導かれたodissiへの旅——花の宮祐三子インド留学記①

私がインド古典舞踊 オディッシーを 修養したのは、故プロティマ・ガウリ・ベディ女史がバンガロール 郊外に創設したばかりのNRITYAGRAM(ダンス ヴィレッジ)でのことです。

そこにたどり着いたのは19902月のことだったと思います。

日本で心の病に悩んでいた私にある友人が言ってくれました。 「あなたは絶対に踊ってた方がいいよ 〜!」勧めてくれたのは 堺にいらっしゃった モダンダンスの林田鉄先生。言われるままに通っていたら、ちょうど中国への公演が決まり、ご一緒させていただくことになりました。バイトをやめ、オイリュトミー留学をしようと貯めていたお金を全部持って中国へ旅立ちました。

瀋陽での公演の後、私は1人居残り、かねてから日本人のルーツだと聞いていたミャオ族に惹かれ、一人旅をすることにしました。

それまでの2年あまり何も決められない病になっていた私が、この頃から急に一人旅ができるようになり自分でもびっくり!!

ミャオ族の住む雲南省では120円ぐらいの安宿に泊まって約3ヶ月。「歌掛け」と言って男女が離れ離れのところから歌を送っては返事に歌が送り返されてくるといった何とも ロマンチックな恋愛 歌 遊びの場に一緒に入れてもらって楽しんだり、雲南省各地から少数民族の方々が、それぞれ異なった素敵な刺繍の民族衣装などを着て、それぞれの民族舞踊を披露する大会を観に行ったり……と、とても楽しい時間を過ごしました。私が一番気に入ったのは排村と言われる経済的には貧しい村の方々でしたが、真っ黒なとてもシンプルな服を着た、とても躍動的な踊りをする人たちの踊りでした。

そんな中、例の天安門事件が勃発。両親はさぞ心配したことでしょうが、連絡を取る術もなく私も田舎にいた方が安全だと判断し、ほとぼりが冷めるまで郊外で待機していました。 そして次はシルクロードだ!と 23日かけてたどり着いたウルムチ。その時にハタと気付いたら、さてさて入国から3ヶ月が過ぎようとしているではありませんか。。。このまま 上海に戻るのも癪なのでよし パキスタンに入って新しいビザを取り、ゆっくりシルクロードを堪能しようと決意 。

バックパッカーたちとの出会いもあり、カラクルム峠などを通ってパキスタンに入りました。

ただ、パキスタンに入ってみるとなんだか こちらの方が血が騒ぐのです。。。えーっ~! どうしよう!荷物を中国に置いたままなんだけどな 〜。。。そう思っていたら、結局大雪が降り中国への陸路は閉鎖され、「あ〜! これは神様がインドへ来なさいとおっしゃっているんだ」 そんな風に感じた 私はバスに乗ってインドへ向かうことになりました。しかもデリーからカラチに来たバスの帰りに乗ればただで乗っけてくれるんだ、という情報をうまくゲットして(笑)

そうしてインドの国境を越えたのが198912月。その時なんと また天からのメッセージが降り注いできたのです。。。 実は1986年、兵庫県尼崎ピッコロシアターでオディッシーの公演を観ていました。オディッシーの総師とも言える偉大な故ケルチャラン・モハパトラ グルジーと、愛弟子のクムクム・ラール先生のデュエット公演で、あまりにも感動して日記にも書いていたほど素晴らしかったのですが まさか自分がそれを踊ることになるとは夢にも思いませんでしたし、すっかり忘れていました 。ただ 国境を超えた瞬間、「あー そっか 〜!!! 神様は私にこの踊りをするように、と色んな手を使ってここまで導いてくださったのだ」と感じました 。でも待てよ。。。あの踊りはちょっとやそっとでできるものではない… 何か精神的な修行が必要だと直感し、まずはヨーガを学びにロナバラ(ムンバイから列車で2時間位?)にあるKAIVALYADHAMA というアシュラムに滞在を決めたのでした。

 

 

 

 

花の宮祐三子hananomiya yumikoプロフィール

大阪生まれ。

大阪府立天王寺高校、広島大学総合科学部(文化人類学)卒業。

’89年 中国・パキスタンを経てインドへ一人旅、’90年、故プロティマ・ガウリ女史によってバンガロール郊外に開かれたばかりのNRITYAGRAMThe Dance Village)にて、インド古典舞踊 odissi Padma Vibhushan 故ケルチャラン・モハパトラ グルジや、ガウリ・マ等から 住込みで修養。その後、瞑想と踊りの探究が続き、パートナーの住むスイスと日本を行き来する生活。様々なジャンルの音楽家とのコラボを含め、自然を感じ、魂の喜ぶ「舞い歌絵書き」も戯れ遊ぶ。インド・イギリス・スイス・アメリカなど、国内外での公演、寺社ご奉納、瞑想会や パートナーとの Inner touch ワークショップ等を行う。

更新日:2023.07.13