一九五〇年代後半のベンガル仏教(追想)
奈良 康明
木村日紀先生のインドにおける御活躍を紹介する企画があると聞いて、嬉しいニューズだと思った。木村先生は通算十数年も「ベンガル」(今日の「インド共和国」西ベンガル州および「バングラデーシュ」国)で学者として活躍された方である。カルカッタ〈現コルカタ〉大学の教授をもつとめ、当時のベンガル仏教徒やR.タゴール翁と深い交流もあった。しかし先生についての紹介は今まで殆どなかったといっていい。残念に思っていたのだが、今回、故我妻和男先生の論考を基に木村先生のご業績がはじめて明らかにされるという。渡邊寶陽先生から私がカルカッタ大学に留学していたころの仏教状況を書くようにとの依頼があり、60年以上も前のことだが、特に準備もなく、片々とした追憶をのべる。
実を言うと私は木村先生にそう親しくしていただいたわけではない。1956年に私がカルカッタ大学から奨学金をもらって留学が決まったとき、たしか、中村元先生の紹介で、木村先生のご自宅を訪問していろいろと教えて頂いた。
二回目にお会いしたのは翌1957年、先生がカルカッタの「ベンガル仏教協会」で講演されたときのことである。流暢なベンガル語のご講演に深い感銘を受けた記憶がある。
私が留学したのはカルカッタ大学の「比較言語学科」だが、ここにも、そして隣接の「パーリ語学科」~木村先生はかつてここの教授、だった~にも「ベンガル仏教徒」の学生がいて、すぐ友人になった。そこで知ったのだが、仏教はインドで滅びたといわれているが、事実ではない。インドの東方に細々ながら存続し、伝統を受け継いできた仏教があることだった。それがベンガル仏教である。
今日のインド領西ベンガル州とバングラデーシュ国双方を含むベンガル地方は、8~12世紀にパーラ王朝の庇護のもとに最後の光芒を放っていた。インド密教最後の段階であるタントラ仏教の重要なテキストがあらわされ、美術も栄えた。しかしそれに続くセーナ王朝はヒンドゥー王朝で、前王朝の仏教保護への反発もあり、イスラム教徒の迫害もあって、仏教はこの頃よりヒンドゥー教の世界に吸収され始める。
しかし仏教は細々と生き続けた。広汎なヒンドゥー教の影響もあって、仏教本来の信仰は見失われて、信者たちはヒンドゥーの神々を信奉し、生け贄を捧げる儀礼まで行ったという。比丘たちの僧院生活においても律の規定はほとんど忘れ去られた。
しかし、1856年、アラカン地方の仏教指導者サーラメーダ比丘(Sāramedha 1801~82)がチッタゴンに来て改革が行われた。チッタゴン丘陵地帯のカーリンディー女王(Kālindi 1830~73)の援助もあり、比丘および信者の仏教徒としての生活が大いに是正された。特に1864年に七人の比丘がサーラメーダによりテーラヴァーダ仏教の正規の律の規定に従って受戒得度し、ベンガル仏教の改革が始まった。この系統はサンガラージャ派として今日でもベンガル仏教徒の主流をなしている。他の一派はマハースタヴィラ派であるが、両者の修行・生活内容に大差はない。
サーラメーダの運動を助けた外護者に地主のナジール・クリシユナ・チャンドラ・チョウドゥリー(Nazir Krishna Candra Chaudhuri 1844~1910)がいる。彼は仏教復古運動に力を尽くして、1887年に「チッタゴン仏教協会」(Chittagon Buddhist Association)を設立し、『仏教の友』(Bauddha-bandhu)などの雑誌も発行した。彼のこうした努力が当時の支配者たる英国に仏教とヒンドゥー教とは異なる信仰体系であることを知らしめ、同時に、仏教徒の仏教徒としての自覚を促すことになったという(S.Chaudhuri, 1982)。
さらに、1892年、クリパサラン比丘(Kripasarana)がカルカッタ(現コルカタ市)に「ベンガル仏教協会」(Bengal Buddhist Association Bauddha Dharmāṅkur sabhā)と僧院を設立した。カルカッタ市における最初の仏教寺院である。これより先、セイロン(現スリランカ)では1891年にダンマパーラ比丘(Anagārika Dhammapāla-Dharmapāla)がインドの仏教遺跡ならびに仏教信仰復興運動のために大菩提会(Mahā Bodhi Society)を設立、翌1892年にカルカッタにその本部を移している。以降、ベンガル仏教協会と大菩提会とはインドの伝統的仏教を担う中心的組織として存在し続けている。ベンガル仏教徒はインド領西ベンガル州にも定着し、仏教徒村を構成しているところもある(例えば、コルカタ市南方のバウッダナガル村など)。
彼らの多くは農民で決して富裕ではない。村の中央には仏寺があり、礼拝所兼集会所となっているところが多い。各家庭には仏壇ないし棚の上に仏像、仏画が飾られ、毎朝灯明がともされ礼拝される。テーラヴァーダ仏教徒として伝統的な涅槃(ニッパーナ)に関する教義は受け入れ、「無常 (anicca)・苦 (dukkha)・無我 (anattan)」は折に触れて語られ、四諦八正道を信じる。しかし、現実の生活においてはこうした教理的仏教はほとんど実践されることがない。本来の教えは書物にあり、敬意を払われているが、心はそこにあらず、相反することが実践されている。実際に生活を支えるのは功徳を積んで死後に天界、ないし人間世界の恵まれた環境に再生したい、という現実的姿勢である(S.Chaudhuri, 1982)。仏教の無我説は理念として受容しつつも、現実には輪廻転生する主体として霊魂は認められ、理論的矛盾をかかえたままに、教理と民俗信仰は両立している。これは他のテーラヴァーダ仏教諸国の事情 (M.Spiro, 1971)と同様である。
古代インドから伝承されているパリッタ〈paritta(防)護呪〉という呪句も普通に唱えられている。これは「身にふりかかる災いを払う」ための呪術的慣行であるが、仏教は合理的な教えで呪術は認めないという。しかし、著者の調査した仏教徒村の長老は「子供が重い病気になり、治らないときは祈祷儀礼をせざるを得ない。その時には〈大乗仏教でやる〉のだ」と答えた。ここにも教理と現実の乖離がある。
結婚式や葬儀、あるいは農耕儀礼は比丘が祭司を行っている。インドの宗派として当然のことながら、仏教徒としての自覚は強く、したがって、仏教徒は凝集力のある社会グループとして存在している。一種のカースト的社会だと言ってもいい。彼らは仏教徒村を構成して生活している。村の中央には寺があり、大きい村では比丘が常住している。
この点では、伝統的な仏教徒の在り方とは異なっている。古代インドでは、比丘サンガは無論独自の社会組織だが、一般仏教信者たちは伝統的なカーストをすてていない。カースト制度の外に「仏教徒社会」があったわけでもない。日常儀礼はヒンドゥーとしての慣行をまもりながら、信仰、生き方の面で仏教の教えを奉じていた。その意味では社会的にはヒンドゥー教徒であり、信仰面では仏教徒だったと言っていい。日本の熱心な仏教信者が同時に地域の氏神様を護り、神道信者であるのと似ている。
インドが分離独立する以前の英領「インド」には四十数万人の仏教徒がベンガル地方に住んでいた(人口比0.1%)。それが1947年の分離独立以後は、インド国民としての仏教徒は18万人(0.05%)で、その差の約二十六万人は当時の東パキスタン、その後独立して今のバングラデーシュに所属していた。国籍は違ってももともと同じベンガル仏教徒で、カルカッタにある「ベンガル仏教協会」の本部などを根拠に両国の僧侶たちは自由に往来していた。
ベンガル仏教協会のカルカッタの寺院の創建は1903年で、私が留学していた頃はダルマパーラ(ベンガル語の発音ではドルモパル)師が住職だった。私は折にふれて訪問し話をした記憶がある。同師はその後、二、三度、来日されている。当初は二階建ての古い建物だったが、私がいた頃に現在の三階建ての規模の大きな寺院に改築された。両国の仏教僧侶の修行道場であり、宿泊所であり、諸儀礼法要を行う場でもある。同時に小学校や薬局も開いていて、特に貧しい人々のための便を図っていた。今日でも同じであろうと思う。日本の仏教関係の青年たちもしばしばここに泊めてもらって、旅行を続けていたものである。宿泊だけで食事はすぐ近くの中華街でとっていた。ここではインドの普通の店では買えないビーフや豆腐も売っていて、私も買いに行った記憶がある。
カルカッタのもう一つの大きな仏教組織は「大菩提会」(MahāBodhi Society)である。これはスリランカ系の仏教で、組織としてベンガル仏教協会よりははるかに大きく、全インドに支部をもっている。その本部がカルカッタにあり、カルカッタ大学と池(タンク)を隔てた向こうにあるので、ここも私はしばしば訪れている。当時の理事長はバリシンハ師で、日本仏教界との関係が深い人である。大菩提会の信者は特に独自の社会を形成していない。信者たちはそれぞれの宗派、カーストに属しているままで、生き方としての仏教信仰を受け入れている。実存的な宗教信仰が信奉される際には、インドではこれがむしろ普通の形である。
ベンガル仏教徒、大菩提会の信者、そして中国仏教徒とチベット仏教徒が当時のインドの主たる仏教徒グループだったが、ここに「ネオ・ブディスト」(「新仏教徒」)の成立という大きな問題が起こった。私が留学して数ヶ月たったころであるが、1956年の10月14日、B.R.アンベードカル博士の指導により、不可触カーストであるマハールがヒンドゥー教を捨て仏教に集団改宗したのである。博士自身もマハールであるが、米英両国に留学し、学者であると同時に政治家で、独立インド初代の法務大臣をつとめ、憲法の草案作成にも関わった人である。
博士は自分が不可触カースト出身であり、少年時代から社会差別に苦しんできた。長くリーダーとして差別廃止の運動を続けてきたが、その難しさを身を以て知った。そのために差別廃止ではなく、差別のないインドの宗教である仏教に改宗することを考え、長年にわたり準備を進めてきた。博士は“Buddha and his Dhamma”(山際素男氏による和訳がある。『ブッダとそのダンマ』光文社新書、2004)を著し、それが完成した1956年に改宗式を挙げたのである。この機会に仏教徒になった者は五十万人にもなったという。インドの人口増も有り、今日、インドの仏教は約八百万人、人口比0.8%であり、その70%が新仏教徒だという。
当時の私はカースト・ヴァルナ制度のことも、インドの仏教徒のことも知らず、また改宗の状況やその意味をわからないながら、インド仏教史上の大きな事件が起こったという感覚はあった。カルカッタの仏教関係者ともいろいろ話しあった記憶がある。ベンガル仏教協会も大菩提会も新たな仏教徒の出現を歓迎し、公的な聲明も発していた。
しかし時間が経つにつれて、新仏教徒との間に間隙が出てきたようである。その理由はアンベードカルがこの著作で解説し、信者たちに学ぶようにと説いた内容が伝統的な仏教教理や釈尊伝とかなり異なっているからである。釈尊が悟り、説かれた仏教は宇宙の真実、(仏)法を識り、自我に基づく「苦」を解決する宗教である。内なる自己に向き合うことを根本とする。そのために外の社会的事象に対しては二次的な関心しか示さないという姿勢はたしかにある。仏教が非社会的な宗教だなどと批判される原因はここにあると言っていい。
しかしアンベードカルは自己実存に悩んだことはない。かれが仏教に改宗したのはあくまでも社会的差別を認めず、カーストをもたない宗教だからである。アンベードカルの改宗は宗教的というより社会的な要素が強いものだった。彼は仏教を学び、比丘の非社会性を非難し、社会的救済をもたらす仏教を説いた。そのために彼は幾つかの仏教教理を「改釈」している。「解釈」ではない、「改釈」である。
そのために、伝統的仏教の側には違和感があり、これは仏教ではない、アンベードカル教だなどという批判も出てきた。各寺にブッダとアンベードカルの写真が同じ大きさで並べられていること(~これは今日でも同じである~)も、そうした理解を助長しているようである。新仏教徒の出現から六十数年経つ。教団として着実に定着している。政党ももっているし、高校、大学も設立され、自前の僧侶も養成されている。
チベット仏教のリーダーであるダライラマ十四世がインドに亡命し、ダルマサラに亡命政府を樹立したのもこの時代で、1959年のことである。この年に私はまだインド滞在中で、今にして思うとインド仏教史の大きな変化が起こった時代に私はインドに住んでいたことになる。チベット仏教も今日ではインド社会に定着し、経済的な影響を与えるまで発展している地方もあるときいている。
こうしてみてくると、「インド仏教」などと一口で語れるものではない。成立の経緯も教理も実践も異なる種々の仏教、宗派が併存している。日本と同じだが、しかし、それを纏める「全日本仏教会」のような組織はない。私はそうした組織は、インドでは、おそらく出来得ないであろうと思っている。
私はインドの仏教徒たちが協力して、仏教精神をもって人々の幸福、平和のためにつくしてくださることを祈念している。
(『新アジア仏教史』第一巻より一部抜粋)
本稿は、『日蓮学』第2号(身延山大学国際日蓮学研究所 平成30年10月13日発行)に掲載されたものです。
更新日:2019.08.10