初めてのインド/鹿子木謙吉

日印交流・再発見 その2:鹿子木謙吉

初めてのインド

鹿子木謙吉(元日印協会常務理事)

 私が最初にインドの土を踏んだのは、1972年8月5日「インド大陸横断列車大作戦」と名付けられた日印協会主催、文部省後援の総勢100名を超える大旅行団の団長高岡大輔氏(当時日印協会副会長)の秘書役としての訪印でした。

 当時私はインドのイの字も知らず日印協会に入ったのは前年の5月で、“インドに仕事で行って体調を崩してもう2度とインドには行きたくない”とか、インド旅行で下痢をした話、インド旅行に行った青年がホテルから1歩も出ないで、観光もせずに数日間ホテルに泊まってそのまま帰国した話などを聞いていたので、内心不安と恐怖を抱きながら出発の日を迎えました。 当日一行が乗るエア・インディアの飛行機が羽田空港を出る前に、数名のインド人乗員、乗客を機内に待たせ、我々日本人旅行団全員と関係者が飛行機をバックに記念写真を撮ってからインドへと旅立ったのでした。

 飛行機は香港、バンコックに立ち寄った後、カルカッタ(現在のコルカタ)に到着。当時同市で一番大きく、格式の高いグランド・ホテルに向かいました。フグリー河に架かる大きな橋を渡り市の中心街に入ると、路面電車、バスにタクシー、人力車に、大きな荷物を積んだ荷車、その間を速足で歩く群衆に圧倒されました。

 翌日は午後、観光バスを連ねて、日比谷公園の10倍はあろうかと思われるマイダン公園を抜け、ビクトリア・メモリアル・ホールやスバシュ・チャンドラ・ボース記念館など見学した後、少し日が西に傾き始めた頃、有名なカリ寺院の広い境内にバスを止め、全員思い思いの場所に行き、見学を始めました。

 カリ寺院の圧巻は生贄の山羊を神に捧げる儀式で、小生もカメラを手に写真を撮り、神々の彫像や、神殿全体をカメラに収めるには広い境内のどのアングルからとったら上手く収まるのかを考えてあちこち移動し、集合時間の事などすっかり忘れて、写真撮影に夢中になっていました。

 気が付くとあたりが静かで、人の気配がありません。急いでバスを降りた場所に戻りましたが、バスの影も形も無く、寺の門前で人力車の車夫が数人たき火を囲み、煙草をくゆらせて何やら話し合っているのが見えました。急いで人力車の傍に行き、“グランド! グランド!”と叫びました。車夫の一人が、にやにや笑いながら、座席を叩いてこれに乗れと言うしぐさをしました。

 “助かった。 これで何とかホテルに戻れるか、グランドの名を覚えていてよかった”と思いながら、椅子に座りました。日はとっぷり暮れて、車はゆっくりと動き出しました。しかし寺に来る時は広い道から来たのに、なぜか車夫は暗い細い道ばかりを選んで進んで行きます。その時、日本人女性がアフガニスタンで誘拐されたニュースが頭を過りました。‘ひょっとして何処かに連れて行かれて、・・・。’少し心配になりました。もうこうなった以上、この車夫に身を任すしかありません。

 3-40分は走ったでしょうか。車夫は大きな白い建物の裏の路地で、車を止めました。よく見ると我が宿舎グランドの部屋の近く、明かりも見えます。団長の部屋は一番奥の大きなスイートルームで、その隣の部屋が小生の部屋、そういえば朝起きて窓から下を見下ろした時に見た、まさにその路地ではないか! 私は途中インドの車夫を疑った自分に恥入って、Thank you !  Thank you ! を繰り返し、少し多めにチップを払い、グランド・ホテルの正門へ走ったことを今も覚えています。勿論団長の高岡氏から大目玉を食らったことは言うまでもありません。後日、地元の人から聞いた話では、 人力車はホテル・グランドの前の大通りの通行が禁止されているとの事でした。

 翌日は出発まで自由行動。地元のガイドさんにお願いして、宿の近くのマーケットを案内してもらいました。流暢な日本語を話すので、“日本語をどこで覚えたの?”と聞くと、“昼間は地元の電力会社で働き、夜、日本総領事館が主宰する日本語クラスに通い勉強した”との返事が返ってきました。彼の名はダス・ボーミック、彼とは帰国後も文通を重ね、彼が2008年8月5日に糖尿病が原因で他界するまで、コルコタで唯一無二の友達として家族ぐるみのお付き合いを重ねて参りました。コルカタに行った時は彼の家に泊まり、朝早く起きて彼と二人で近くの魚市場に行き、彼が一番好きな魚を買い、夕食には奥様の手料理のフィシュ・カレーに舌鼓を打つのが楽しみでした。

 彼が来日する際には大勢のボーミック・フアン(女性が大半)が待ち構えていて、彼は誰と誰に会うのかその選択に頭を抱えていました。

 彼は電力会社を定年退職後、地元の友人と旅行会社を立ち上げ、かなりの成功を収めた後、彼のパートナーと一緒にヨーロッパ一周の旅に出た時の話です。イタリアで観光中、彼は美女に抱き付かれ,のぼせ上がって、いい気分で喜んだのも、つかの間、財布からパスポートまで擦られてしまったことに気が付いて、その女を追いかけて捕まえたのですが、彼女は何も持っていないことが分かり、逆に彼女に謝る羽目になったのです。後日警察に行って分かった事ですが、街には数人組みの擦りの集団が横行していて、美人の実行犯は擦ったものを次から次へと素早く、別の仲間に渡してしまうという話でした。

 さて、「インド大陸横断列車大作戦」の旅行団の皆さんは、カルカッタの出発駅であるハウラーの大きな待合室に入りました。そこで目にしたものは所狭し、と横になっていた無数の人々でした。後で分かった事ですが彼らは印・パ戦争でバングラデシュを追われ、カルカッタに列車で避難して来たヒンドゥー教徒達でした。 我々はその方々の体を踏まないよう注意して、我々の列車が待つホームへと歩いて行ったのでした。

 団員は豪華特急列車(英領インド時代の英国の役人やインドの王族が利用していたと思われるトイレ・シャワー、ベッド付きの個室<コンパートメン>を連結させて、中央に食堂車を繋いで編成した特別列車)に乗り込みましたが、参加者が予定数を超えていたため、団長以下、世話人のエア・インディア・スタッフやインド政府観光局職員、(株)朝日トラベルの添乗員、それに私を含め十数人は冷房なしの普通車に乗ることになりました。インドの真夏は4・5月ですが、8月の暑さも相当なものです。横座りの向かい合わせの椅子席の中央に氷柱を横に寝かせ、氷が解けた水を受ける大きな皿を下に敷いて、暑さを凌ぎました。

 列車は夜間に走り、昼間は次の大きな観光地の駅ホームの側線に列車を留めて、荷物は番人に見張りをさせ、団員は手荷物と貴重品のみ持ってバスで観光に出かける形式で、ブッダガヤ、ベナレス(サルナート)、カジュラホと観光し、アグラで列車を降りて、タージマハルとアグラ城見学、現地の小学校訪問などを行い、ホテルで1泊しました。翌日からはバスでバーラトプルの鳥類保護区を見学、そしてジャイプルでは、風の宮殿、王宮博物館、アンベール城など見学した後、インドの首都、デリー入りしました。

 デリーでは8月15日、午前中、インド独立記念式典に参列し、その後、特設テントが仮設された首相公邸で時の首相インディラ・ガンディー女史から歓迎のご挨拶を頂きました。首相のご挨拶が終わってから高岡大輔団長(元国会議員、東京外国語大学ヒンドスタニー語科卒業)のたっての要請をガンディー首相が受け入れ、団員一人一人と握手された後、首相を囲み全員記念写真を撮りました。

 デリーからは、日本に戻るグループとカシミールへの3泊4日の小旅行に参加するグループ、更にインドの旅を続けてオーランガバードへ飛び、そこで1泊し、バスでアジャンタへ、窟院内の壁画や仏像などを見学した後、エローラの仏教窟(南端に12の窟院)、ジャイナ教窟(北端に6つの窟院*)、そしてヒンドゥーの遺跡寺院群(中央に第13窟から第29窟迄合計17窟が並んでいる)を見学し、ボンベイ(現在のムンバイ)経由で帰国する3つのグループに分かれました。高岡団長と私は主催者の立場から最後まで皆さんとご一緒し、アジャンタとエローラの窟院を見学しました。

(注*)ジャイナ教の窟院は第30窟-34窟で合計5窟ですが第34窟が2か所に分散されています。

 私が一番感銘を受け、今も印象に残っている場所はエローラのヒンドゥー寺院、第16窟のカイラサナータ寺院です。この寺院は大きな岩山を削り楼門、シヴァ神の乗り物ナンディ牛を祀る祠、前殿、拝殿、そしてご本尊(シヴァ神の象徴リンガ)を祀る本殿、これを取り巻く回廊と彫刻を施した多くの石柱と、これ等3つの社殿内外に施された彫刻に至るまで、外から加えられたものはなく、一つの岩山を削り取って造られたもので、平凡社刊『南アジアを知る辞典』によれば、本殿の高さ30m、寺院の敷地幅45m強、奥行85m弱、と伝えられています。想像を絶する当時の技術力と難工事をやってのけた工人達のエネルギーを考えると、インドの人達の偉大な力に、私は只々頭の下がる思いがいたしました。

 私はこの旅行によって、初めて接したインドの人達の思いやりの心に触れ、また、偉大かつ多様なインドの文化に接して、すっかりインドの虜になってしまい、それが現在にまで続いています。

 

鹿子木謙吉

1936年 大阪生まれ

1961年 中央大学第二法学部卒業

1971年 日印協会事務局に就職

1977年より2018年まで日印協会理事、常任理事、非常勤理事、顧問を歴任

2013年 ディスカバー・インディア・クラブ(DIC)を設立

更新日:2018.05.15