タゴール『子供時代』⑫

第8章(前半)

その頃と今とが違う時代だ、とはっきり知れるのは、今日では家の屋上に、人びとの往来もなければお化けたちも姿を見せない、と気づいた時だ。前に書いた通り、度を越した読み書きの雰囲気にいたたまれなくなって、バラモンの死霊(ブロンモドイット) (1) は姿をくらましてしまった。屋上の軒蛇腹に心おきなく足を載せている、と言う噂はいつしか途絶え、そこには食べ終わったマンゴーの種が散らばり、それを烏たちがつっつき合っている。いっぽう、人間たちの住み処はと言えば、下の階の、壁に囲まれた四角い詰め物箱の中に、押し込められてしまっている。

奥の区画の、胸壁に囲まれた屋上のことが思い出される。母さんは、夕暮れ時にゴザを広げてすわり、女仲間がそのまわりを囲んで、おしゃべりに花を咲かせた。おしゃべりに、本物のニュースがある必要はなかった。必要だったのは、ただ時を過ごすこと。その日その日の時間を満たすために、いろんな値段のいろんな材料を手に入れる、というような贅沢がかなわなかった時代だ。日々はきめ細かに編み込まれてはおらず、大きな隙間だらけの網のようだった。男たちの集会にしろ、女たちの集いにしろ、まことに他愛ない噂話や冗談で持ちきりだった。母さんの仲間の中心はブロジョ・アチャルジ (2) の姉妹で、「アチャルジニ」と呼ばれていた。彼女がその集まりで毎日の話題を供給する役割を担っていた。根も葉もないニュースを山のように拾い集め、あるいはでっち上げて、披露するのがお決まりだった。その厄払いのための「罪障撲滅の儀式」(スヴァスティヤナ)に費やされた費用は、半端ではなかった。ぼくはこの集まりで、折に触れて、書物から仕込んだばかりの知識をひけらかした — 太陽が地球から9千万マイル離れている、と言った類の。『やさしい読本』第2部 (3) からは、バールミーキ自身の手になる、サンスクリット語『ラーマーヤナ』の一節を朗読したものだ — アヌスヴァーラ、ヴィサルガ (4) の省略無しに。その発音がどれだけ正確かは、母さんの知るところでなかったけれど、息子の博識ぶりは、太陽からの9千万マイルの道をはるばる超えて、彼女を驚愕で打ちのめすのに十分だったのだ。このような詩行の朗読を、聖者ナーラダ (5) 御自身以外、いったい誰の口から聞くことが期待できただろうか?

奥の区画のこの屋上は、女たちの全き支配の下にあった。食料置き場と屋上の間には協定が結ばれていた。陽射しが思う存分得られたので、塩をまぶしたレモンの皮を干すにはうってつけだった (6) 。女たちはそこに陣取ると、すり潰したササゲ (7) でいっぱいの黄銅製の桶(ガムラ)を手にし、水浴の後の髪を乾かしながら、ササゲを小さな粒に丸めてポタポタと日向に並べる。いっぽう、女召使いたちは、着終わったサリーを叩き洗いして、陽の下に干し広げていく。その当時、洗濯屋の仕事は、今よりずっと少なかったのだ。縦長に薄く切られた青マンゴーはアムシ (8) となり、いろんな紋様が施された大小さまざまの黒い石製の型にはマンゴーの汁が何層にも貯め置かれ (9) 、陽に当てられた辛子油の中では青パラミツ (10) の実のアチャル (11) が熟成する。阿仙薬 (12) は細心の注意の下、アダンの雄花の苞に包んで、その薫りが染み込むようにした (13) — ぼくがこのことを特によく覚えているのには、理由がある。学校の先生の一人が、ぼくらの家の、アダンの花の薫りがする阿仙薬の噂を耳にした、と宣(のたま)わったのだ。すぐにピンときた — 先生にとって、噂で耳に入ったことは、確かめる必要があるのだ。そういうわけで、家の名誉のためにも、ぼくは時々、こっそり屋上に上がって、その阿仙薬をほんの少し — 何と言うべきか — 「盗んだ」、と言うより、「ちょうだいした」、と言ったほうがいいだろう。なぜなら、王様たちさえも、必要とあらば、あるいは必要がない場合でさえ、「ちょうだい」するのが当たり前なのだし、「盗んだ」人たちはと言えば、牢獄に送り込まれ、槍先で身体を貫かれるのが常だからだ。

女たちは、冬の穏やかな陽射しの下、屋上にすわっておしゃべりをしながら、烏を追い払って時間を潰すのに忙しかった。いっぽうぼくは、家族の中でただひとりの義弟(おとうと)だったので、義姉(ねえ)さん (14) のアーム=ショット (15) の見張り番を務めたり、その他いろんな些細な仕事の手伝いをする羽目になった。『ベンガル王の敗北』 (16) を読んで聞かせたりもした。時には檳榔子 (17) を薄切り用の鋏(ジャンティ)を使って刻む役目も負わされた。その実を、とっても薄く刻むことができたのだ。でも、ぼくにその他にも何か長所があるということを、義姉さんは絶対認めようとしなかった。見てくれまで悪いと言って、神様を恨むよう仕向けたりもした。でもぼくの檳榔子を刻む腕のよさについては、臆面もなく、手放しで賞めちぎった。そのおかげで、檳榔子を刻む仕事は、まるで羽根が生えたように進んだ。こうしてたきつけてくれる人がいなくなったせいで、檳榔子を薄く刻んでいた手は、それ以来ずっと、他の細かい作業に使われることになったのだ。

屋上で繰り広げられるこうした女たちの作業には、一種田舎風の味わいがあった。こうした仕事は、家にまだ足踏み脱穀機があり、それで搗いた粉を固めてまん丸のお菓子を作ったり、日暮れ時に女召使いたちが腰をおろし、腿の上で布切れを縒りながら灯心を作ったり、近所の家からアート=コウリ (18) のお呼びがかかったりした時代に属している。今日では、子供たちはおとぎ話を女たちの口から聞くことができず、印刷された本から自分で読むしかない。アチャルやチャトニ (19) は新市場(ノトゥン=バジャル) (20) から買って来なければならない — 漆を塗り込めて封をした、壜入りのやつを。

田舎と言えば、もうひとつ、チョンディ・モンドプ (21) のことがある。お師匠様が寺子屋を開いていて、ぼくの家族だけでなく、同じ居住区に住む近所の子供たちも、その場所で、ウチワヤシの葉の上に学問の最初の刻印を記したのだ。ぼくももちろん、まさにその場所で、「オー アー」 (22) の字をなぞることを始めたはずだ。でも今となっては、どんな望遠鏡を持ってしても、太陽系の最も遠い惑星のようなその幼児の姿を、目にすることはかなわない。

その後、最初に読んだ本で思い出すのは、あの、聖者シャンダ=アマールカの寺子屋で起きた、恐ろしい出来事 (23) 。また、羅刹ヒラニヤカシプの腹を、ヴィシュヌ神の化身ヌリシンハ(人獅子)が引き裂く話 (24) — 鉛版印刷の版画絵も一枚、本の中に見たような気がする。チャーナキヤ (25) の格言の断片も、胸に浮かぶ。

訳注

(注1)成仏できずに死んだ、バラモン男性の死霊。第1章(『子供時代』④)参照。
(注2)不明。「アチャルジ」はバラモンの姓で、「アチャルジニ」はその女性形。
(注3)イッショルチョンドロ・ビッダシャゴル(1820-1891)によるサンスクリット語の教科書、全3巻。1851-52年出版。
(注4)「アヌスヴァーラ」は母音の鼻音化、「ヴィサルガ」は母音を伴わない声門摩擦音(h音)を示す記号。サンスクリット語の朗読には、その正確な発音が不可欠。
(注5)『マハーバーラタ』等に登場する伝説上の聖者。
(注6)「アチャル」(注11)を作る。
(注7)黒目豆、クリーム色地に黒の大きな斑紋を持つ。ベンガル人が最もよく食する豆のひとつ。
(注8)強い酸味と塩味がする、干した青マンゴーの断片。しゃぶるようにして食する。
(注9)「アーム=ショット」((注14)参照)を作る。
(注10)高さ15~20m の常緑高木。10~20キロにもなる巨大なズダ袋のような実を、幹から直接ぶら下げる。果実は、熟れると種子の回りの仮種皮が黄色く熟し、ドリアンのような濃い味がする。また、未熟な青い実は、カレー料理や「アチャル」(注11)の材料に、よく用いられる。(西岡直樹『インド花綴り』参照。)
(注11)塩、酢、香辛料で味つけした野菜・果物を油に漬け込み、陽に当てて熟成させたもの。ピクルスの類。
(注12)阿仙薬(カテキュー)は、タンニンを含む樹液から抽出して乾燥させた、赤褐色の塊。他の香料とともにパーン(キンマの葉)に包み、清涼用に食する。
(注13)タコノキ科の植物、雌株はパイナップルのようなオレンジ色の実をつける。雄株は白く大きな苞に包まれた、薫り高い花を咲かせる。この雄花から、香油や香水が作られる。
(注14)5番目の兄、ジョティリンドロナト・タクルの妻、カドンボリ・デビ(1859-1884)。タゴールが23歳の時に自死した。この兄嫁との交流については、第9章以降に詳しく書かれている。
(注15)「アーム(マンゴー)=ショット(エキス)」。熟したマンゴーの汁を乾かし、固めたお菓子。通常、薄い延べ板状だが、タゴール家では、さまざまな型に入れて、ぶ厚く柔らかいものを作ったらしい。
(注16)ムガル帝国と戦った中世ベンガルの王、プロタパディットの生涯を描いた歴史小説。プロタプチョンドロ・ゴーシュ作。二部からなり、第一部は1869年、第二部は1884年出版。
(注17)細切れにして、石灰や他の香料とともにパーン(キンマの葉)の中に包み、食する。この実を薄く切るため、「ジャンティ」と呼ばれる鋏が用いられる。
(注18)「アート(8)=コウリ(豆類)」。新生児の健康を祝って、生まれてから8日目の夕刻に行われる儀式。近隣の子供たちが、8人の男の子を中心に、新生児とその母親が籠る産室の前に集まる。男の子たちは、箕を叩きながら、新生児の健康を尋ねる俚謡(チョラ)を唱え、母親から、元気だとの答を得る。その後、子供たちに、八種の炒った穀類・豆類と、甘菓子が配られる。
(注19)「チャトニ」(チャツネ)は、直訳すると「舐め物」。トマト、マンゴーや、酸味の強いタマリンド、イヌナツメなどの果実に香辛料・砂糖等を加え、甘酸っぱく煮込んだもの。
(注20)当時のチトプル・ロード(Chitpur Road)、現在のロビンドロ・ショロニ(Rabindra Sarani)沿いにある、大市場。
(注21)裕福な地主の領地内や、村の中心部などにある、公共の祭祀・集いの場。柱に支えられた二面ないし四面の屋根を持つ、吹き抜けの正方形の露台。もともとは、ベンガルで広く信仰されているチョンディ女神の祭祀の場であったことから、この名がある。チョンディ女神については、ビブティブション・ボンドパッダエの短編「チョンディ女神になった新嫁」の解説参照: https://bengaliterature.blog.fc2.com/blog-date-202111.html
(注22)ベンガル語のアルファベット、日本語の「あいうえお」に当たる。
(注23)シャンダとアマールカは、聖者シュクラーチャーリヤの息子たち。弟を殺したヴィシュヌ神を憎む羅刹ヒラニヤカシプが、息子プラフラーダの熱烈なヴィシュヌ神信仰を改めさせるため、この二人に息子の教育を託する。二人はプラフラーダを改宗させようとするが果たさない。図版は、シャンダ=アマールカが、プラフラーダを籐の鞭で罰そうとしている場面。(教科書『幼児啓発』(1898 年版)91ページ。アシシュ・カストギル編『ベンガル語初等教科書集(1816-1855)』(西ベンガルアカデミー、2006)より転載。『幼児啓発』は19世紀初頭からさまざまな版が出版されており、幼少のタゴールは、初期の版を見たと思われる。)
(注24)羅刹ヒラニヤカシプは、ヴィシュヌ神信仰を捨てない息子プラフラーダを殺そうとするが、逆にヴィシュヌ神の化身ヌリシンハ(人獅子)に腹を裂かれて殺される。(図版は『幼児啓発』94ページ、『ベンガル語初等教科書集(1816-1855)』より転載。)
(注25)カウティリヤ(マウリヤ王朝のチャンドラグプタ王(紀元前4˜3世紀)の宰相で『実利論』の著者)と同一人物とされる。彼が編纂したとされる『格言集』が残されている。

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部(英語英米文学科)卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年、インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん社)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん社)など。現在、めこん社のホームページに、近現代短編小説の翻訳を連載中。
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更新日:2022.03.07