日本寺inブッダガヤ 今昔・あれこれ③

仏教が繋ぐ日本とインドの文化交流の挿話、今回はお坊さんの慈善団体「ひとさじの会」の吉水岳彦さんにご寄稿いただきました。明治期にいち早くお釈迦様の御遺徳を慕って渡印なされた山崎弁栄上人がインドの地を踏まれ仏跡巡拝をなさった経緯について述べていただいています。近代の日印交流にぜひご注目ください。

印度仏跡巡拝の中で

台東区 光照院住職
大正大学 非常勤講師
社会慈業委員会「ひとさじの会」事務局長
吉水岳彦

大谷探検隊が明治36年(1903)に印度へ仏跡調査に入る9年も前、弁栄上人は浄土宗僧侶としてはじめて、お釈迦様のお悟りの地「仏陀伽耶(ぶっだがや)」、初説法(はつせっぽう)の地「鹿野苑(ろくやおん)」、教化の地「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」、入滅(にゅうめつ)の地「拘尸那掲羅(くしながら)」等の印度仏跡を巡拝しました。その渡航費用は、檀林浅草誓願寺住職であった荻原雲台(おぎわらうんだい)上人(1828―1903)が中心となり、寺中に「山﨑弁栄和尚渡天事務所」を置いて集めました。お釈迦様をお慕いする、三十代半ばの貧しい僧侶の思いを汲んで、大寺院がそれを後押しする様子からも、弁栄上人に対する周囲の期待がいかに大きかったかがうかがい知れます。

弁栄上人は明治27年(1894)12月に横浜港からフランス船にて印度に向かいます。しかし、到着して目にしたのは、まるで廃墟のように荒れ果てた仏跡でした。「みあとなる鹿野のそのうあれはてて 見るさえ今はかなしかりけり」という句を詠みながら、弁栄上人は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の起こった日本のみならず、お釈迦様の直接教化の地まで仏法が廃(すた)れていることを深く悲しみました。そして、一つひとつの仏跡を敬礼しながら、仏陀伽耶の空にかかる月のように、お釈迦様のみ教え、すなわち阿弥陀如来様の救いの光が再び世界の人々の心を照らすことを祈り歩かれたのです。

明治28年3月末に帰朝すると、弁栄上人は「仏陀禅那(ぶっだぜんな Buddha dhyāna」をサインで用いるようになります。これは、「念仏三昧」を意味するサンスクリット語の音写語であり、お念仏を申して阿弥陀如来様と常に離れぬ心持ちのことです。お釈迦様の足跡を踏み、如来様の光明をあまねく伝えるとの意志を堅固にしたのでしょう。

仏跡巡拝からの帰途、弁栄上人は船が帰港したラングーン(現ミャンマーのヤンゴン)にも上陸されて、黄金塔(シュエダゴン・パゴタ)を参拝しています。その道すがら、日本人の遊女屋の楼主に出会い、その求めに応じて遊女たちのもとに行きます。

当時は「唐行(からゆ)きさん」と呼ばれ、日本から東アジアや東南アジアにわたって娼婦として働かされていた女性たちが多く存在しました。貧しさゆえ、親のためにはるか遠く異国の地で身体を売らねばならぬ苦しみやさびしさ、怖さは、いかばかりであったでしょう。

弁栄上人は、同じ日本の地に生まれたのに、異国で苦しみながら生きねばならぬ女性たちに、なごやかな父のごとき慈愛を含んだ言葉をかけ、情け深き如来様のお慈悲を説き聞かせられました。如来様は呼べばそばに来てくださり、どんなにしんどい時にもずっと離れずにいてくださるという心持ちは、孤独を感じていたり、苦しい状況にある人々にとって大きな支えになります。

資料が乏しいため、この時の詳細はわかりませんが、この話を伝えている本に、女性たちが「獣の中で父に会いし思いをなした」とあることから、弁栄上人のお話に、親にも出会えたような安堵の心持ちになれたことが伝わってきます。そして、そのまなざしは「かわいそうに」と彼女たちを単に憐れむだけのものではなく、どんなに苦しくとも逃げ出すことができないその環境の中で、精一杯生きる女性たちの想いを、父が苦しむ娘を想うように、大切に聴きながらお話をなさったことが察せられます。

こういう場所でのお話はきれいごとでは済みません。世を呪う言葉も、神仏に対する怒りの声もあったでしょう。それらもすべて受けとめられ、弁栄上人は、遊女たちの心からの晩餐の供養を受けて、みなに惜しまれながら別れられました。

逃げ出すことができない苦しみのなかを生きねばならぬ女性たちは、心を殺していきていたことでしょう。でも、どのような環境にあっても、決して如来様は見放さず、そばにいてくださることを、慈悲を含んだ言葉でお伝えになったことには、同じ宗教者として多くのことを考えさせられます。

弁栄上人においては、逃がすことも、助けることも、どうすることもできない状況で苦しむ人を前に、ただ自己の無力をつきつけられたと思います。苦しむ人を前にしながら、何もできないことは本当に苦しいことです。しかし、本当に苦しくて、神も仏もない状況にあるのは眼の前の彼女たちなのです。弁栄上人は、苦難に遭う彼女たちの居る場所に自らおもむき、逃げ出すことなく、同じ人として真正面から向き合いました。寄り添うことは簡単なことではありません。如来様を心に想い、無力だけれども、逃げ出さずにそばにいることの難しさと大切さを教えられます。

出典:増上寺『三縁』2020年6月号「行誡と弁栄 第9回 印度仏跡巡拝のなかで」

弁栄上人筆仏陀伽耶(一般財団法人光明会蔵)
協力;金田昭教上人
 
賛「よろづ代はまだ程遠しいまさらに ふたたび照せ仏陀伽耶の月」 『墨跡仏画集』494頁参照
※鹿野苑の地の古煉瓦を粉末にして着色

 

更新日:2020.06.19