タゴール『子供時代』⑮

第10章

屋上の王国に、新たな風が吹いた、新しい季節が訪れた。

その頃にはもう、父さんは、ジョラシャンコの家を離れていた。ジョティ兄さんがその代わりに、三階の部屋を占めたのだ。その部屋の隅に、少しだけ、ぼくの居場所があった。

奥の領域を仕切っていた帷(とばり)は、取り払われた。今となっては特に目新しく感じられないかもしれないが、当時、これはあまりにも斬新で、その新しさを測ろうにも、物差しが見つからないほどだったのだ。それよりもずいぶん前、ぼくがまだ赤ん坊の頃、二番目の兄さん (1) が、高等文官の資格を得て、インドに戻ってきた。最初の赴任先のボンベイ(ムンバイ)に出向く時、兄さんは近隣の人びとの面前で義姉さん (2) を引き連れて出発し、彼らを愕然とさせたのだった。自分の嫁を家の中に置き去りにせず、ベンガルの外に連れ出すというだけでも大事(おおごと)なのに、道中、彼女を覆い隠す何の計らいもない — これは、とんでもない反逆だった。家族姻戚にとってさえ、天が崩れ落ちるほどの出来事だったのだ。

外出用のサリーなど、その頃はまだ、女たちの間に用意されていなかった。今日では、ブラウスの上にサリーを纏う着付けが当たり前になっているけれど、それを最初に始めたのが義姉さんだった。

娘たちがお下げ髪にワンピースを着る習慣は、まだ始まっていなかった — 少なくともぼくらの家では。娘たちはふだん、ムガル風の寛衣(ペシュワジュ)を着ていたのだ。ベトゥン・スクール (3) が開校した時、ぼくの一番上の姉さん (4) はまだ小さかった。彼女はその学校に入って女性たちの教育の道を広げた、最初のグループの一人だった。真っ白な肌だった — ベンガルでは、他に類がないほどの。駕籠に乗って学校に行く時、ペシュワジュを着た彼女を、さらわれた白人の少女と勘違いして、警察が捕まえたことがあると聞いた。

その頃、大人と子供の間に、往き来する架け橋がなかったことは、前に述べた。でも、こうした古いしきたりが目白押しの中で、ジョティ兄さんは、混じり気ない新しい心を持って登場したのだ。ぼくは兄さんより12歳年下だった。こんなに歳が離れているのに、ぼくが兄さんの目に留まったのは、驚くべきことだ。もっと驚くのは、兄さんと話をする時、生意気だと言ってぼくを黙らせることが、決してなかったことだ。そのおかげでぼくは、どんなことでも自由に考える勇気を欠いたことがなかった。今、ぼくは子供たちの中で暮らしている。いろんなことを提案するのだが、彼らは口を噤んだままだ。怖くて聞き返せないのだ。どうやらこの子たちは皆、大人たちだけがものを言い子供は押し黙っていた、あの年寄り時代の子供たちらしい。聞き返す勇気は、新しい時代のものだ。年寄り時代の子供たちは、俯いて何もかも受け入れる。

屋上階の部屋にピアノが来た。ついでに、今風のニスを塗ったボウバジャル製 (5) の家具も。嬉しくて鼻高々となった。貧乏に慣れきった目の前で、時代の最先端を行く、安っぽい貴人(アミール)趣味が始まったのだ。

いよいよ、ぼくの歌の噴水が迸りはじめた。ジョティ兄さんはピアノの鍵盤に指を走らせ、新しい作風の旋律をばちゃばちゃ作り続けた — ぼくをその隣に控えさせて。駆けずりまわる旋律を追いかけ、すぐその場で言葉をつけて歌にするのが、ぼくの役目だった。

一日の終わり、屋上ではゴザと背もたれ用の長枕が用意された。銀の小皿には濡れハンカチに包まれたベールの花の花環 (6)、受け皿の上には氷水を入れたグラス、そしてパーン皿にはいい香りのキンマの葉が並ぶ。

義姉さんは、水浴を済ませ、髪を結い、準備万端でその場に控えている。ジョティ兄さんは、薄いショールを靡かせてやって来る。兄さんがバイオリンに弓を当て、ぼくは高音域の歌を歌い始める。神様がぼくの喉に恵んでくださった声音は、まだその頃、手付かずのままだった。太陽の沈んだ空、まわりの屋上に、ぼくの歌は撒き散らされた。南風が遠くの海からひゅうひゅう吹き抜け、空は星たちでいっぱいになった。

この屋上を、義姉さんは、完璧な花園に仕立てあげた。円柱の上には、何列もの背の高いシュロの木。その回りには素馨(ソケイ) (7) 、クチナシ (8)、月下香 (9)、夾竹桃 (10)、ハナシュクシャ (11)。その重みで屋上が痛むなんてことは、考えもしなかった。誰もが気まぐれだったのだ。

オッコエ・チョウドゥリ (12) がよく姿を現した。声がよくないことは自分でもわかっていて、他の人びとにはもっとよくわかっていたのだが、歌いたいという欲望を、どうしても抑えることができなかったのだ。彼が特に好きだったのは、ベハーグ・ラーガ (13) だった。目を閉じて歌ったので、聴衆の表情は、目に入らなかった。音を立てることのできる何かが手の届くところにあれば、歯で唇を噛みながらそれをパタパタ叩いて、バーンヤー=タブラー (14) の代わりにした。固い表紙の本があれば申し分なかった。全くの気分屋で、休日と仕事の日の違いなど、端(はな)から頭になかった。

あたりが暗くなると、集いがお開きになる。でも、ぼくはずっと、夜行性の子供だった。誰もが寝ついた後も、ひとりであちこちうろつき回る、バラモンの死霊(ブロンモドイット)の従者だったのだ。家の界隈は、どこもしんと静まり返っている。月の夜は、屋上の何列もの木の影が、夢の床絵(アルポナ) (15) を描く。屋上の外側では、シッソー紫檀の木 (16) の頭が風で揺れ、葉がざわざわ音を立てる。正面の路地の眠りについた家の屋上に、後ろが斜めになった低い屋根裏部屋があって、どういうわけか、それが何よりもぼくの目を引いた。立ったまま何に向けてか、指を伸ばしているように見えた。

夜の1時、やがて夜の2時。正面の大通りから、「唱えよ! ハリ神の御名を唱えよ!」 (17) と呼ばわる声が響いてくる。

訳注

(注1)ショッテンドロナト・タクル(1842-1923)。高等文官 (‘civilian’) は、英領インドの官僚による統治体制 (ICS, Indian Civil Service) に携わる高位の行政官僚。イギリス人の上級家庭の子弟が独占していたが、1853年に登用試験制度が導入され、インド人にも門戸が開かれた。ショッテンドロナトは1862年にこの試験を受けるため渡英、1863年に最初の登用試験に合格、1864年の最終試験に通った後、インド人で最初の高等文官として、同年10月、カルカッタに帰還する。
掲載した写真の上中央がショッテンドロナト・タクル、その左が妻のギャノダノンド・デビ。下中央が五兄のジョティリンドロナト・タクル、その右が妻のカドンボリ・デビ。
写真はウィキメディア・コモンズよりの引用:
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jnanadanandini_Devi,_Satyendranath_tagore,_Kadambari_Devi_and_Jyotirindranath_Tagore.JPG?uselang=ja
(注2)ギャノダノンド・デビ(1850-1941)。
(注3)インドでの女性教育の発展を目指して、「ヒンドゥー女学校」の名で開校、1849年に創立者ベトゥン (John Elliot Drinkwater Bethune, 1801-1851) の名を取って「べトゥン・スクール」に改名。1879年に、インドで最初の女性のためのカレッジ、「べトゥン・カレッジ」に発展。
(注4)ショウダミニ・デビ(1847-1920)。
(注5)カルカッタの中心にあり、装身具、木製の家具調度、楽器等を扱う店が多かった。その一角には新興の上流階級のための歓楽街や中国人居住区があった。
(注6)和名マツリカ、ジャスミンの一種。第4章(『子供時代』⑦)の(注4)参照。
(注7)「チャメリ」、第7章前半(『子供時代』⑩)の(注15)参照。
(注8)「ゴンド(香り)=ラージュ(王様)」。
(注9)「ロジョニ(夜の)=ゴンダ(香り花)」、英名 ‘tuberrose’。メキシコ原産の多年草。水仙に似た白い花をつける。夜になると強い芳香を出すのでこの名がある。
(注10)「コロビ」、キョウチクトウ。インド原産の常緑高木。毒性が強い。五弁の白または真紅の花を咲かせる。英名 ‘oleander’。真紅のキョウチクトウは「ロクト(血)=コロビ」と呼ばれ、特に愛される。タゴールの劇『赤い夾竹桃』の原題は、この「ロクト(血)=コロビ」。
(注11)「ドロン(揺れる)=チャンパ」、英名 ‘butterfly ginger’。熱帯では、常緑の多年草。茎の頂の苞から数輪の白い花を出す。蝶が舞うような優雅な形をしており、良い香りを発する。(西岡直樹『インド花綴り』参照。)
(注12)オッコエ・チョンドロ・チョウドゥリ(1850-1898)、詩人。ヒンドゥー・スクール(カレッジ)でのジョティリンドロナトの同級生で、タゴール家と親しく交わり、ジョティリンドロナトやタゴールに大きな影響を与えた。
(注13)第7章前半(『子供時代』⑩)の(注11)参照。
(注14)第7章前半(『子供時代』⑩)の(注13)参照。
(注15)ベンガルの女性たちが、吉祥を祈り、米の粉を用いて祭壇の回りや地面などに描く、聖なる紋様。
(注16)「シシュ」、英名 ‘Bombay rosewood’。マメ科の落葉高木で、高いものは20 mを超える。円形で滑らかな葉をつける。材は美しい濃褐色か紫褐色で非常に硬く、高級家具やタブラーの胴等に使われる。(西岡直樹『インド花綴り』参照。)
(注17)死者の遺体を担いで、火葬場に運んでいく時の掛け声。

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部(英語英米文学科)卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年、インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん社)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん社)など。現在、めこん社のホームページに、近現代短編小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//

更新日:2022.04.14