天竺ブギウギ・ライト⑯/河野亮仙
第16回 天竺ブギウギ・ライト
インド舞踊入門その3/インド人は神話が好き
インド人は神話が大好きなので、何でも神話にして説明する。例えば梵字ブラーフミー文字は梵天ブラフマー神が創ったという。ブラフマー神が世界を創造したのなら梵字もその中の一つに違いない。
シヴァ神が勇壮な踊りターンダヴァを創り、妻のパールヴァティーが優美な舞いラースヤを始めたという。しかし、それはいつの時代の話なのだろう。
図像の上でターンダヴァを確認できるのは5世紀以降、密教時代に入ってからだ。インド芸能の聖典、バラタ仙に帰せられる『バーラティーヤ・ナーティヤ・シャーストラ』も、その頃からまとめられ、それ以前の文献にターンダヴァの語はないと思われる。これもタンドゥという仙人が始めたからターンダヴァだという出来の悪い物語に拠っている。
バラタ仙が何者かも分からない。そういうとき、インド人はバラタのバはバーヴァ(情感)のバ、ラはラーガ(音律)のガ、タはターラ(リズム)のタと取って付けたような解釈をして満足する。
紀元前4世紀の文法家パーニニの著述にナタという語があるので、インドの学者は『ナーティヤ・シャーストラ』の起源をそこに求めるが、この時代は演劇未満で、ナタはアクター、踊る者、大道芸人ではないか。戯曲の成立は2世紀頃の馬鳴と称されるアシュヴァゴーシャ作『シャーリプトラ・プラカラナ』からである。文芸が栄えたグプタ朝、4-5世紀の詩人カーリダーサの戯曲は『ナーティヤ・シャーストラ』の内容を踏まえているので、中核はその頃にできていたのだろう。
インド舞踊の起源はインダス文明の通称「踊り子像」にあって、インド舞踊の歴史は3000年とインド人は古いもの自慢をする。
また、Dance Dialectsという言い方をして、インドの舞踊というのは『ナーティヤ・シャーストラ』に記述された大本のインド舞踊から地方毎に分かれたものだと一元論で理解したがる。ラテン語、ギリシア語、サンスクリット語、ペルシア語などに分かれる前の印欧祖語があったというような考え方だ。バラタナーティヤム、クチプリ、オリッシー、カタカリの元になった「インド祖舞踊」なんてないだろう。
およそ『マヌ法典』『実利論』や建築書に描かれるそのままの社会や村、建築物は存在しない。事実を反映していないわけではないが、理論上の産物である。
『ナーティヤ・シャーストラ』を反映していると思われるのはケーララ州のクーリヤーッタムのみであり、彼らの用いる寺院付きの劇場クータンバラムも『ナーティヤ・シャーストラ』に説明される劇場の造りとは異なるものだ。
バラタ仙は何者
さて、バラタ仙とは一体何者だろうか。これについては何も証拠がないので、誰も語らない。ドゥフシャンタ王とシャクンタラー姫の間に生まれた子ではなさそうだ。ラーマ王子の弟でもない。
マッディヤ・プラデーシュ州ブンデルカンドにはラーイーという芸能がある。パンデーを名乗るバラモンたちと、別の村に住みカーストも低いベーリニーという踊り子が組んで、激しく太鼓を叩いて繰り広げる大道芸だ。1984年に、国際交流基金と日本文化財団が主催した「大道芸の世界」に来日した踊り子の一人はアニター・バーイーと名乗った。元をたどると遊女だろう。
ラーイーは、かつて王侯貴族をパトロンに、結婚式、誕生会などの宴会や、祈願成就のために呼ばれて上演された。ラーイーのトップグループのリーダーであるラーム・サハイ・パンデーの村で、男達はインド・レスリング、クシュティの鍛錬をしている。ガダという大きな棍棒を振り回したり、石をバーベルのように持ち上げたり、剣など様々な武器を練習し、軽々と踊ってとんぼを切る。王様の周りを飾るのは遊女とレスラーなので両者が結びつくのはうなずける。
バラタと称されたのは、このようなアクロバットや形態模写を得意とするようなチカラビトに、文学的才能を持つインテリのバラモンが合流した演劇集団だったのではないか。
能楽の始まりも散楽、いわば雑伎団である。宮廷に召し上げられる前は路上で稼ぐほかない。
チャーキヤールとナーヤルの婚姻関係
また、古典サンスクリット語劇を伝承するカーストのチャーキヤールについては次のように説明する。一般に上位カーストの男と下位カーストの女との関係は認められてアヌ・ローマという。逆はプラティ・ローマといって忌避される。
ケーララ州にはナンブーディリという、カシミールから移住してきたともいわれるバラモンのカーストがあり、一方、ケーララの有力カーストは地主階層のナーヤルである。移住する場合は男の方が多い。
ナーヤルの女は成熟する前にターリという黄金の飾りを首に巻く儀式を行う。仮の夫が同席する結婚式である。成熟してからは他の男性と継続的な関係を持つことができる。この関係はサンバンダムという正式な結婚で、相手の男は自分より下位のカーストではいけない。男は生まれた子の養育の義務はなく、ターラワドに住む叔父などが父親代わりになる。
通い婚なので何人かの男の中でふさわしい男が産婆に贈り物をして自分の子として認知する。名乗り出る男がいない場合は、ふさわしくない男、つまり下位カーストの男との間に生まれたとされて母と子は大家族から追放される。
ナンブーディリは父系制で、かつては長子のみがナンブーディリどうしで結婚し、他の男子はナーヤルと結婚したという。ナーヤルは母系制で、その土地は母系の親族集団であるターラワドが所有する。そこに源氏物語の時代のように男は通い婚をする。ナーヤルの女との間に子供が出来たら、その子はナーヤルの家族の中で育てられる。
逆に、ナンブーディリの女がナーヤルの子を身籠もったと疑われたら、さあどうしようと裁判に掛けられる。潔白ならそれでよし、密通と認定されたら女は子と共にカーストから追放される。白黒が付けばよいが、破門が決まる前にどちらとも身分の決しがたい子が生まれてしまったらどうなる。
その子はチャーキヤールとなると説明される。しかし、それではなり手があまりに少ないのではないかと思う。これも新しく創られた神話である。神話とはギリシア語でミュトス、作り話のことである。
サンスクリット語劇の継承者
チャーキヤールはバラモン格であり、サンスクリット語劇を伝承するということは、単にセリフを丸暗記して演技するのではない。サンスクリット語はもちろんのこと伝統的なバラモン教学と教養を身につけるということだ。
1981年、バナーラス・ヒンドゥー大学に留学中のとき、大学で国際サンスクリット学会が開かれた。マニ・マーダヴァ・チャーキヤールがやって来て演技のデモンストレーションを行った。学会に集まったバラモンの高名な学者が、五体投地をしてマニ・マーダヴァに尊敬の念を表しているのを見て感心した。大学の先生方は西洋流の文献学を身に付けている。
チャーキヤールはケーララで生まれた、8-9世紀の学匠シャンカラ・アーチャーリヤのように、完全に伝統的な教育法で学んだ。そんな無形文化財ともいうべき巨匠がインドの最南端には存在したのかという驚きだ。マニ・マーダヴァはサンスクリット語で挨拶をした。チャーキヤールと大学の先生はサンスクリット語で会話したことだろう。チャーキヤールの名は釈迦族に由来するとの説もある。ケーララで信仰されるアイヤッパ神の姿は釈迦像から来ているともいう。
クーリヤーッタムというサンスクリット語古典劇においては女優が登場する。男優のみで演じられるカタカリやヤクシャガーナのような地方劇と違って、自然の性で演じるというのが『ナーティヤ・シャーストラ』の規定である。
女優ナンギヤールはナンブーディリではなくアンバラヴァーシー、寺院付きのカーストであるナンビヤールの女が勤める。ナンビヤールは打楽器で劇の伴奏を勤める。ナンブーディリの女は演技に関わらない。何故だろう。
ナンギヤールの出自
ナンブーディリの女は普通の人だからだ。普通の反対は何かというとプロフェッショナルである。伝統的に公衆の面前で歌舞を演じるのはプロ、コート・ダンサーかテンプル・ダンサー。
英語でいうと上品に聞こえるが、サンスクリットで前者はラージャダーシー、後者はデーヴァダーシー。宮廷に出入りできる女はガニカー、高級娼婦で、歌と踊りのみならずサンスクリット語やバラモンの教養を身に付けている。普通の女の人が学問をすることは想定されていなかった。
ラージャダーシーとデーヴァダーシーの境界も曖昧だと思う。王が寺院に住むこともある。デーヴァダーシーは寺院付き、神に捧げられて手当を貰い、後は自分で稼ぎなさいということになる。才覚があれば寺の高僧や金持ちをパトロンにする。
芸能人が初めは事務所に所属して薄給で働き、売れてくると独立して個人事務所を作るのに似ているのではないか。評判を呼ぶ芸能者、セレブは寺から独立し、是非、会いたい、一目見たいと金持ちが世界中から貢ぎ物を持って寄ってくる。それがガニカーである。お釈迦様の時代からいて、出家して弟子になったりしている。彼女らはインテリであり、釈迦教団のスポンサーともなる。ヴァイシャーリーで評判のガニカーであるアームラパーリーは、自身が所有するマンゴー園を釈尊に寄進した。
デーヴァダーシーが制度化されるのはグプタ朝の頃で、8世紀頃南インドにも伝わり、9世紀にはケーララでも行われていたようだ。寺院で儀礼として歌舞を舞い、人寄せ、資金集めに協力する。元々は良家の子女が選ばれて寺に入り、尊敬される存在だった。おそらく待遇も良く大切にされたのだろう。
9世紀のクラシェーカラ王の娘ニーラーはシュリーランガム寺院に捧げられた。ケーララに残る最初期の刻文には、チッタライル・ナンギヤールというデーヴァダーシーがチョークル寺院に土地を寄進したことが記されている。寺院を飾るための捧げ物は香華、灯明、歌舞、歌や踊りを供する人である。
トリチュールのワダックナータン寺院は、もともと仏教寺院であったとも伝えられる。12世紀の刻文には多数のデーヴァダーシーがいたと記される。数百人の規模だろう。その中の優れた芸妓、遊女は大土地所有者にもらわれていく。詩人は遊女を讃える詩を盛んに作りもてはやされた。こうした文芸の流行と演劇の興隆は無関係ではあるまい。
しかし、13世紀以降デーヴァダーシーは寺に奉仕するというより、大土地所有者や金持ちにおもねる売春婦に堕落していったとシュリーダーラ・メノンは記す。
チョーラ朝においては戦争による略奪や交易によって巨万の富を得たが、歳入が減ると雇用者の待遇も悪くなり、自活の道を探すことになる。ケーララでは1930年にデーヴァダーシーは廃止される。
チャーキヤールとナンビヤールの関係
ナンビヤールも打楽器のみならず演技にも関わっていたと思われる。マニ・マーダヴァ・チャーキヤールの息子はナーラーヤナン・ナンビヤールと名乗る。ナンビヤールの女は厳しい修行を積んでアランゲットラムという女優デビューをして、初めてナンギヤールを名乗れる。芸妓となれる。
クーリヤーッタムという総合劇においては主として端に座って小シンバルを叩き、サンスクリット語の詩節を唱える。つまり、サンスクリット語の学習が必須である。やはり、ガニカーの系譜を引いているのだろうか。クッティ・ナンギヤール・アンマはサンスクリット学者であったが、ほとんど舞うことはなかったという。
マニ・マーダヴァ・チャーキヤールは、おそらくナンギヤールと結婚したため、ナーラーヤナンはナンビヤール家の息子ということになったのではないか。父系制の家を出て母系制の家に移り住んだのである。大学の講堂でバーサ作『夢のバーサヴァダッター』を上演し、マニ・マーダヴァはウダヤナ王を、ナーラーヤナンは道化ヴィドゥーシャカを演じた。
大昔の話だが、クンチャン・ナンビヤールは失敗をしたためクーリヤーッタム劇から追放されて、オッタン・トゥッラルという、仕草と歌も交えた一人劇を創始したという逸話がある。
ナンビヤールのカーストは、タミルにおけるデーヴァダーシーとその伴奏者を出すイサイ・ヴェーラーラルのカーストに相当するのではないか。
シュリーダーラ・メノンによると、北インドのアーリヤ的な文化を保つバラモンは前3世紀ケーララに来て、続いて仏教徒、ジャイナ教徒もやって来たとする。ナンブーディリは8世紀頃にはケーララへの移住をして四姓のカースト制度を確立するようになる。
移住者は人数が少ないため、長子相続で財産が分割されないように守る。2番目からの男子は家を出る。チャーキヤールもそれに準じる集団だ。ナンビヤールもナーヤルと同じようなケーララに土着の母系集団なのだろう。とはいえチャーキヤールもナンビヤールもその境界は曖昧なように思える。
彼らが今日も伝承する一人舞いのクートゥや総合劇であるクーリヤーッタムは、9世紀頃からマホーダヤプラムに依拠するクラシェーカラ家の庇護の元に生成、発展したとされる。演劇の伝統として雅楽に匹敵する古さで、世界文化遺産に指定されている。
https://www.youtube.com/watch?v=5aFLBAYTMA0
おそらく10世紀前後に地方語の文芸が発達してくるとともに、サンスクリット語劇は衰退し、ヤクシャガーナのような歌と地方語による語りによる親しみやすい舞踊劇が次第に発展したのだろう。
サンスクリット語劇が連綿と保持されているのはケーララだけであり、また、ヴェーダ祭式もナンブーディリによって保持されている。その伝統がどこからもたらされたものかは解明されていない。
サンスクリット劇の伝承はどこからもたらされたか
ブッダの伝記『仏所行讃』を美文体の詩で描いた、馬鳴ことアシュヴァゴーシャは、『シャーリプトラ・プラカラナ』という舎利弗、目連がブッダに帰依するという戯曲を残している。
https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e2%91%b2/
https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e3%8a%b4/
『大荘厳論経』なども著わしているため、同一人物なのか疑われる。インドには、しばしば同名の学者がいて混乱するが、馬鳴についても6人いたなどといわれる。
一説ではウッタル・プラデーシュ州シュラーヴァスティー(舎衛城)のサーケータ出身という。カニシカ王に乞われてガンダーラ地方のプルシャプラ(ペシャワール)に赴き参与となった。また、『阿毘曇毘婆沙論』の編集に招かれてカシミールに行ったともいわれる。
東北インド出身の馬鳴はガンダーラとかカシミールという西北インドで創作活動を行ったのだろうか。カシミールでは仏教も盛んで4-5世紀頃には説一切有部が発展して、中国僧はカシミールを目指した。玄奘三蔵も629年頃に一年ほど滞在して仏教の基礎であるアビダルマ、倶舎論を学んだ。
9世紀に至るとカシミール・シヴァ派が発展し、11世紀頃、アビナヴァグプタが不二一元論を展開する。彼はまた、『アビナヴァ・バーラティー』という『ナーティヤ・シャーストラ』の注釈を書く。『ナーティヤ・シャーストラ』がどこで書かれ、どこで編纂されたかは分からないが、その写本はインド各地から発見されている。
カーリダーサの活躍したウッジャイニー(現ウッジェイン)では300年以上前の写本が、ヒマラヤ山嶺のアールモーラでは500年以上前の写本が、ネパールでもネワーリ語の書体による写本が見つかっている。トラヴァンコール藩王(ケーララ州南部)の図書館には400年以上前と思われる非常によい写本が残っている。インドは暑いので300年以上前の椰子葉の写本が残っているのは珍しい。
それによってどこで需要があったか、音楽、舞踊、美術など芸術理論の研究のために参照されたかが分かる。非常に驚いたことに、稀覯書のバローダ大学版“Natyasastra”がインターネットに上がっている。もちろんサンスクリットのテキストだが、序文は英語である。なんとも便利な世の中になったものだ。ゴーシュによる英訳も上がっている。
https://ia801407.us.archive.org/6/items/Mus-SourceTexts/TxtSkt-nATySAstram-withABcommentary-GOS-vol1-1956-0033.pdf
https://archive.org/details/NatyaShastra/natya_shastra_translation_volume_1_-_bharat_muni/
同書の写本はケーララ州にアビナヴァグプタの注と共に多く残っている。ナンブーディリのカシミール起源説と符合する。彼らの一部が下位カーストと通婚したため、チャーキヤールとなったのだろうか。
新しい血の導入
バラモンやチャーキヤールの純血など保てるわけがない。守っていたら子孫が絶えてしまう。
インド留学中の1981年、マドラス郊外にあるアディヤール・ライブラリーに半年ほど滞在した。その時の図書館長がサンスクリット学者のクンジュニ・ラージャーであった。1964年にチャーキヤールとクーリヤーッタムについての論文をサンギート・ナータク・アカデミーで発表した。それまでは、地元の人や関係者しか知らなかったサンスクリット語劇の伝統を世に知らしめた。記憶によるので正確な数字ではないが、18あったチャーキヤールの家族が5家に減ってしまったと書いてあったように思う。現在はどうなのだろう。
ケーララ・カラーマンダラムでは、いち早く1965年にチャーキヤール以外に門戸を開放して、シヴァン・ナンブーディリが優れたクーリヤーッタムの役者となっていた。
かつての巨匠マニ・マーダヴァ・チャーキヤールも亡くなり、その後はアマヌール・チャーキヤールが、81年よりコチュクタン・チャーキヤールとともにマールギで、82年よりアマヌール・グルクラムで指導したが2008年に亡くなられている。コチュクタンの息子でいたずら小僧のマドゥは、40年近く前から撮った写真を上げたりして可愛がっていた。2013年に栄えあるパドマシュリーを受賞して第一人者になっている。文化功労者といったところか。
役者であり研究者でもあるG.ヴェーヌはナーヤルだが、ナータナ・カイラーリという学院を開いてクーリヤーッタム、モーヒニーアーッタムの復興に努め、外国人にも門戸を開放した。
1997年のナマステ・インディアは、すみだリバーサイド・ホールで催されたが、その際に来日したクーリヤーッタム一座は延命寺でも公演をした。ヴェーヌと娘のカピラーは役者として出演し、奥方のニルマラーは舞台脇で小シンバルを叩いていた。血統による縛りを解いて、滅びかけていたナンギヤール・クートゥをヴェーヌたちが復興した。
日本とも関わりが深く何回か来日し、早くから入野智江が入門して優れた役者となった。日本においてアビナヤ・ラボを開設し、岩田豊美を一人前に育てた。
https://abhinayalabo.mystrikingly.com/
ニルマラーはモーヒニーアーッタムの指導者、研究者であり、その元に岡埜桂子が通って立派な舞踊家になった。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論
更新日:2024.12.13