タゴール『子供時代』⑪

第7章(後半)

ここまでが歌の話だ。
三番目の兄さんのおかげで、他の学問の手ほどきも受けたけれど、それがまた、大掛かりなものだった。大した効果はなかった — ひねくれた性格のせいで。ぼくのような人間を念頭において、ラムプロシャド・シェン (1) は歌ったのだ —: 「心よ、おまえは 耕すことを 知らぬ。」 耕すことなんて、金輪際、なかったのだ。

どんな畑の土いじりをすることになったか、その有様は、以下の通り。

まだ暗い内にベッドから起き出して、格闘技(クスティ)用 (2) の服を身につける。冬の寒い日には、身体が凍えて、鳥肌立ったままだ。巷では「盲の格闘士」の名で知られる、有名な格闘士 (3) が、ぼくらに技を仕込んだ。ぼくらの家の煉瓦造りの建物の北側は、いま、空き地になっていて、「稲倉」と呼ばれている。その名前を聞けば、都会もかつては田舎を完全に閉め出すわけにはいかず、その姿を垣間見せる隙間がそこここにあったのだ、と知れる。「都会文明」の始まりの頃、ぼくらの家の「稲倉」では、円筒形の貯蔵庫いっぱいに、一年分の稲が詰め込まれていた。小作人たちが年貢米を納めたのだ。格闘技用の藁葺き小屋は、その倉の壁に接していた。肘の深さまで土を掘って軟らかくし、それに40キロほどの辛子油を注いで、土俵が作られた。その場所で、ぼくは格闘士を相手に技を磨いたのだが、まあそれは、子供の遊びのようなものだった。たっぷり泥まみれになったあげく、身体に上衣をひっかけて家に戻った。毎朝、こんなに泥まみれになって帰ってくるのが、母さんには気に入らなかった。息子の肌の色が土色になりはしないかと、恐れていたのだ。そういうわけで、休日になると、母さんはそれを削ぎ落とすのに懸命になった。今日の趣味のいいお母さん方なら、外国製品を売る店に行って、肌を色白にする材料を、蓋付き容器に入れて買ってくるところだが、当時のお母さん方は、自分の手で湿布薬を作ったのだった。その中身は、南京豆をすったもの、ミルクの上澄み、ミカンの皮、その他もろもろ — その作り方を今でも覚えていたら、「貴婦人の喜び」という名の店を開いて、ションデシュ菓子 (4) の店に負けない稼ぎをあげることだって、できただろう。日曜の朝、ベランダにすわらされて、それがベタベタ、身体中に塗りたくられた。早く自由になりたくてジリジリした。いっぽう、学校の生徒たちの間では、ぼくらの家では、赤ん坊が生まれるとすぐにお酒の中に浸けて、肌の色を白人みたいにピカピカにするのだ、という噂が飛び交っていた。

格闘技の道場から戻ると、今度は医科大学の学生が一人、人間の骨格についての知識を授けようと待ち構えていた。人間の骸骨がまるごと、壁にぶら下がっている。夜ぼくらが休む寝室の壁に、だ。風に煽られるとカタカタ音を立てた。その骨をひとつひとついじりながら、ついている難しい名前を、残らず覚えることになった — そのおかげで、恐怖のほうは、どこかに消し飛んでしまったのだ。

正門では、7時の鉦が鳴る。ニルコモル先生 (5) は、いつもぴったり、時計の針に合わせてやってくる。一分でも間違える心配はない。枯れ木みたいに痩せてはいるが、健康なこと彼の生徒の如く、一日たりとも頭痛が起きることはなかった。本を抱え、石板を手に、テーブル前の席についた。黒板の上には、チョークで次々と数字が書かれていく、全部ベンガル語だ — 算数、代数、幾何学。文学は、『シーター妃の森への追放』 (6) に始まり、いきなり『メーガナーダ殺し』 (7) へとハードルが上がった。続いて、「自然科学」。ときおりシタナト・ドットさん (8) が現れて、ぼくが知っていることを吟味しながら、科学についての漠然とした知識を授けてくれた。一度、ヘロンボ・トットロトノさん (9) が来たこともある。何もわからないまま、『ムグダボード(無知者への教え)』 (10) を丸暗記しようと努めた。こんな具合に、午前中ずっと、次から次へと勉強が続き、その圧力が増せば増すほど、頭は何とかズルをして、その負担を減らし続ける — 暗記した知識は、網の目をすり抜け、どんどんこぼれ落ちようとする。こうして、ニルコモル先生が公言して憚らなかった彼の生徒の頭脳についての評価は、他人にわざわざ触れ回るようなものには、ならなかった。

ベランダのもう一方の側では、年老いた仕立屋のネアモトが、凸レンズのメガネをかけ、前のめりに身体を屈めて、布を縫っていた。時間が来るたびに、跪いてナマーズ (11) をする — そちらに目をやっては、何て幸せな人だろう、と思ったものだ。算数の計算で頭が混乱してくると、目を石板で隠して、下の方を眺める — 正門の前では、チョンドロバンが、木櫛で長い顎髭を二つに分け、両耳のところまで梳き上げている。隣では、腕環をはめた痩せぎすの若い門衛が、タバコの葉を刻んでいる。その向こう、馬はとっくに、バケツにあてがわれた飼い葉を食べ終わり、烏たちが、あたりに飛び散ったお余りのヒヨコ豆を、跳び回りながらつついている。犬のジョニは、自分の務めを思い出し、ワンワン吠えて、烏たちを追い払っている。

ベランダの片隅の、箒で掃き溜められた塵の中に、バンレイシの種 (12) を植えたのだった。いつそこから若葉が顔を出すか、それを見るのが待ち遠しくてたまらない。ニルコモル先生がいなくなったら、すぐに見に行って、芽に水をやらなくちゃ。でも結局、ぼくの思いは叶えられなかった。箒で塵を掃き集めた人が、その塵を、箒で掃き飛ばしたのだ。

日が昇り、中庭の半分に影がさしかかる。午前9時。チビで色黒のゴビンドが、肩に黄色の汚れた長手拭いをぶら下げて現れ、ぼくを水浴に連れて行く。9時半になると、毎日お決まりの、豆カレー、ご飯、魚の汁カレーが待っている。食べる気がしない。

10時の鉦が鳴る。大通りからは、青マンゴー売り (13) の、愁いを帯びた呼び声が届く。食器売りはチンチン音を響かせながら、遠く、さらに遠くへと去って行く。路地に面した建物の屋上では、一番上の兄さんの奧さん (14) が、濡れた髪を陽に乾かしている。二人の娘は、いつまでものんびりと、貝殻遊びを続けている。女の子たちは、その頃、学校に行かなくてもよかったのだ。女の子に生まれたらどんなに幸せだろう、と思った。老いぼれ馬が、駕籠車にぼくを乗せて、10時から4時の島流しに連れて行く (15) 。4時半過ぎ、学校から家に帰ってくると、体操の先生が待ち受けている。木の棒の上で、一時間あまり、身体をひねくり回す。その先生がいなくなると、今度は絵の先生だ。

昼の光が鈍色になり、次第次第に薄れてくる。街頭の雑多な音が混じり合い、靄のような響きとなって、煉瓦と木でできた魔物たちの身体を、夢の調べで彩る。

勉強部屋に、ヒマシ油の灯がともる。オゴル先生 (16) がやって来る。英語の勉強が始まる。黒い表紙の教科書たちが、テーブルの上で、待ち伏せしているように見える。表紙はゆるゆるで、中のページは、破れていたり、汚れがついていたり。とんでもない場所に、自分の名前を英語で書いて練習した痕が — それも、全部、大文字だ。読んでいるうちに、こっくりこっくりが始まり、ハッとして我に返る。読んだ量より読まなかった量の方が、ずっと多い。 ……

ベッドに入り、ようやくちょっとだけ、お余りの時間。そこで聞く物語は、決して、尽きようとしない —:

王子様は行く どこまでも
人っ子ひとり見えない 果てしない荒れ野を ……

訳注

(注1)ラムプロシャド・シェン(1720-1781)。24ポルゴナ(24パルガナス)県クマルホット村出身。カーリー母神の熱烈な崇拝者で、「シャマ=ションギト」(「シャマ」は黒い女神、即ちカーリー女神を指す)の作曲家として名高い。引用の歌は、「カーリー母神への絶対帰依という垣根を築き、導師が授けてくれた種子を信愛(バクティ)をもって育てれば、現生においてその稔りが得られる」、と説く。
(注2)『河野亮仙天竺舞技宇儀』第36回連載記事に、「インド・レスリング」とあるのが、これに当たる。
(注3)ヒラー・シン。シク教徒の格闘士。
(注4)第7章前半(『子供時代』⑩)の(注17)参照。
(注5)ニルコモル・ゴシャル。「ノーマル・スクール」の教員。「ノーマル・スクール」については、下の(注15)参照。
(注6)イッショルチョンドロ・ビッダシャゴル(1820-1891)作、1860年出版。『ラーマーヤナ』第7巻(後巻)の、ベンガル語による翻案。ラーマ王に貞操を疑われたシーター妃は、森へと追放され、双子の兄弟を出産する(『子供時代』③(注6)参照)。
(注7)マイケル・モドゥシュドン・ドット(1824-1873)作、1861年出版。『ラーマーヤナ』に基づく叙事詩で、ベンガル語近代詩の最初の傑作と言われる。メーガナーダ(「雲の轟き」の意)は羅刹ラーヴァナの息子インドラジットの別名。ラーマ王の弟ラクシュマーナに殺される。
(注8)シタナト・ゴーシュ(1248-1290)の誤り。
(注9)ヘロンボチョンドロ・トットロトノ。サンスクリット語学者。
(注10)13世紀の学者ボーパデーヴァの、サンスクリット語文法書。
(注11)イスラーム教徒の礼拝。規範に則り、1日に5回、メッカに向かって跪拝する。
(注12)高さ5~6メートルの小高木。果実は径7~8センチ、表面は亀甲状に分かれ、各片は盛り上がる。中には白い果肉があり、卵形黒色の種子がたくさんある。この果実の形のため、仏頭果、釈迦頭などの異名がある。(西岡直樹『インド花綴り』参照。)なお、詩画集『俚謡の絵』に、「バンレイシの種」と題するタゴールの詩がある。この詩に付随するノンドラル・ボシュの絵をここに転載した。(この絵の版権は、ビッショ=バロティ(タゴール国際)大学に属します。この絵の掲載を許可してくれた同大学に、感謝いたします。)
(注13)青マンゴーは、塩・辛子油とともに食される。特に子供・女性に好まれる。また、アチャル(ピックルス)の材料として、広く使われる。
(注14)長兄ディジェンドロナト・タクル(1840-1926)の妻、ショルボシュンドリ・デビ(??-1878)。二人の娘は、それぞれ、ウシャボティ、ショロジャ。(ディジェンドロナトについては、本書第13章に、記述がある。)
(注15)タゴールが8歳の頃1年間通った、「ノーマル・スクール」。教員養成を目的に、イッショルチョンドロ・ビッダシャゴルが、1855年に設立した。なお、「駕籠車」については、第3章(第6回連載)参照。
(注16)オゴルナト・チョットパッダエ。カルカッタ医科大学(Calcutta Medical College)の学生。

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部(英語英米文学科)卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年、インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん社)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん社)など。現在、めこん社のホームページに、近現代短編小説の翻訳を連載中。
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更新日:2022.01.21