せられ、タゴール・ダンスを日本に伝え、大きな影響を与える。

 伊藤公朗は、77年夏、ヒマラヤのバドリナートに向かう。D.R.パルワティカルについて八年間滞在し、シタールを学んでいる。黒坂昇は75年カルカッタに赴いてタブラーを習う。

 鳥居祥子、鈴木弥生は79年からカルカッタでシタールを習う。佐倉永治は、初めスシュマからシタールを習い、79年からカルカッタに渡ってサロードを学ぶようになる。辰野基康も79年渡印。バララーム・パタックに師事してシタールを学ぶ。タブラーの逆瀬川健二も荒井俊也も79年カルカッタに向かい、マハープルシャ・ミシュラに師事する。

 インドを植民地としていたイギリスでは、日本より十年以上も早く動きがある。1966年9月、ビートルズのジョージ・ハリソンがラヴィ・シャンカルのもとに向かい、シタールを習う。つまり、有名な65年「ノルウェーの森」の時点でシタールを習っていなかったことになる。また、ジョン・コルトレーンもシャンカルを心の師とし、65年生まれの息子をラヴィと命名した。インド音楽を学ぼうと準備していた中、肝臓がんで急逝した。

 1967年のモンタレー・ポップ・フェスティバル、69年のウッドストック・フェスティバルにラヴィ・シャンカルが参加し、ロック・ファンにもよく知られるようになる。 わたしも中三の頃、来日公演に行った覚えがある。日本でもインド音楽ブームが巻き起った。エリック・クラプトンを真似して「クロスロード」を弾いていたような少年たちがインドを志す。

 民族音楽の仕事は、小島美子、姫野翠、徳丸吉彦、山口修、小柴はるみ、草野妙子、田村史、考古学、文化人類学の小西正捷らによって引き継がれる。小西もカルカッタでタブラーを習っていた。

 さらに、ワールド・ミュージックというようなくくりでは、中村とうよう、星川京児がその仕事を担うことになる。星川が1984年8月に包(PAO)という雑誌を発行する。中村もミュージックマガジンの別冊として、1989年3月NOISEを発行した。当時、星川がNHKの歌謡番組で解説しているのを発見して、とても驚いた。               

手元にある包第二号の裏表紙に、故・小泉文夫教授が監修した「民族音楽大集成」レコード50枚組(キングレコード)の広告が11月21日頒布予定として載っている。星川はその仕事を継承し、1992年、CD百枚組「世界民族音楽大集成」をプロデュースして、その年のレコード大賞特別賞を受賞する。

 小泉、中村、星川ともに鬼籍に入ってしまった。わたしもいい加減、歴史の生き証人のようになってきたので、この項を書いている次第である。

参考文献

第一回第二回インド祭りのパンフレット

岡田真紀『世界を聴いた男/小泉文夫と民族音楽』、平凡社、1995年。

加古美枝子『人生を駆けぬけて/回想の小泉文夫』音楽之友社、1985年。

ラビ・シャンカル著小泉文夫訳『ラビ・シャンカル/わが人生わが音楽』音楽之友社、1972年。

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職

更新日:2018.06.08