ベンガル仏教をめぐる状況のその後

荒木 重雄

 インド学・仏教学の碩学・故奈良康明博士のエッセイ「一九五〇年代後半のベンガル仏教(追想)」が当欄に掲載された。表題のとおり1950年代のベンガル地方の仏教界の様子が、博士の含蓄の深い言葉で彷彿として浮かんでくる。それから60年余りの歳月を経た現在、状況はどのように変わったのだろうか。

 たまたま2000年代にわたしが記した、関連する事柄についての小論がある。その情報を提供することで、50年代と現在を繋ぐひとつの足がかりを得ることができるのではないだろうか。そしてそのような現実を介在させることで、博士の滋味溢れた眼差しがいっそう豊かに浮かび上がってくるように思われるのである。

 まずはベンガルの一角を占めるバングラデシュのチッタゴン丘陵地方の仏教徒の状況から。

 

バングラデシュ・チッタゴン丘陵先住民の苦難の日々

 バングラデシュとは文字通り「バングラ(ベンガル人の)デシュ(国)」であるが、同国の南東部に広がるチッタゴン丘陵地帯には約60万人の非ベンガル人少数民族が、約13の民族に分かれて住んでいる。

 彼らは、平野部を占めるアーリア系のイスラム教徒ベンガル人とは異なる、モンゴロイド系の人々で、チベット・ビルマ語系統の言語を母語とし、宗教も、主要民族のチャクマ、マルマなど、人口の約7割が仏教徒、他はヒンドゥー教徒、キリスト教徒、一部に精霊崇拝である。

◇◇国内植民地にされて

 彼らは古来、農業を中心に部族長に統括された独自な社会を営んでいて、この地域が17世紀にムガール帝国に併合され、19世紀に英国に割譲されても、伝統的な自治は保障されてきた。

 ところが、1947年、英領インドがインドとパキスタンに分離独立して、この地域が東パキスタンに編入され、さらに71年、バングラデシュが独立するに及んで、地域の自治権は奪われ、住民の固有文化や人権を無視した中央政府の支配と開発政策に晒されることとなった。

 パキスタン時代には、米国の援助による大規模なダム湖が建設されて主要な耕作地が水底に沈められ、丘陵民人口の6分の1に当たる10万人が補償もなく土地を追われた。しかも、生産された電力は地域住民の生活を利することなく他地域の工業化や都市化のために送られていった。

 世界銀行の援助ですすめられた製紙工場などの開発も、ことごとく、住民が生活のすべてを依存する丘陵の土地と資源を収奪する、住民には否定的な影響を及ぼす開発であった。

◇◇仏教徒たちの受難

 内戦の末、東パキスタンがバングラデシュとしてパキスタンから独立すると、内戦中、丘陵民支配層の一部がパキスタンを支持したこともあって、自治権の回復を要求するこの地域が敵性地域と見做され、軍事的な支配が強化されるとともに、さらなる土地と資源の収奪と住民文化の破壊行為がすすめられた。

 この状況に対し、先住民族側は、72年、自らの政党(PCJSSチッタゴン丘陵民族統一党)を結成し、翌年にはシャンティ・バヒニ(平和軍)を編成して、ゲリラ戦による武力抵抗に踏み切った。

 バングラデシュ政府は、圧倒的な軍事力でこれに対抗すると同時に、平野部から貧しいベンガル人を大量に入植させ、84年までには入植者人口が先住民人口を上回るまでになった。

 土地と支度金、建築資材が供与され食糧も配給される、という有利な条件で入植したベンガル人農民たちであったが、紛争の激化や耕作の失敗から、田畑を捨てて、軍に警護された集団村に移り住む者が増えた。

 期待を裏切られた入植者たちは、憤懣を先住民にぶつけ、軍の支援のもと、丘陵民集落をしばしば襲撃した。そのたびに数百人の丘陵民が殺害され、財産が略奪され、村に火が放たれた。入植者たちはまた、仏教僧への暴行や寺院の破壊、冒涜も繰り返した。

 多くの先住民が域内あるいは隣国インドに逃れ、その土地はベンガル人入植者によって不法占拠された。

 こうして、1997年に丘陵民の政党とバングラデシュ政府との間で和平協定が結ばれるまで、丘陵民の約3万人が殺害され、12万世帯が土地を奪われ、6万人が難民としてインドに逃れたと推定されている。

 和平協定は、先住民ゲリラの武装解除と引き換えに、難民の安全な帰還、先住民の土地の返還、軍の撤退などを謳っているが、完全実施からはほど遠く、非常事態宣言下、軍や入植者による住民への人権侵害など、緊張はいまだに続いている。

 さらに、丘陵民の間に、平和協定を締結した政党(PCJSS)とそれを不服とし完全自治をめざす新党(UPDF人民民主統一戦線)との対立がうまれ、互いの活動家の誘拐・殺害など報復合戦が繰り返された。

◇◇仏教徒側にも問題が

 チッタゴン丘陵先住民の仏教はビルマとの関係が深い上座部仏教で、僧侶は人々から尊敬されているが、紛争に対しては距離を置き、沈黙を守っている者が多い。

 しかし何人かの僧侶は、紛争孤児など身寄りのない子どもたちを預かって教育を受けさせるNGOを運営している。

 これらのNGOの殆どは、海外から資金援助を受けて運営されている。筆者は数年前、日本のある団体から、その団体が援助しているNGOの視察を依頼されて訪れたことがある。

 そこは、丘陵地も外れのベンガル人が多く住む地域に設けられた施設で、数十人の孤児を養育しているのだが、疑問に感じたのは、ただ食と住を与えて村の学校に通わせているだけで、子どもたちの将来を見定めた活動がなにもなされていないことであった。数名の僧侶に監督されているが、広大な土地を持ちながら、僧侶は宗教上の理由から働いてはならぬものと、不毛のまま放置され、カナダやドイツから援助された職業訓練用の何十台ものミシンや工作機械も埃をかぶったままであった。

 いわば、海外のドナーから資金を得るためにだけ子どもたちを置いている感であった。

 さらに気になったのは、電線も引かれていない夜は漆黒そのものの村で、その施設だけが、援助で得た自家発電機を回して、一晩中、不夜城のような光を放っていることであった。それはまるで周囲の貧しいベンガル人への挑発のようにさえ見えた。

 長い紛争のゆえか歪んだ歴史のゆえか、仏教徒先住民とイスラム教徒入植者のあまりにも越えがたい断絶が、そこには象徴されているかのようであった。

 次は、博士が「新仏教徒」と言及されているインドの仏教徒の状況である。

 

カースト差別のくびきを解こうと苦闘するインド仏教徒

 インドで仏教徒の数は、2001年の国勢調査によると、795万5千人で、総人口の0.8%を占める。インドの公的統計はあてにならず実数は2千5百万人を超えるという説もあるが、詮索は措いておこう。いうまでもなく仏教の故郷はインドだが、その地で仏教は13世紀には滅亡したとされている。原因としてイスラムの侵入による僧院の破壊がよくいわれるが、すでにそれ以前に、独自の儀礼を発達させず難解・煩瑣な教理に傾いたがゆえに民衆との接点を失って衰退していたことが指摘される。いずれにせよ20世紀初頭に存在した仏教徒は東北部に僅かに数百人とされた。その仏教徒が、11億余の人口に占める割合はまだあまりに少ないとはいえ、ここまで増えた。この仏教復興のきっかけをつくったのは「被差別カースト解放の父」といわれるアンベードカル博士であった。

◇◇50万人の大改宗式

 インドにカースト制度があることはご存知だろう。バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラのいわゆる四種姓だが、じつはその下に、「不可触民」ともよばれる虐げられた民がいる。人口の15%以上を占めると推定される彼らは、不当にも穢れた存在とされて、ヒンドゥー教徒でありながらヒンドゥーの寺院に入ることを拒まれ、他の人たちが使う井戸や溜池から水を汲むことも禁じられ、清掃や動物の死骸の処理などの雑役を担わされて、上位カースト者による暴力や性的暴力にも曝されつづけてきた。現在、憲法でカースト差別は禁止され、被差別カーストへの優遇措置もとられているが、状況の抜本的改善はいまだ認めがたい。

 さて、この被差別カーストの一集団であるマハール・カーストに生まれたB.R.アンベードカルは、苦難のなかで、天与の才ときわめて稀な僥倖によって米・英留学をはたし、経済学博士号と弁護士資格を得て「不可触民」解放の闘いの先頭に立つことになった。インド独立とともに初代法務大臣に就き、憲法起草委員長として新生インドの憲法にカースト差別撤廃を宣言するのだが、現実の差別の壁は厚く、差別の根源であるヒンドゥー教の枠内にあるかぎり「不可触民」の解放はないとして、1956年10月、ナーグプール市において、約50万人のマハール・カーストの人々を率いて仏教への大改宗式を行ったのである。これが現在のインド仏教徒のはじまりであり、したがって、現代インド仏教徒のほとんどはアンベードカル博士が説く仏教と仏教者の道を歩む人々といって過言ではない。

 しかしアンベードカル博士は改宗式から僅か2ヵ月後に急逝し、新たな仏教徒たちは指導者を失う。にもかかわらず差別からの脱却を願う被差別カーストの人々の仏教への改宗はつづいた。こうしたなかから仏教徒たちによる幾つかの社会運動もうまれてきた。

◇◇改宗しても「不可触民」

 そのひとつは1970年代にマハーラーシュトラ州を中心に活動した知識青年層の運動体、ダリット・パンサーである。ダリットとは「抑圧された者」の意で、パンサーは豹。当時、アメリカで最も尖鋭な黒人解放運動を行っていたマルコムXらのブラック・パンサーに因むものである。その名に恥じぬ、差別に対する果敢な抗議行動とヒンドゥー文化への激しい批判を展開して勇名をはせたが、差別の現実を訴え差別の根源を問う数多くの文学作品を発表して「ダリット文学」という一ジャンルをつくった。

 また、カンシ・ラムという活動家がともに創設にかかわるBAMCEF(後進・少数コミュニティ従業員連盟)という被差別階層出身の公務員を主とする啓蒙運動組織や被差別・抑圧階層を基盤とするウッタル・プラデーシュ州の有力政党BSP(大衆社会党)などでも仏教徒が活動の主力を担っている。

 もうひとつ注目すべきは、インドの市民権をもつ日本人僧佐々井秀嶺師の活動であろう。彼は渡印以来40年あまりで100万を超える人びとを仏教に改宗させたかたわら、ブッダガヤの大菩提寺の管理権を仏教徒に奪還する運動を組織・指導するなど仏教徒の権利拡張に努め、中央政府マイノリティ・コミッション(少数社会委員会)委員も務めた。

 ここで付言しなければならないのは、インドで被差別・抑圧状況に置かれているのはいわゆる「不可触民」だけでなくシュードラの大部分、さらにイスラム教徒やキリスト教徒の大多数ということである。じつは、仏教徒のほとんどが「不可触」カーストからの改宗者であるように、キリスト教徒、イスラム教徒の大半もそこから差別を逃れて改宗した者たちである。では改宗によって差別を免れたかといえば、インド社会ではそのもともとの出自から、依然、「不可触民」として扱われつづけている。

 経典や儀礼に必ずしも詳らかでなく、仏教を平等と友愛による人間解放の思想と解し、アンベードカルを菩薩と崇敬して「ジャイ・ビーム(アンベードカル万歳)」と挨拶しあう彼らを、仏教徒といえるかと訝る声もある。しかし、人間の尊厳を踏みにじる不公正・不正義の現実の只中にある彼らが、魂の救済にもまして社会的救済を求めたとして、それを否定することはできないだろう。ともあれインド仏教徒は、イスラム教徒やキリスト教徒をも励ましながら、インド社会の変革に向けて一石を投じる存在である。

 以上はともに『寺門興隆』(現『月刊住職』)誌の2010年6月号と2006年3月号に掲載された拙稿に僅かに手を加えたものである。拙稿への批判を含め、多角的なご意見・情報をお寄せいただき、当欄がインドやインド文化および仏教に関する自由闊達な意見や情報交換の広場として賑わい、そこから新たな価値も創造されることを期待している。それはかならずや、当ネットワークの創設に尽力された故奈良康明博士が望まれたことでもあろう。

荒木重雄 略歴

 元NHKチーフディレクター

 元桜美林大学教授

 1970年代よりインドに関する調査・執筆に携わり

 2001~2年 プネー大学客員教授

 2004年 当会代表幹事山田一眞師により得度

更新日:2019.08.15