日本のインド古典舞踊 オディッシーのはじまり(エピソード2)
サキーナ彩子(語)、田中晴子(まとめ)
インドへ舞踊を習いに行く
当初はインドは気軽に旅行に行ける安全なところ、というイメージはなかったので、勇気のある先駆者が短期間インドに滞在してみた。それに物足りない人が、インドで本格的に舞踊を習い始めた。と同時にインドの治安が落ち着いて、徐々に外国人の長期留学が可能になった。現地の教える側も、外国人生徒を受け入れる体制を整えた。現地のインド芸術を習うところはもともとは修行道場(アシュラム)、内弟子制度(グルクル)のようなところが多く、外国から行った生徒が簡単に習えるような環境ではなかった。この時期はインドがイギリスから独立し、独自のアイデンティティを模索していたころで、インド舞踊の再構築の動きが各地で盛んに起きていた。上流階級出身のルクミニ デヴィがチェンナイに開校したカラクシェートラが初めての舞踊学校で、おかげで良家の子女がダンスを習うことが認められるようになっていった。そのうちあちこちの大学も留学生を受け入れるようになり、日本のインド大使館でパンフレットを見て舞踊留学を決めた人も多い。
そんな中、1960年代半ば、大谷紀美子はカラクシェートラへ、桜井暁美はバローダ大学へ、ヴァサンタマラはウダイ シャンカールの学校へ飛び立った。
日本で最初のインド舞踊学校
京都のヴァサンタマラインド舞踊研究所は1968年に日本で一番最初にできたインド舞踊学校だ。創始者のヴァサンタマラはインド人と結婚した日本人で、のちに舞踊家になった娘のシャクティのために親子でコルカタに渡る。ウダイ シャンカールの学校で、バラタナティヤムを主に、オディッシーやさまざまな流派の踊りを広く学んで帰国し、研究所で教えた。オディッシーの演目は2−3つくらいあった。ちなみにマンガラチャランはデーバ プラサード派の振り付けだった。
先駆者たち
1977年、ヴァサンタマラインド舞踊研究所でインド舞踊に触れもっと学びたいと飛び出したのが、田中裕見子、岩切千鶴子だ。田中はカラクシェートラに入学、岩切は個人レッスンで、バラタナティヤムを習いながら、2人はラマニ ランジャン ジェナにオディッシーも学んだ。ラマニは当時チェンナイではあまり知られていなかったオディッシーの認知度を上げる、という使命を師匠のケルチャラン モハパトラに託されて頑張っていた。この年、田中はカラクシェートラを訪ねてきたケルチャラン モハパトラの踊りを見て衝撃を受けたと記している。
「完全にダンサーの作り出す世界にはまり込んで同化してしまっている自分がそこに居
た!…背景まで色つきで見えるのだ!」(田中裕見子『赤い靴を履いた人魚』)
ケルチャランの左手にサンジュクタ パニグラヒ、右手にビルジュ マハラージ。背後は男性の弟子スレンドラ ナース ジェナ、ラマニ ランジャン ジェナ、ハレクリシュナ ベヘラ。1970 年代初頭、デリーにて。(『オディッシー インド古典舞踊の祖 グル ケルチャラン モハパトラ』イリアナ チタリスティ著、田中晴子訳より)
いっぽう、ヴァランタマラ研究所で踊りを習っていたサキーナ彩子は、一時帰国中の岩切がオディッシーを踊る姿を観て感銘を受けインド行きを決意する。サキーナも1981年にオディシャに渡り、ビデュット クマリ チョードリーに学んだ。帰国してから、ちょうど日本に滞在中のクムクム ラールのところに通う。その後1989年にデリーでハレクリシュナ ベヘラに、1999年、オディシャでケルチャラン モハパトラにも学ぶ。
さらに、1984年には、小澤陽子がグジャラートのDarpana Academy of Performing Artsでバラタナティヤムを学んだ。小澤は1987年に再度インドへ渡り、クムクム ラールやマヤダール ラウトにオディッシーを学んだ。
大阪の櫻井暁美はインド西部のバローダ大学に留学中に1年間、オディシャのカタック市のケルチャラン モハパトラの自宅でオディッシーを習った、ケルチャランにとって初めての日本人の生徒だった。帰国後しばらくしてから本格的に舞踊教室を始め、当時東京在住だったクムクム ラールを月に1回大阪に呼んでワークショップを主催した。ケルチャランが1986年に来日したとき、会場で「グルジーっ!」と叫んで駆けてくるサリー姿の女性が、櫻井だった、とサキーナは回想する。櫻井は来日中のケルチャランの身の回りの世話をしていた。櫻井は関西が拠点でそのころ関西でオディッシーをしている人はほかにいかなかったのではないだろうか。
日本の生徒たちが飛び込んだのは、オディシャのヴァイシュナヴァ(ヴィシュヌー派ヒンドゥー教)の篤い信仰心に育まれる暮らしだった。オディッシーの神、ジャガンナータ神はクリシュナ神の化身だ。「オディッシーミュージック」(オディシャの伝統音楽)と「オディッシーダンス」には独特な「オリヤー的な」情緒がある。クリシュナ神への献身の情が芯にあり、甘く胸を掻き立て、まるで恋のように熱量が高く、インド哲学の言葉を使えば「サトヴィック」、音楽と踊りは純粋な輝きに満ちていて、大きな魅力となっている。
カタック市の自宅の祠にて、アラティ(灯明)をお供えするケルチャラン。(『オディッシー インド古典舞踊の祖 グル ケルチャラン モハパトラ』イリアナ チタリスティ著、田中晴子訳、写真: Avinash Pasrichaより)
“グルジーのアシュラムにはお寺ともいうべき大きな神様のお部屋があった。専任のプジャリ(儀式を行う人)がいて、毎朝と毎夕のプージャ(礼拝)を執り行っていた。サンスクリット語のお経は心地よくて、よく聞き惚れていた。あの世代の方はみんなそうなのかもしれないが、グルジーはとても信心深かった。毎晩八時ころになると、グルジーが鳴らすドラの音が建物中に響きわたる。私たちはどこにいてもそのドラが聞こえたら、神様の部屋の前に集まって座る。そのドラは神様を招くために鳴らされ、そのときに神迎えの火も焚かれる。そこにはいつもパッカワージを始めマンジーラなどの鳴り物が用意されていて、私たちはグルジーやほかの先生、生徒たちと一緒にプージャでバジャンやキルタン(祈りの歌を歌って礼拝する事)をするのが日課だった。『ギータ ゴーヴィンダ』の作者がこちらの地方の出身だからなのだろうか、オディッシーをしているからなのだろうか、必ず『ギータ ゴーヴィンダ』から、「シュリタ カマラ」と「ダシャ アヴァターラ」、そして地元の歌である「マントラヒーナ」が歌われた。さすがダンスの専門家の家のプージャなので、歌もテハイが入って音楽的にも本格的である。少々歌詞がわからなくても一緒に歌い、マンジーラを鳴らして熱狂する。歌の最後は必ず「マハーマントラ」に続き、「ハレクリシュナ ハレクリシュナ‥‥」と繰り返しながら、どんどんスピードアップ、ヒートアップしていき、絶頂の極みでドーンと終わり、地面にひれ伏す。これこそ、ヒンドゥーのバクティ(献身の情愛)を感じる瞬間であった。プージャが終わったら、神様に供えられたプラサード(供物)のトゥルシー(ホーリーバジル)や果物などをいただき、神様にあげた火から出た黒い煤を額に付けて解散する。”(サキーナ彩子「私のオディッシー」)
参考資料:
河野亮仙の天竺舞技宇儀
河野亮仙 日印文化交流年表
『赤い靴を履いた人魚姫』田中裕見子著
『グル ケルチャラン モハパトラ』イリアナ チタリスティ著
プロフィール:
サキーナ彩子
京都生まれ。オディッシー インド古典舞踊家。1981年初渡印。「スタジオ・マー」主宰、福岡を拠点に各地で独創的な作品を発表、献身的に後進の指導を続ける。門下生の濱脇亜由美は2010年以降デリーのカストゥリ パトナイクに師事し活動中。
連絡先:maa.sakinadidi@iCloud.com
田中晴子
東京出身、米国サンフランシスコ郊外在住。オディッシー インド古典舞踊家、文筆家。コロラド大学宗教学科修士課程修了。晩年の高見麻子氏、高見が他界したあとはヴィシュヌー タッタヴァ ダス師に師事。高見から受け継いだ「パラヴィ ダンスグループ」主宰。クムクム ラール氏、ニハリカ モハンティ氏にも手解きを受ける。著書訳書:『インド回想記ーオディッシーダンサー 高見麻子』(七月堂、2019)、『オディッシー インド古典舞踊の祖 グル ケルチャラン モハパトラ』(イリアナ チタリスティ著、田中晴子訳、2021)、『数子さんの梅物語ー北カリフォルニア マクロビオティック人生』(2023)
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更新日:2024.05.28