天竺ブギウギ・ライト⑫/河野亮仙
第12回 天竺ブギウギ・ライト
インド舞踊入門その2/先駆者たち
このゴールデン・ウイークに新国立劇場バレエ団が牧阿佐美版『ラ・バヤデール』を上演するというニュースが流れた。バヤデールとは踊り子のこと、インドの宮廷での愛憎劇だ。
https://www.youtube.com/watch?v=ecosBtvpNnA
https://www.youtube.com/watch?v=EeV8GE8dnDc
牧幹夫と桝源次郎の留学
自伝によると、2021年に87歳で亡くなられた牧阿佐美(本名・福田阿佐美)の父は、牧幹夫(本名・北沢牧三郎)、母は橘秋子(本名・福田サク)。両親ともにバレエ・ダンサーで、二人で橘秋子舞踊研究所を始める。入籍はしていなかった。牧三郎は生後すぐ、宇都宮に宣教師として赴任していたアメリカ人のフライ夫妻に預けられ、そこで育った。
阿佐美が5歳の1938年に父はぷいと出国し、タゴールの下でインドの舞踊と文化を学ぶことになる。インドではジョン・マキ・アンダーソンと名乗り、スパイとも消息不明ともいわれたが、1953年にはボンベイで榊原帰逸を迎え、親切に世話をした。「インドに行ってインド人となって」と榊原は書いている。
ボンベイの領事館に勤めていたので、1965年、留学してきた櫻井曉美の面倒を見た。奥さんもいたという。英語がネイティブなので日本政府の密命を帯びて、急に出国したのかもしれない。秋子や阿佐美とは連絡を取らなかったようだ。1970年にその訃報が届く。
フランス語、サンスクリット語も学んだようだ。我妻和男『人類の知的遺産/タゴール』には、音楽学部舞踊科に入るとたちまちインド舞踊に上達し、タゴール劇にも出演したと書かれている。
1935年、桝源次郎はタゴール大学にインド音楽を学ぶため2年間留学した。その3年前は中国で音楽事情を調査していて、インドから中国への影響を調べるという名目でやってきた。1938年の『東洋音楽研究』には、在支特務機関の一員として活躍中として報告されている。つまり、彼はスパイだった。牧が桝の後任で交代したと考えられないこともない。
そもそも岡倉天心も現地ではスパイと見なされて、官憲につけ回され監視されていた。実際、危険分子とも接触していた。音楽舞踊、美術の調査という名目では比較的自由に飛び回れる。
今はどうなのか知らないが、我々が留学していた頃も、お茶屋で油を売っているように見えるお巡りさんに監視されていて、毎日、何処に行ったとか記録されていたようだ。それを帰国時に分けてくれれば日記の代わりになったのに。
タゴールが先駆ける
一昔前はインド四大舞踊といった。バラタナーティヤム、カタック、カタカリ、マニプリーにオリッシーが割り込み、今ではクチプリ、モーヒニーアーッタムでインド七大舞踊とか呼ばれているようだ。
四大舞踊というのは、おそらくタゴール周辺がいい出したことで、北のカタック、南のバラタナーティヤム、演劇的要素の強いカタカリがインドの西南端、フォークのマニプリーは東北部とバランスよくピックアップしたのだろう。
北インド、ラクナウの宮廷にはバーイジーと呼ばれるタワーイフ、すなわち、コート・ダンサーがいた。金持ち相手に歌や踊りを披露する遊女である。村の祭りや祝い事に招かれる庶民の生活の中で踊るダンサーはナーチニーと呼ばれた。
英領インドになってからは売春婦のように見なされ、インド人も欧化されて彼女らを疎んじるようになった。近代化を急ぐあまり、芸術は国民を弱体化させると考えられた。しかし、喜びを表現することによって人生を豊かにし、決して仕事の邪魔をするものではないと、タゴールはインドの音楽、絵画の教育に重きを置いた。
伝統文化復興のため、1919年、タゴールの学園に芸術学部を設立して、マニプリー・ダンスを導入した。当初は踊りというよりエクササイズ、日本でいう体育だとして遠慮がちに始めたようだ。音楽舞踊や美術は大学で学ぶものとは思われていなかった。本来、師匠の家に住み込みや通いで習うものだ。全身舞踊家にならないといけない。
音楽学部にはタゴール・ソングの科と古典音楽科(西洋古典音楽ではなくヒンドゥーの音楽)を作り、マニプリー・ダンスを中核にタゴールの歌を合わせてタゴール・ダンスを工夫した。他にいわゆる四大舞踊と器楽のコースも作った。
大学より下の学校ではタゴール・ソング、タゴール・ダンスが必修で、タゴールの舞踊劇が開催されるときは、美術工芸部など全学的に参加した。
タゴールの学園は、1921年、ヴィシュヴァバーラティー大学、通称タゴール国際大学として開学し、音楽舞踊部門は独立したカレッジとなった。インド文化のセンターを目指していた。ワラトールのカラーマンダラム、ルクミニー・デーヴィーのカラークシェートラに先駆けた動きである。
タゴールが歌劇、舞踊劇を創作する中、ウダエ・シャンカルは1929年に帰国して母国の芸能を見て回る。ウダエ・シャンカルの舞踊団はカルカッタにもやって来る。彼の世界的な名声によって、インドの舞踊も芸術であるという意識が生まれる。
モダン・ダンスからインド・バレエへ
アメリカ・モダン・ダンスの祖といわれるルース・デニスは、1906年にラーダーとクリシュナの物語を上演しているが、その音楽はオペラ「ラクメ」からとったもので、バレエにオリエンタルなフレイヴァーを加味したものかと思われる。
よく知られているようにバレエ・ダンサーのアンナ・パブロワは、イギリス留学中の画学生ウダエ・シャンカルを見いだして、「ラーダーとクリシュナ」を上演した。インド・バレエの誕生である。実は、それまでインド舞踊という概念はなかった。
https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e2%91%a7/
ベンガルにはベンガルの歌と踊りがあり、ラクナウやバナーラスにはタワーイフの歌と踊りがある。南インドには舞踊劇のバーガヴァタ・メーラーやカタカリ、ヤクシャガーナがあるという理解だ。他の藩王国で行われている踊りなど知るべくもない。
阿波踊り、郡上踊り、カチャーシーや石見神楽、高千穂神楽、早池峰神楽が別個に存在しているようなものだ。
ウダエ・シャンカルはカタックのみならず、バラタナーティヤム、カタカリ等を学び、物語を創作してインド・バレエとして展開した。インド人自身がインドの舞踊を知らなかった時代のことだ。ラーム・ゴーパルも、スジャーターとアショーカも、リタ・デーヴィーも皆続いた。昭和28(1953)年にタゴール大学に留学した榊原帰逸も和製インド・バレエを目指したのだと思う。
榊原は留学の帰途、ビルマのラングーンに入り、タイのバンコクに抜ける。バンコクではインドネシア舞踊まで習う事が出来た。さらに、沖縄を回って羽田に帰国する、民族舞踊の旅を行った。その成果が昭和29(1954)年の公演プログラムに表れている。70年前の話だ。
自伝的な「東洋の心」によると明治43(1910)年生。愛知県の田舎で育ち、仏門に入り、破塵館で占部惟順に教えを受ける。また別に、日本舞踊も習っていた。早稲田大学では印度哲学を専攻し、武田豊四郎(早稲田大学仏教青年会初代会長)に師事する。日本大学講師となり、児童教育教師養成所の仕事を担ったことから日本コロンビアの専属舞踊家となる。
民謡や音頭、童謡、詩吟など二千数百枚のレコードに振り付けを付けた。私の実家では保育園をやっていたが、童謡のレコードの付録に振り付けが書いてあったような気がする。日本コロンビアは昭和16(1941)年にSPレコードで『東亜の音楽』というシリーズをリリースした。1997年にはこれが丁寧な解説付きでCD化された。中国、タイ、インド、ジャワ、バリ、イランの音楽が収録されている。
インドにもコロンビア・レコードがあるので、インド・コロンビアが保証してタゴール大学に留学できた。当時は船でインドに行くのが当たり前だったのに飛行機、プロペラ機で渡印した。留学は、サールナートの初転法輪寺に釈尊一代記を描いた野生司香雪が、ムクル・デイを紹介してくれたことによる。
榊原は昭和13(1938)年に、すでに日比谷公会堂で印度仏教舞踊劇「指蔓外道」を上演しているので、タゴールが仏教劇を上演しているのを意識していたに違いない。昭和21(1946)年には野生司香雪も長野市仏教会に協力して仏教舞踊劇を制作している。
榊原の帰朝公演のプログラムを見ると、バラタの伝道者やカタックの継承者を志していたのではなく、東洋舞踊、オリエンタル・ダンスと印度バレエを創作していたことが分かる。
野生司香雪との縁
さて、野生司香雪の修業時代、インドで仏像を模写していると、毎日そのそばに来て見ている子供がいた。仲良くなってその子に絵を教えてやった。カルカッタ博物館での出来事だろうか。
その子が成長してカルカッタの官立美術学校の校長となっていた。それがムクル・デイ画伯であり、香雪のため家の庭にアトリエを設けた。榊原は客員教授待遇でそこに住み、いろいろと便宜を図ってもらった。
榊原はマニプリー舞踊家として知られるラジクマル・セナリク・シンの指導を受けた。飲み込みが早く、難しいステップもすぐにものにして、二年のコースを短期間で習得したという。日本舞踊を披露して新聞に載ると、どこへ行ってもVIP待遇だった。我々が一介の貧乏留学生として留学したのとはえらい違いである。
さらに、人の縁とは面白いもので、昭和62(1987)年に榊原はタゴール大学から文学博士号を認定されるが、同時にムクル・デイも授与されていた。インドには、少なからずインド舞踊で博士号を取得する舞踊家がいるが、日本人も続いてほしい。インド舞踊を踊る人は今や日本に数百人いるのかも知れないが、研究的な人は少ない。誰もインド舞踊の歴史を検証しないのでわたしがやっている。
昭和29年の出来事
榊原帰逸は帰国するや翌昭和29(1954)年6月6日に帰朝公演を行っている。また、同年10月16日から11月18日にかけて、読売新聞社の主催でSUJATA&ASOKAの全国公演11回が行われている。初めの3回と終わりの2回、合わせて5回も日比谷公会堂で公演が行われていて、果たして集客はどうだったのだろうか。
インド舞踊専門の音楽家を帯同したわけではなく、シタール、タブラーの他、ギター、ヴィオラ、フルート等による劇伴のようなインド録音のレコードを伴奏に用いた。33回転のLPレコードは1948年に米コロンビアから初めて発売された。ひょっとしたら、2分半程度のシングル盤を一曲ごとに用いたのかもしれない。写真で見る限り出演者は二人で、宿は一部屋取ればいいのだから、経費はそれほどかからなかっただろう。
スジャーターとアショーカは1948年以来、全米で何百回も公演を重ね、スジャーターは「情炎の女サロメ」などの映画に出演し、アショーカ(ドイツ系らしい)は振付師として知られる。彼は18年間中国、チベット、インドを転々として何年もの間、僧侶の踊りを研究したと謎の経歴が語られる。チベットの仮面舞踊を演じたようだ。
パンフレットの解説には「シヤンカー舞踊を見てヒンヅー族に合流」とすごい訳文が付いているが、ウダエ・シャンカルの舞踊に出会って、ヒンドゥーの舞いを研究したということらしい。1939年にスジャーターと結婚したが、ヒマラヤで出会ったという。スジャーターはボンベイ生まれだがキリスト教徒のようだ。ユーチューブに映像がある。
https://www.youtube.com/watch?v=lgRM0aeGFvI
パンフレットには榊原の解説の他、淀川長治がビバリーヒルズでスジャーターとアショーカに会ったこと、そのパーティーの席でルース・セント・デニスを紹介されたとエッセイを寄せている。大正年間にそのデニショーン舞踊団を見てデニスの印度舞踊が美しかったと淀川は語る。
昭和11(1936)年に日劇ダンシング・チームの一期生として参加した三橋蓮子も一文を寄せている。昭和13(1938)年頃、ラ・メリ女史に連れられて来た、ラーム・ゴーパルという青年が日劇ダンシング・チームを指導したことにも触れている。
ラ・メリ(Russell Meriwether Hughes Jr.)はスペインとインドの舞踊を中心に研究し、1930年代にラーム・ゴーパルと共に世界中をツアーした。1940年にはルース・デニスと共にスクール・オブ・ナティヤというインド舞踊の研究所を作った。44年にはインド舞踊の振り付けで「白鳥の湖」を上演している。
三橋はラーム・ゴーパルと出会って印度舞踊に魂を奪われた。翌年から韓国伝統舞踊の調査と習得に努め、中国、シャム、ジャワ、バリ、琉球の踊りを見るにつけ、インドの影響を受けてその国なりのものを創り出していると記す。「東洋舞踊の会」を何回か開いた。榊原の発想や行動と共通点がある。榊原は昭和36(1961)年の大映映画「釈迦」で振り付けを担当している。
また三橋は、日劇ダンシング・チームで昭和29(1954)年に「印度珍道中」の振り付けを担当した。昭和26(1951)年の映画「ブンガワンソロ」の振り付けも行っている。プリヤゴーパル、ラクシュマンという舞踊家が2年前にやって来たことに触れているが、この二人については、まだ、調べが付いていない。
http://jyunchan2007.web.fc2.com/s2901indo.html
こんなことを書いていると「インド舞踊入門」ではなくて、「インド舞踊事始めの根掘り葉掘り」だな。アンナ・パブロワとウダエ・シャンカルが世界の舞踊界に衝撃を与え、日本にも波及したという話です。
注
スジャーターとアショーカは、1953年の映画「情炎の女サロメ」で短時間ながら二人で踊っている。そして、サロメ役のリタ・ヘイワースに東洋舞踊を振り付けた。山川鴻三『サロメ』(新潮選書)によると、オスカー・ワイルドの「サロメ」は大正二、三年に島村抱月演出松井須磨子主演で127回も上演されたという。その後、川上貞奴、水谷八重子、岸田今日子らが演じている。
サロメはバレエやモダン・ダンス、つかこうへいのロック・オペラ!?でも取り上げられてきた。
https://www.zawazawa.com/joe/disc/salome.htm
1977年には長峰ヤス子がフラメンコ版を演じ、それに触発されたか、シャクティが1980年にインド舞踊版を上演した。その時私は留学中だったので見ていない。誰か見た人、「私出演しました」という人もいるかも知れない。これも歴史である。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論
更新日:2024.05.31