タゴール『子供時代』⑲

第13章(前半)

ジョティ兄さんは、時々、気分転換のために、ガンガーの岸辺の庭園に滞在した。その頃はまだ、白人商人の手に触れて、ガンガーの岸辺がその聖性を汚すまでに至っていなかった。両岸の鳥の巣はまだ廃れていなかったし、工場の長い鼻が黒い息を吐き散らし、空の光を翳らせることもなかった。

ガンガーの岸辺にあった、ぼくが最初に思い出す家、それは、ちっぽけな二階屋だった (1) 。雨季が始まったばかり。雲の影は、川の流れの面を、波に揺られながら漂い過ぎる — その同じ影はまた、黒く濃く、向こう岸の森の上に垂れ込めている。何度もこのような日に自分で歌を作ったけれど、その日は、そうはならなかった。ビディヤーパティ (2) の詩行が心に浮かんだのだ: —

この雨に満つ バドロ月
我が寺は 虚ろにて ……

自分の旋律の型に溶かし込み、ラーガ (3) の刻印を押して、それを自分のものにした。ガンガーの岸辺の, その調べで装飾を施した雨の日の記憶は、ぼくの雨季の歌の宝箱の中に、大切にしまわれたままだ。今でも情景が胸に浮かぶ — 風が途切れ途切れに、木々の頭上を煽るように襲いかかり、枝葉はばたばたと靡く。小舟の群は白帆をあげて向かい風につんのめりながら走り、波はじゃぶじゃぶ跳ねながら船着き場の石段を洗う。義姉さんが家に戻った時、この歌を歌って聞かせた。褒め言葉はなかった、黙って耳を傾けていた。ぼくが16か17の頃だ。あれこれ言い掛かりをつけての口論はまだ続いていたけれど、もう前ほど激しくはなかった。

それからしばらくして、モラン・サヘブの庭園 (4) へと、居が移された。王宮と言ってもいい、立派な家だった。ステンドグラスの窓がある、高低さまざまの部屋。大理石を敷き詰めた床。ガンガーの岸辺から広いベランダに向かう、何段もの階段。そこでは、すっかり、夜更かしに取り憑かれた。あのサーブラマティー河岸での夜の徘徊 (5) と、まったく同じリズムで、うろつき回った。この庭園は、今はもうない。ダンディーのジュート工場 (6) が鉄の歯でそれを噛み砕き、呑み込んでしまったのだ。

そのモラン・サヘブの庭園の話から思い出されるのは、ミサキノハナ (7) の樹の下に、折に触れて用意された、料理のことだ。その料理は香辛料が控えめで、調理の腕の良さが際立っていた。聖紐(ポイテ)の儀式 (8) の時、義姉さんがぼくら兄弟二人のために調理してくれた、ハビシヤ (9) を思い出す。牛の乳のバター油で味付けされていた。その三日間、その味、その匂いで、食べ物に飢えていたぼくらを、夢中にさせたのだった。

ぼくのひとつの大きな問題は、病気というものにほとんど縁がなかったことだ。家の中の、病にかかることを知っている他の子供たちは、誰もが義姉さんの介抱を手に入れた。介抱してもらっただけでなく、義姉さんの時間を占領した。ぼくの分け前は、その分、少なくなったのだ。

あの頃のあの三階での日々は、義姉さんを道連れに、消え失せてしまった。その後、ぼくが三階に住むことになったのだ — その生活を、過ぎ去った日々の生活とうまく繋ぎ合わせることができない。

そうやって巡り巡って、青春の入り口に到達したのだった。そこから再び、あの少年時代の境界のほうへ、引き返すことにしよう。

さて、ぼくが16歳になった頃の話だ。その初っ端に現れたのが『バロティ』誌 (10) だった。今、ベンガルでは、新しい新聞雑誌を出そうとする気炎が、四方八方にふつふつと沸き起こっている。その熱の高まりはよく理解できる — あの頃の熱狂を振り返ってみれば。ぼくのように学問もなく実力もない子供でさえ、その場に大威張りで座を占め、しかもそれが誰の目にも奇妙に映らなかった — このことからして、四囲に子供っぽい風が吹き荒れていたのがわかる。その頃ベンガルに出現した、成熟した手になる雑誌と言えば、『ボンゴドルション』 (11) ただひとつだった。ぼくらのこの『バロティ』には、未熟と成熟が入り乱れていた。一番上の兄さん (12) の書いていたものは、書くのも難しかっただろうが、理解するのも大変だった。そんな中で、ぼくは、物語をひとつ、ものしたのだった (13) — そこに編まれた冗舌の数々が、いいものなのか悪いものなのか、評価できる年齢ではなかったし、他の人びとも、それができるほど目が肥えてはいなかった。

そろそろ、一番上の兄さん (12) のことを話す時が、来たようだ。ジョティ兄さんの集いは三階の部屋、一番上の兄さんの集いは南側のベランダだった。ある時期、兄さんは、ぼくらの手の届かない深遠な理論に、すっかり没頭していた。兄さんの書いているもの、考えていることに、耳を傾けようとする人は僅かだった。もし誰かがその気になって近づいてきたとしたら、兄さんはその人をつかまえて放さなかった — あるいはその逆で、その人が兄さんを手放そうとしなかった。そういう人が兄さんに対して要求したのは、ただその理論を聞かせることだけではなかった。兄さんは、そうした仲間を一人、手に入れた。その人の本名は知らない — 皆は彼のことを、「フィロゾファー(哲学者)」と呼んでいた。他の兄さんたちはこの人を笑い物にしていたけれど、それは、彼がマトン・チョップが大好物だったせいだけではない。彼が毎日毎日、次から次へと、いろんなものをほしがったからなのだ。哲学理論以外にも、兄さんには、数学の問題を作る趣味があった。数学記号が書かれた紙が、南風に乗って、ベランダ中に飛び回っていた。兄さんは、歌を歌うことはできなかったけれど、よくフルートを吹いた — でもそれは歌の伴奏のためではなく、それぞれのラーガで歌われる旋律の高さを測定して、数字で表すためだった。その後、ある時、『夢への道行き』 (14) を書き始めた。その初っ端から韻律の実験が始まった。サンスクリット語の音をベンガル語の音の天秤にかけて、その重さを量りながら並びたてた。その実験の結果、残したものも多かったけれど、残さなかったものもたくさんあった — 破れた紙に乗って、どこかに飛び散ってしまったのだ。そうしてから詩を書き始めた。書き残したものよりも、捨ててしまったもののほうがずっと多かった。書いたものが、なかなか気に染まなかったのだ。兄さんがそうして捨て去った詩行を、拾い集めておこうという知恵が、ぼくらにはなかった。書き終わる毎に読んで聞かせてくれるので、兄さんの周りには、たくさんの聴衆が集まった。家中の誰もが、この詩の情調(ラサ)に、すっかり魅せられたのだった。読み上げる間に間に、高笑いが溢れ、こぼれ落ちた。兄さんの笑いは、天にも届かんばかりだった。笑いが勢いよく爆発する時、誰かが手の届くところにいたら、その人を平手で叩いて困らせたものだ。

ジョラシャンコの家の、生命の清流が流れる場所の一つが、この南側のベランダだった — その清流は干上がり、兄さんはシャンティニケトンの修道場に去ってしまった (15) 。ぼくの心に、折に触れ、ひたすら思い出されるのは、こんな絵だ — ベランダ前にあった庭園に、心を彼方に誘(いざな)う秋の陽射しが一面こぼれ落ち、ぼくはできたばかりの歌を歌っている: —

この 秋の陽注ぐ 朝方の 夢の中
はたして 何を 心は 求める ⋯⋯

また、ある暑い日の、さんさんと陽が降り注ぐ真昼: —

思い絶え果て ひたすら続く
自分との この 言い知れぬ 戯れ ⋯⋯

兄さんには、もう一つ、瞠目に値する習慣があった — 水泳だ。池に入って、50回は楽々、向こう岸との間を行ったり来たりした。ペネティの庭園 (16) にいた時には、ガンガーを渡って、はるか遠くまで泳いで行ったものだ。兄さんの泳ぎの見よう見まねで、ぼくらも子供の頃から泳ぐことを覚えた。誰に教わるでもなく、自分で覚え始めたのだ。パエジャマ (17) を水に濡らして少しずつ引き上げながら、その中を空気で満たした。水に入ると、それは腰の周りで空気の帯となって膨らんだ。こうなればもう、沈む心配はない。大きくなって、シライドホの川洲にいた時、一度、パドマー川を向こう岸まで泳いで渡ったことがある。驚くべき話に聞こえるけれど、実際はそんなでもなかった。中洲があちこちにあるので、パドマー川の水流には、敬して遠ざけるほどの勢いはなかった。それでもこの話は、陸にいた経験しかない人びとをゾッとさせるには、間違いなく十分だった — なので、実際何度も、周りの人に吹聴したのだった。子供の頃、ダルハウジー (18) に行った時には、父さんは、ぼくが一人であちこち山歩きするのを、一切禁じなかった。人跡のある道を辿りながら、ピッケルを片手に、山から山へと登り歩いたものだ。その時何よりも面白かったのは、心の中で恐怖をでっち上げることだった。ある日、下り道を歩いていて、足が木の下の枯葉の山に突っ込んだことがある。少し滑った瞬間、ピッケルで身体を支えることができた。でも、支えられなかったかもしれないのだ。山の斜面を転がりながらはるか下の小川の中に落ちるまでに、大した時間はかからなかっただろう。どんな危険なことになっていたか、その想像を大袈裟にふくらませて、母さんに話して聞かせた。その他にも、深い松林を歩き回りながら突然熊に出喰わすことも、なきにしもあらずだった。これもまた、間違いなく、人に話して聞かせるに値する話題だっただろう。実際は騒ぎたてるような何事も起きなかった — 不慮の出来事は、みな、心の中で作り上げて楽しんだだけだった。パドマー河を泳ぎ渡った話も、こうした作り話からそれほど隔たっていたわけではない。

訳注

(注1)カルカッタの北約30キロに位置する、チョンドンノゴルの地主、ショットビカシュ・ボンドパッダエの庭園。1877年の雨季、タゴール16歳。
(注2)ビディヤーパティ(ベンガル語読み「ビッダポティ」)は、ミティラー地方(ビハール州とジャールカンド州にまたがる)で14~15世紀に活躍した信愛派(ヴァイシュナヴァ)詩人。ラーダー=クリシュナ神話に基づくマイティリー語の叙情詩で名高い。タゴールは、13歳の頃から、中世の信愛派詩人たちの作品に親しみ始めるが、ビディヤーパティの作品に、とりわけ大きな影響を受ける。
引用した詩は、ラーダーがクリシュナとの別離を嘆く内容。「ああ 友よ、 我が苦しみに 限り無し。」で始まり、引用の詩行へと続く。韻律形式はトリポディ(第11章前半(『子供時代』⑯)の(注14)参照)。バドロ月は、西暦で8月半ば〜9月半ば。
(注3)第7章(『子供時代』⑩)の(注13)参照。
(注4)これもチョンドンノゴルのガンガー河岸の庭園。モラン・サヘブは、インド藍の交易で巨万の富を築いた、William Moran and Co. の当主。(サヘブは白人への尊称。)ここに書かれているのは1881年の雨季、タゴールが20歳の時の出来事。ジョティリンドロナト=カドンボリ夫妻とタゴールは、この時期、ここにともに滞在し、親しく交わった。
(注5)タゴール17歳の時滞在した、アーメダバードを流れる川。この滞在については、この章の後半(次回掲載予定)に詳しい記述がある。
(注6)ダンディーはスコットランドの都市。インドから輸入した安い麻を、鯨油を用いて加工する技術を使い、19世紀前半から後半にかけて世界のジュート産業を独占する。カルカッタ現地でも19世紀の半ばから、ダンディーからの技術者が経営するジュート工場がガンガー沿いに立ち並び始める。
(注7)「ボクル」。高さ15メートルにまでなる常緑の高木。強く甘い香りを放つ、径12ミリほどの、白い星形の花をたくさんつける。
(注8)「ポイテ」または「ウポノヨン(ウパナヤナ)」、バラモンの入門式。儀式の後、バラモンの証である木綿の聖紐を導師から授かり、左肩から右脇下にかける。
タゴールは、12歳の1873年2月、二歳年上の兄ショメンドロナト、従兄(長姉ショウダミニの息子)のショットプロシャドとともに、この儀式を受ける。
(注9)ヒンドゥー教徒が、聖なる儀式に際して食する、清浄な食事。日干し米(アトプ・チャール)、ケツルアズキないしエンドウ豆、じゃがいも等の野菜を一緒にして、土釜で煮たもの。味付けはバター油と海の塩に限られる。
(注10)5兄ジョティリンドロナトの発案で、1877年7月に創刊された、月刊の文芸総合誌。雑誌名「バロティ」は、「バロト(インド)」の女性形。インドを守護する女神として、サラスヴァティー女神を念頭に置いている。掲載の表紙絵を参照。初代編集長は長兄のディジェンドロナト・タクル。その後、4姉ショルノクマリ・デビを中心に、タゴール家のさまざまなメンバーが交替に編集長を務め、1926年まで続く。
(注11)第12章(『子供時代』⑱)の(注9)参照。
(注12)ディジェンドロナト・タクル(1840-1926)。
(注13)タゴールの最初の小説作品、「乞食の女」。『バロティ』の創刊号と第2号に連載された。
(注14)1875年に出版。カーリダーサ作『雲の使者』のベンガル語訳(1860)とともに、ベンガル語近代文学の傑作のひとつに数えられる。
(注15)1905年、父デベンドロナトの死後、シャンティニケトンに居を定める。
(注16)カルカッタのすぐ北、ガンガー沿いのペネティ(パニハティ)にある、商人アシュトシュ・デー(愛称チャトゥ・バブー)所有の庭園。1872年、カルカッタにデング熱が流行したため、タゴール家の一部がここに滞在した。11歳のタゴールにとって、ジョラシャンコの家の外に住んだ、初めての体験となった。
(注17)木綿や絹の薄布で作った、普段着用の緩いズボン。
(注18)ヒマラヤ山脈の西側、ヒマーチャル・プラデーシュ州にある避暑地。インド総督ダルハウジー侯爵の名に因む。タゴールは、ポイテの儀式(注8)のすぐあと、父デベンドロナトに連れられてヒマラヤに向かう。カルカッタを出発したのは2月半ば。シャンティニケトン、アラーハーバードを経て、3月にアムリトサルに着き、約1ヶ月滞在したのち、ダルハウジーに向かう。ダルハウジーに1ヶ月ほど滞在したのち、5月の半ばにカルカッタに帰還。この旅にはキショリ・チャタルジ(序詩「少年」(『子供時代』③)の(注5)参照)が従者として同行している。掲載の絵は、『俚謡の絵』の中の「戯れ」と題する詩に付随する、ノンドラル・ボシュの絵の転載。(なお、この絵の版権は、ビッショ=バロティ(タゴール国際)大学に属しています。この絵の掲載を許可してくれた同大学に感謝いたします。)

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部(英語英米文学科)卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年、インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん社)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん社)など。現在、めこん社のホームページに、近現代短編小説の翻訳を連載中。
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更新日:2022.06.02