日本寺inブッダガヤ 今昔・あれこれ②

ブッダガヤにおける仏教が繋ぐ日印交流のひとつの挿話として、今回は初期の日本寺駐在僧、塩尻市の洞派信隆さんに寄稿いただきました。八大聖地の他にもまだまだ注目に値する仏跡が数多くあることにぜひご注目ください。

「マハーカサッパ(摩訶(まか)迦葉(かしょう)尊者(そんじゃ))」の霊山「鶏足山」

印度山 日本寺 元駐在僧
洞派信隆

ビハール洲ブッダガヤの国際仏教興隆協会が運営するインド山日本寺に、かつて2年任期の駐在僧として生活しました。あれから40年、お釈迦様がお悟りなったその場所に建つ「大菩提寺」も世界遺産となり、インド政府による再開発の計画が進み、やがて周辺に住む人々は移転を余儀なくされる様です。何代にもわたり大菩提寺を眼の前の景色として生活してきた人々、その子や孫に同じ景色の中で生きることを閉ざす人々の思い、釈尊が見た景色、季節の香り。釈尊を慕う人々の暮らし、教えを伝える人々の情熱、長い年月を刻んだ見えない歴史も移り変わる物の様です。

お釈迦様にはお弟子さんが沢山おられました。お釈迦様亡き後、教団をまとめた方が「摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)マハーカサッパ」と言われております。お釈迦様が花を一輪お持ちになっていると、マハーカサッパが見留め微笑んだその時、釈尊は「私の教えは総て、マハーカサッパに伝えた。」と言われたとか。また釈尊滅後、「第1結集(けつじゅう)」(教えを統一をする集会)を主催したと言われております。迦葉尊者は釈尊のお袈裟を奉持し、岩山を割りその中で入寂したと記述されている様です。その山は「鶏足山(けいそくざん)」現地では「グルッパ・ギリ」、かつては「ククパタ・ギリ」と呼ばれています。インド国鉄ガヤ駅の東、グルッパ駅の南1キロほどにそびえ、ニワトリの様な形をした岩の山頂を望む事が出来ます。

三蔵法師の旅行記にも記されながら、歴史から忘れられていたこの地を、千葉県出身で日蓮宗の僧侶「故椎野能敬師」が調査し、アサヒグラフ1981年5月29日号、通巻3030号で発表されてからおよそ40年になろうとしています。釈尊成道の聖地、ブッダガヤを訪ねる時は、必ずこの霊山を拝登するのですが、インド領チベット・ラダック地方出身のチベット僧により登山道が整備され、山頂には金色に輝く宿泊も可能なパゴダ(仏塔)が建設されております。急峻な岩場はコンクリートの階段で覆われ、マハーカサッパの声に耳を傾けた人々の座した法座は平らに塗り固められ、原初の姿は変わってしまいました。変わらないのは真っ暗で人一人がやっと通れる、コウモリが住む割れた岩の通路とヒンズーの祠。彼はこの霊山を自身が発見したと説明して、台湾・韓国などの人々から浄財を得て整備をしているようです。故椎野師の偉業を印度山日本寺も支援しましたので、事実は隠せないのですが、継続した支援が出来なかった事もまた事実です。せめてインド政府がこの件を正確に把握してもらいたいものです。釈尊の教えを受け継ぐ迦葉尊者の鶏足山はブッダガヤとラジキールの中間に位置しますから、どちらからも日帰りが出来る距離にありますので、是非訪れてみて下さい。

40年前はシーズンになると、連日僧侶と共に多くの日本人巡礼者がお釈迦様の聖地巡礼に訪れていました。今は若い一人旅の日本人がわずかばかり、10人前後の僧侶だけの団体さえ僅かとなりました。お釈迦様が歩いた道、マハーカサッパが触れた岩、仏教を縁とする沢山の遺跡、聖地が未だ日本人僧侶日本仏教徒に知られずにあります。インドも急速に変化しており、古き良きインドを知る最後のチャンスかも知れません。

故椎野能敬師の偉業は、かど創房「インド巡礼1089日 椎野能敬遺稿集」をご覧下さい。

2005年11月22日グルッパ

割れた岩の通路

参道

岩陰の法座

山頂のパゴダ

洞派 信隆(どうは しんりゅう)

1952年11月10日生まれ

1980年8月よりインド日本寺駐在員を務め、1983年1月帰国

2011年より、12月成道会接心を開催。宗派教区長を務める為、現在中断中

曹洞宗興龍寺(長野県塩尻市)住職

更新日:2020.03.06