奈良康明先生と「ベンガル佛教協会」

立正大学特別栄誉教授

渡邊 寶陽

                                        

 ❶ 愚生と奈良先生との出会いは、世話好きな奈良先生(当時 駒沢大学教授・常務理事。鶯谷駅に近い台東区下谷に居住)が、常磐線沿線の藤井正雄先生(大正大学教授。葛飾区金町に居住)、阪東性純先生(前・大谷大学助教授、後上野学園大学教授。台東区上野に居住)と親しいお付き合いをして居られた時に、愚生(立正大学教授。綾瀬駅に近い足立区谷中に居住)を加えて頂き、辞典の共同監修者に取り上げてくださったことによる。

 ❷ 米国・カルフォルニア大学の某教授が、西欧において古典をデータベース化していることに倣い、今度は『大正新脩大蔵経』のデータベース化を企図して、来日して企画推進を図った。これに対し、東京大学の江島惠教教授が、欧米留学の経験から「『大正新脩大蔵経』は、唯一、日本が西欧に誇るものであるので、「大蔵経データベース」は日本の仏教界が作るべきである」として、東京大学印度学梵文学科の同窓を中心に募金を試みた。しかし、そのレベルでは事業の実現は困難であった。

 そこで奈良先生が、高崎直道先生等と相談して「募金委員会」設立を図った。(その会合の帰途、あり得べき事か、江島教授は急逝されたと聞く。)その際に、愚生も「日本印度学仏教学会」理事の一員として「募金委員会」設立に参加した次第である。

 奈良先生は,幾多の困難を排して、事業の現実化に邁進した。すなわち駒沢大学に事務所を置けない事情があるとのことで、ご関係のマンションの一室に事務所を置き、会長に高崎直道先生を立て、さらに令嬢を秘書とし、自らは「事務局長」となって、一意専心、募金活動に挺身した。

 おそらく曹洞宗関係から「九千万円」の募金を実現したのではなかろうか。ところが、「少壮の学者では募金は困難」との声があり、愚生は「お堂を造るくらいの三億九千万円も集まらないのなら、日本仏教などやめてしまえ」と大声をあげたことがあった。結局、全日仏の前事務局長の提言を受け、各宗毎の募金目標額を定めて、事業を推進することとなった。幸いに東京大学での文部省科学研究費の助成を得て、予定以上の募金を得ることが出来たように記憶する。

 ともあれ、日本が世界に誇れる「大蔵経データベース」が完成したのは、ひとえに奈良先生の尽力によるものである。

 ❸ 奈良先生が駒澤大学学長に就任して、日本私立大学連盟の評議員に就任したとき、「印度屋の奈良です」と挨拶されたのには驚いた。同じ頃、愚生も学長を務め、「仏教系四大学親善野球大会」で、奈良先生の薦めで始球式をしたことがある。

  ❹ 話は転ずるが、これも奈良先生の推挽によるものかと思うが、中村元先生の「東方研究会」(現 中村元東方研究所)付置の「東方学院」に『法華経を読む』の講師に任ぜられ、今年度まで務める予定である。中村元先生に可愛がられた我妻和男(筑波大学教授)が居た。同氏は、東京都立両国高校の同級生である。が、氏は、東京大学独文科にストレート入学した秀才で、高校二年に転入学した愚生は、言葉を交わしたこともなかった。その我妻氏がインド仏教研究に転じ、東方学院で「ベンガル語」の講座を担当した理由を知らなかった。近年になって、「ベンガル語」の講座を引き継いだ絅子夫人から、我妻氏がヘルマン・ヘッセの『シッダルタ』を読んで感激して仏教研究に転じたことを聞いたのであった。

 我妻氏は、曾て仏教圏として栄えた「ベンガル仏教」に関心を深め、「ベンガル佛教協会百年誌」に、ベンガル語による「日印の懸け橋 木村龍寛」を寄稿したことを、絅子夫人から聞き、大学院生時代の恩師・木村龍寛(日紀)先生の事績の紹介を,是非、日本語訳して頂きたいと絅子夫人にお願いしたところ、快くお引き受け頂いた。私は、この日本語訳を載せるための掲載誌について日蓮宗有縁の研究誌等を勘案したが、日蓮宗関係でも木村先生への関心は薄く、たまたま身延山大学「国際日蓮学研究所」の望月海慧所長(身延山大学教授)の御縁で、このたび、同研究所の『日蓮学』(第2号、201810月刊)に掲載するに至ったのである。

 実は、前・立正大学学園理事長、現・京都「妙顕寺」貫首の及川周介師の曾祖父・及川真能師は、人材養成に関心が深かったようで、後の日蓮宗管長「山田日真」、そしてインド・カルカッタ大学教授、後、立正大学名誉教授となった木村龍寛(日紀)師等を弟子に加えたのであった。木村先生が、インドのカルカッタに留学して、サンスクリット研究に邁進するについては、及川真能師等の後援があったと推察する。

 ❺ さて、我妻和男「日印の懸け橋 木村龍寛」掲載依頼にあたって、「ベンガル佛教協会」について、奈良先生に電話でお聞きしたところ、解説を書いてくださるとの御厚情を頂いた。まさか、奈良先生がご病状を抱えていることを知らず、お願いしたところ、まもなく原稿を頂いた。

 が、その後、ご子息から、先生が御遷化なされたことを聞いて、「まことに申し訳無いことをした」との思いであった。我妻氏と言い、奈良先生と言い、専門外のことを知らない愚生にとっては、あらめて「ベンガル佛教」に目を開かせて頂いた。(前記の阪東性純先生は数年前に亡くなられ、藤井正雄先生も、奈良先生と相前後して亡くなられた。まことに痛恨の極みである。)

 木村先生については、カルカッタへ行く船で、谷川徹三先生(後の法政大学総長)と一緒だったと、谷川先生自ら自著に記している。木村先生は威張ってモノを言う人で、谷川先生が、「西欧哲学を勉強するためにロンドンに行く」と言うと、「東洋哲学を知らずして、西洋哲学を語るなかれ」と言って、カルカッタまでの一ヶ月の船中で、谷川先生が仏教や東洋哲学を学んだという。それが機縁となって、仏教のわかる哲学者になったのだという。

 ❻ インドの詩人・タゴールの名を知らない人はないが、木村龍寛先生はタゴールと親交があり、タゴールの来日の希望を叶えて、タゴールの要請により、木村先生が独特の抑揚のある「ベンガル語」の通訳をしたことを、このたびの我妻氏の論攷によって初めて知ることが出来た。

 もはや、立正大学でも日蓮宗でも、木村龍寛先生の業績を知る人は皆無の状態である。おそらく、仏教界でも、忘れ去られているのが実状ではないであろうか。大学を去る頃の木村先生は、優遇された往時のインドのことが忘れられなかったようで、威張りくさっていた印象が強い。そのために、大学を追いやられたかの感じがある。先生の著書は、立正大学図書館にあるとのことであるが、今はほとんど忘れさられているのではなかろうか。

 その木村龍寛先生の記録を遺してくれたのが、高校時代の同級で、しかも独文に進んだ我妻和男氏であり、氏のベンガル語の論攷を日本語訳してくれたのは、絅子夫人であること。また、我妻氏が寄稿した「ベンガル佛教協会百年誌」に奈良康明先生も寄稿されているところから、奈良先生から「ベンガル佛教協会」についてご教示いただいたことを、有り難く感ずるところである。

 霊山浄土の木村龍寛(日紀)先生も、どれほどお喜びであろうかと、涙する次第である。

更新日:2019.08.13