タゴール『子供時代』⑳

第13章(後半)

17才になった時、ぼくは『バロティ』誌の編集の集まりから離れなければならなくなった。

この時ぼくの洋行が決まったのだ (1) 。そしてそれに伴い、船に乗る前に、二番目の兄さん (2) のところに行って、ヨーロッパの生活習慣の基礎を身につけるよう、勧められた。兄さんはその頃、アーメダバード (3) で判事の仕事をしていた。義姉さんとその子供たち (4) はもうイギリスにいて、兄さんが賜暇 (5) をもらってやって来るのを待っていた。

ぼくを畑から根こそぎ引き抜いて、別の畑に移植することになったのだ。新しい環境との駆け引きが始まった。初めのうちは何もかも恥ずかしくて、どうしたらいいかわからなかった。未知の人とはじめて話を交わす時、どうやって自分の体面を守ったらいいか — それが心配の種だったのだ。不慣れな毎日の生活に馴染むのも簡単ではなかったし、どうしても会うのを避けられない人もいた。ぼくのような子供の心は、事あるごとに躓いて、苦しむばかりだった。

アーメダバードでは、ある昔の歴史絵の中に、心が巡り漂い始めた。判事の館は、シャヒバーグ (6) にあるムガル皇帝時代の王宮だった。昼間、兄さんは仕事で出かけていた。巨大で空虚な部屋部屋が、どれも口を大きく開けている中を、一日中、亡霊に取り憑かれたかのように歩き回った。正面には広大な石畳の広場 — そこからは、サーブラマティー川 (7) が膝の深さしかない水を敷き延べ、くねくね曲りながら砂の中を流れていくのを目にすることができた。広場にはあちこちに水溜め用の石造りの囲いがあり、そこには王妃たちの沐浴にまつわる貴(あて)やかな消息の数々が、積もり積もっているかのようだった。

ぼくらはカルカッタ育ちだ — そこでは、歴史が頭をもたげて姿を現すのを、見る機会がない。ぼくらの目は、すぐ前のごく短い時間にしか届かない。アーメダバードに来て初めて目にしたのだ — 動く歴史がその歩みを止めて、背後を振り返り見るのが、揺るぎ無い伝統となっているのを。その昔の日々は、まるで夜叉が抱く宝物のように地の下に埋もれている (8) 。このようにして、ぼくの胸に、「飢えた石」 (9) の物語の最初の暗示がもたらされたのだった: —

今から何百年前のことだったろう。音楽棟(ナハバトカナ) (10) ではシャーナイ、太鼓、シンバルの楽の音が一日八刻途絶えることなく、それぞれの刻(プロホル)に合ったラーガを奏でる。大通りでは、そのリズムに合わせて馬の蹄の音が鳴り響く。馬にまたがるトルコ兵の行進が続き、彼らの槍の穂先には陽光がぎらぎら輝いている。皇帝の宮廷の四囲は、謀反を企む者たちの耳打ち、ひそひそ話。ハーレムでは抜身の剣を手に、アビシニアの宦官たちが警護についている。王妃たちの浴室にはバラ水の噴水が噴き上げ、腕環や手飾りがしゃんしゃんと響く。今日、シャーヒバーグは無言のまま佇む、忘れ去られた物語のように — その四囲のどこにもあの鮮やかな色彩はなく、あの楽の音も、さまざまな響きも、もはや聞こえてこない — 干からびた昼間、歓楽の失せた夜。

昔日の歴史が、その骨格を露わにしていた — 頭蓋骨はあるが、王冠はなかった。その上に衣を纏わせ仮面をかぶせて、一つの完璧な姿を心の博物館に陳列することができた、と言ったら言い過ぎになるだろう。胸の中に、飾り絵を背景にした仮の姿を打ち立ててみたのだが、それはぼくの気紛れが生んだ玩具のようなものだった。追憶には限りがあり忘れてしまうことが多いからこそ、このようにくっつけ合わせるのがたやすくなる。80年生きてきて、いま目の前に現れているひとつの姿は、自分の姿だとは言うものの、そのすべてが現実の自分と、一行一行ぴったり合っているわけではない — その多くは頭の中ででっち上げたものだ。

ここにしばらく滞在した後、兄さんは、故郷の外の世界を故郷の情調(ラサ)で染めてくれるような女性にぼくを引き合わせることができれば、ホームシックにかかっているぼくの心が安らぐのでは、と考えた。英語を学ぶのにも、それが近道だろう。そう言うわけで、ぼくはしばらくの間、ボンベイ(ムンバイ)のある家庭に滞在することになった (11) 。その家庭の、ある現代風の学識ある女性が、ピカピカの学問を外国から持ち帰ってきていたのだ。ぼくの知識はほんの僅かだったから、彼女がぼくを馬鹿にしたとしても、文句を言う筋合いはなかっただろう。でも彼女はそうはしなかった。書物に書かれた知識については、ひけらかすに足るような持ち合わせがなかったので、ぼくには詩を書く才能があると、事ある毎に伝えることになった。情愛を獲得するための、これがぼくの最大の武器だったのだ。こうして自分の詩の才能を喧伝した相手は、一々詮索せず、それをそのまま受け入れてくれた。ぼくという詩人に、彼女にふさわしい呼び名をひとつ、つけてほしいと頼まれたので、それを案出した (12) — その響きは彼女の気に染まった。ぼくはその名前を、詩の韻律に乗せたいと思った。そうしてそれを組み込んだ詩を、明け方のバイラヴィー・ラーガの調べに乗せて、彼女に歌って聞かせた。彼女は言った — 「ああ、詩人よ、あなたの歌を聞けば、たとえ死の床にあっても、また生命を得て生き返れるような気がします。」

情愛を伝えたいと思う相手に対しては、女たちはその言葉に少し蜜を混ぜて大袈裟に言うのだということが、このことからわかるだろう。それはただ、喜びを撒き散らしたいがためなのだ。いま思えば、その口からぼくの容貌を褒める言葉を聞いたのは、彼女が初めてだった。彼女の褒め方には、多くの場合、才気が感じられた。たとえば、ぼくに向かって、一度、こう強調したことがある —「私の言うことを、ひとつ、守ってほしいの。あなた、決して髭を伸ばさないでくださいね — あなたの顔の輪郭が、どうあっても隠れてしまわないように。」

彼女のこの言葉が今に至るまで守られなかったことは、誰もが知っている。でも、ぼくの顔にこの言葉に対する不服従が現れる前に、彼女はこの世を去ってしまったのだ。

ぼくらの学園のあのバンヤン樹には、年によっては、不意に他国から鳥が訪れて、巣を結ぶことがある。その翼の踊りにやっと親しくなったと思ったら、鳥たちの姿は消えてしまっている。鳥たちは、遠くの森から、ぼくらが聞いたことのない調べを持ち来たるのだ。ちょうどそれと同様に、人生の旅には、ときに世界の見知らぬ領域から、魂の伴侶である女性の使者が訪れて、自分の心が占めていた世界の境界を広げてくれることがある。呼びもしないのに訪れ、そうしてある日呼びかけても、もうその姿が得られない。立ち去りつつも、生きながらえているショールの上に花模様の縁取りを添え、日々の生の価値を永遠に高めてくれるのだ。

訳注

(注1)1878年の4月、タゴール16歳の時。2兄のショッテンドロナトが、賜暇に際しタゴールをイギリスに連れて行くことを提案、父デベンドロナトの了解を得る。
(注2)ショッテンドロナト・タクル(1842-1923)。
(注3)西インド・グジャラート州の最大都市、かつての州都。ムガル帝国時代の歴史的遺物が多く残る。
(注4)ショッテンドロナトの妻ギャノダノンディニ(1850-1941)、長男シュレンドロ(1872-1940)、娘のインディラ(1873-1961)、次男コビンドロナト(?1876-78)。コビンドロナトは幼くしてイギリスで亡くなる。
(注5)高等文官に与えられる長期休暇。1878年9月から1880年5月までの、1年8ヶ月の休暇が約束されていた。
(注6)アーメダバードの中心地区。タゴールが滞在した宮殿は、ムガル帝国のシャー・ジャハーンが1618~1622年に建てたもの。現在は国立の博物館(「サルダール・ヴァッラブバーイー・パテール国立記念館」)になっている。
(注7)西インドの大河のひとつ。ラージャスターン州のアラヴァリ山脈に発し、アーメダバード市内を貫通して、アラビア海に注ぐ。
(注8)ベンガル地方では、夜叉(ヤクシャ)は地に埋めた財宝を守る守護神と信じられている。
(注9)タゴール初期の傑作短編。『シャドナ(修行)』誌(1302年スラボン月、1895年8-9月)に掲載。
(注10)音楽棟(ナハバトカナ)は、王宮や大地主家の、門の上や隣にある部屋。四六時中、複数の音楽家により、以下の楽器の合奏による音楽を奏でる。(シャーナイについては第9章(『子供時代』⑭)の(注4)、刻(プロホル)については第3章(『子供時代』⑥)の(注15)参照。)
(注11)著名な内科医アートマラーム・パンドゥロンガ・タルカドの家庭。アートマラームはブラーフマ協会の友好団体であるプラルトナ協会の創立者。2ヶ月滞在中、タゴールは彼の次女のアンナプルナ・タルカド(1855-1891)と親しくなる。
(注12)タゴールは彼女を「ノリニ」(「蓮」の女性形)と名付ける。ここで言及されているのは、詩集『子供時代の歌』(1884) 所収の「朝の歌」。

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部(英語英米文学科)卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年、インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん社)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん社)など。現在、めこん社のホームページに、近現代短編小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//

更新日:2022.06.16