タゴール『子供時代』⑩

第7章(前半)

朝から晩まで、勉強の石臼が回り続けて、止むことがない。ガラガラ音を立ててこの臼を回す役目は、三番目のヘメンドロナト兄さん (1) にあった。兄さんは厳しい支配者だった。タンブラー (2) の弦をあんまり張りつめすぎると、プツンと切れてしまう。兄さんは、ぼくらの頭に、詰め込めるだけたくさんの荷を積み込もうとしたけれど、肝腎の舟のほうが転覆して、そのほとんどが水底に沈んでしまったのだということを、今となっては隠すわけにはいかない。ぼくの知識は、無用の長物だったのだ。

兄さんは、長女プロティバ (3) の教育に没頭した。機を見て彼女をロレート女学校 (4) に入学させた。でもその前に、彼女はベンガル語を、しっかり身につけていた。そして、やがて兄さんは、彼女を西洋音楽の達人に仕立てあげた。でもそのいっぽうで、彼女が母国インドの歌もしっかり身につけるよう、心を砕いていたことは、誰の目にも明らかだった。当時の良家の人びとの間で、ヒンドゥスターニー古典歌曲を歌わせて、プロティバに並ぶ者はなかった。西洋音楽を学ぶことの利点は、旋律の高低がしっかり調い、耳の訓練も行き届き、またピアノに統率されてリズムも弛むことを許されなくなる点だ。それに加え、ベンガル語の歌の学習も、ビシュヌ (5) の指導の下で、幼い頃から始まっていたのだった。

歌のこの寺子屋には、ぼくも入学しなくてはならなかった。ビシュヌが手ほどきした歌は、今日の有名無名のどんな師匠(オスタード)でも、触れることすらいやがるに違いない。それは、田舎風俚謡の中でも、最も下等な部類に属すると言えた。2, 3例を挙げよう —:

何処からか ベデ (6) の娘が
やって来たのよ 村に、
すてきな入れ墨 してあげるって。
それでね 入れ墨なんか どうでもよくって
酷い目に 逢わされたの —
ねえ、義姉(ねえ)さん、
痛くって 苦しくって 泣いてばかりいたの —
ねえ、義姉(ねえ)さん!

他にもいくつか、切れぎれの一節が浮かんでくる。たとえば —:

お月様も お日様も かなわないわ、
蛍がともす 灯火には。
ムガル帝国 パターン帝国 潰れちゃって
アラビア語 読めるのは
無学な 機織り ばかりなの。 (7)

象神(ガネーシャ)の 母(かか)様
バナナの 嫁を
いじめないで くださいな。
その 一房でも稔ったら
子沢山に なれるのよ。 (8)

はるか昔に忘れ去られたニュースの痕跡がたどれるような、こんな一節もあった —

昔むかし 野良犬たちが ぺろぺろと舐めていた
ムクバナタレオボク (9) の 汚い森を
綺麗さっぱり 切り開いて
王宮こしらえました とさ。

今日の教授法では、まず、ハルモニウムの音に合わせてサレガマ (10) で声を調えさせ、そのあと、何かとっつきやすいヒンディー語の歌を歌わせる。でも、その頃ぼくらの勉強を監督していた兄さんは、子供たちの童心にとって、何が身近なものなのか、よく理解していた。こうした類の、軽い内容のベンガル語の歌のほうが、ヒンディー語のお決まりの歌よりも、子供たちの心の中に、たやすく座を占めるのだ。それに、このベンガル語の韻律に則ったリズムは、バーンヤー=タブラーのボール (11) を端(はな)から相手にせず、自分の脈動に合わせて踊り続ける。幼子たちの心を捉える最初の文学は、母親の口伝えの俚謡を通して学ばれるのだから、幼子たちの心を捉える歌の教育も、俚謡から始めるべきだ — ぼくらは、こうした理論の実験台にされていたのだ。

その頃はまだ、ハルモニウムという楽器が、ベンガル語の歌の本性をぶち壊すために到来してはいなかった。ぼくらは、膝の上にタンブラーを載せて、歌を練習したものだ。手で押せば音が出てくる機械の奴隷ではなかった。

ぼくの欠点は、決まった習得過程を何日も続けることが、どうやってもできなかったことだ。気が向くにまかせてあちらこちらから拾い集めたもので、籠をいっぱいにした。一生懸命学ぶということがぼくの性格に適っていたとしたら、今日の師匠(オスタード)たちが、ぼくをバカにすることはできなかっただろう。なぜなら、機会は山ほどあったのだから。ぼくらを教育する主がヘメンドロナト兄さんだった間は、ビシュヌの指導の下、半分うわの空で、ブロフモ=ションギト (12) を朗唱した。時に応じて、自然にその気になると、扉の傍で耳を澄まし、聞こえてくる歌を自分のものにした。兄さんが、ベハーグ=ラーガ (13) で、「象のように しずしずと 歩む女よ」を歌っていた時も、ぼくは扉の蔭で、その歌を心に焼きつけていた。夕暮れ時にそれを歌って聞かせて、母さんをびっくりさせるのなんか、造作もないことだった。ぼくらの家族友達のスリコント (14) さんは、朝から晩まで歌の中に浸りきっていた。ベランダにすわったまま、素馨(ソケイ) (15) の香油を身体に塗って、水浴びをしたものだった。手には水煙管、竜涎香の薫りがするタバコの煙が、空に立ち昇った。くぐもり声で歌を歌い続け、そのまわりには、いつも子供たちを従えていた。歌を教えることなんか決してなかった。ただひたすら、歌を与え続けていた — そのおかげでぼくらは、いつそれが自分のものとなったかのかすら、わからなかったのだ。嬉しさが抑え切れなくなると、立ち上がって、踊りながらシタールを奏し続ける、そして笑いに見開かれた大きな両眼をギラギラ光らせ、歌い始めるのだった —:

捨ててしまったの 私は、 ヴラジャの笛を …… (16)

ぼくも声を合わせて歌わないと、許してもらえなかった。

その時代の、客に対する接待とは、開かれた扉のことだった。知り合いを通して都合を聞く必要などなかった。家にやって来さえすれば、寝る場所が得られたし、料理を並べた盆も、当然のごとく現れた。そうした未知の客人が、ある日、綿入れにくるんだタンブラーを腰に抱えて訪れ、小さな手包みを開き、居間の片側に足を投げ出してすわった。水煙管係のカナイが、いつも通り、その客に水煙管を手渡した。当時、客人に対しては、このようにタバコを供すると同時に、パーンを振舞うのも慣習(ならい)だった。その頃、奥の区画にいた女たちの朝の仕事はと言えば、まさにこれだった — つまり、外の区画を訪れる客人たちのために、パーンを山のように用意すること。手早くキンマの葉に石灰を塗り、木の棒で阿仙薬を塗りたくり、適当な香辛料を加え、最後に丁字を入れて包み、黄銅製の大桶(ガムラ)を充たし続ける。その上には、阿仙薬の染みがついたボロ布が被さっている。いっぽう、外の区画の階段下の部屋は、タバコの準備で大忙しだ。土製の大桶(ガムラ)は、灰で覆われたタバコの燃えかすでいっぱいで、アルボラギセルの長い煙管の群れは、地底の蛇王国の蛇のように垂れ下がり、その管の中からは、バラ水の匂いが漂ってくる。家を訪れた客人は、階段を通って上に上がる初っ端に、家人の最初の歓迎の挨拶を、この竜涎香タバコの薫りの中に得るのだった。当時はこんなふうに、どんな人間でも受け入れるという、ひとつの決まった慣習があったのだ。そのパーンでいっぱいの大桶(ガムラ)は、とっくの昔に姿を消してしまった。水煙管係の一族は、その衣装を脱ぎ捨て、いまや甘菓子屋で、三日前の売れ残りションデシュ菓子 (17) をこねくり返すのに忙しい。

例の見知らぬ歌い手は、望み通り、家に何日かとどまった。誰ひとり誰何(すいか)する者はなかった。ぼくは、明け方時、蚊帳から抜け出して、彼の歌に耳を傾けたものだ。規則通りに学ぶということが性に合わない者たちにとっては、こうして場当たり的に学ぶことが、何よりの楽しみなのだ。朝のラーガに乗って、「ああ 私の笛よ」の歌が響きわたる。

その後、ぼくが少し大きくなってから、家に、極めつきの大師匠(オスタード)、ジョドゥ・ボット (18) が逗留した。ただ彼は、とんでもない間違いをひとつ、仕出かした — つまり、ぼくに歌を仕込もうと意気込んだのだ。そのおかげで、とうとうぼくには、歌を習うことはかなわなかった。ただ、いくつかの歌をこっそり拾い集めることだけはした。気に入ったのは、カーフィ=ラーガ (19) の、「しんしんと 降り注ぐ 今日のこの雨」の歌だ。これは、今日に至るまで、ぼくの雨季の歌の仲間に入っている。困ったことに、ちょうどこの頃、もう一人の客人が、何の予告もなしに現れたのだった。「虎殺し」で有名な人だった。軟弱なベンガル人が虎を殺すだなんて、その頃、とてつもないことのように思えたのだ。だから、ぼくはほとんどいつも、その人の部屋に入り浸っていた。その人は、虎の手に落ちた話をしてぼくらを仰天させたけれど、実のところ、その虎に噛みつかれたわけではなかった。博物館の剥製の虎のあんぐり開いた口を見て、でっち上げた話だったのだ。その時は気づかなかったけれど、今となってみれば、はっきりそうだとわかる。でも当時のぼくは、この勇者のために、パーンやタバコを手配するのに大忙しだったのだ。カーナーラー=ラーガ (20) の導入部(アーラープ) (21) は、遠くからしか耳に届かなかった。

 

訳注

(注1)ヘメンドロナト・タクル(1844-1884)。第3章(第6回連載)参照。
(注2)タンブラー/ターンプラーは、長い棹、大きな瓢を持つ、伴奏用の弦楽器。通常4~5本の弦を持ち、その弦を歌や楽器演奏の背後で弾き続けて、ドローンを奏でる。
(注3)プロティバ・デビ(1865-1922)。
(注4)カトリック系のミッションスクール。1842年創立。1921年にカレッジにまで発展し、カルカッタ大学の傘下に入る。
(注5)ビシュヌチョンドロ・チョクロボルティ(1804-1900)。ラムモホン・ラエ創始以来の「ブロフモ=ションギト」の歌い手として、名高い。((注12)参照。)
(注6)「ベデ」は、ベンガル社会最下層のジプシー集団。第2章(第5回連載)の(注6)参照。入れ墨を施すのも、ベデニ(ベデの女)たちの生業のひとつ。
(注7)イスラーム帝国が潰え、英領時代となって、いまやアラビア語を読み書きするのは下層のイスラーム教徒しかいない、と言う。
(注8)ドゥルガー女神の祭祀(プージャー)では、女神の右に、彼女の息子である象神ガネーシュが付き添う。そしてそのさらに右横に、バナナの木にサリーを纏った「バナナの嫁」が寄り添う。バナナの木は多産の象徴であり、ドゥルガー女神の祭祀が、豊穣祭に起源を持つことを示すと考えられている。
(注9)ベンガル語名「シェオラ」。高さ2.5~5メートルの、密に葉をつける常緑小高木。2.5~8センチほどの鋸葉を持ち、裏がザラザラの楕円形の葉をつける。日陰に茂みを形成し、ゴミ捨て場にもなる。民間では幽霊の住処と信じられている。(西岡直樹『とっておきインド花綴り』参照。)
(注10)「ハルモニウム」は、インド歌唱の伴奏に用いられる、箱形のオルガン。左手でリードに空気を送りながら、右手で鍵盤に指を走らせて演奏する。「サレガマ」は、西洋音楽の「ドレミファ」に当たる。
(注11)「バーンヤー=タブラー」は、一対の伴奏用太鼓。古典音楽から民謡まで幅広く使われる。右手で高音域のタブラーを、左手で低音域のバーンヤーを鳴らし、それらを組み合わせて複雑なリズムを刻む。「ボール」は、その音色を、口真似で定型化したもの。口から発する定型化した音の組み合わせで、さまざまなリズムパターンを表現する。
(注12)ブラフモ協会の集いで歌われた宗教歌。ブラフモ協会は、梵我一致を説く新興宗教「ブラフマー教」の団体。近代インドの宗教改革を目指して、ラムモホン・ラエ(1772-1833)が創始し、タゴールの父デベンドロナトが引き継いだ、
(注13)「ラーガ」は、インド古典音楽の旋律型。その旋律型の枠組みに則り、定められた時間・季節に、その時々の情調(ラサ)を表現する即興演奏を行う。ベハーグは夜の第二刻(9時〜12時)に演奏される。優美で親しみやすい情調で知られる。
(注14)スリコント・シンホ(??-1884)。ビルブム県ラエプルの大地主、モノモホン・シンホの次男。ラエプルのシンホ家とタゴール家の関係は深い。スリコント・シンホの従兄弟に当たるプロタプモホン・シンホは、タゴールの父デベンドロナトの指導の下でブラフマー教に入信した、最初の人物。デベンドロナトは、後に、シンホ家が寄贈した土地に、ブラフマー教の修道場、シャンティニケトンを創設した。
(注15)「チャメリ」、南アジアに自生するジャスミンの一種。
(注16)ラーダー=クリシュナ神話に基づく、ヴァイシュナヴァ派信愛歌の一節。「ヴラジャ」は、クリシュナ神が人妻ラーダーやその女伴侶たちと戯れた聖地。この一節は、ラーダーが、嫉妬のあまり、他の女たちを惹きつけるクリシュナの笛を捨てた、と告げたものか。
(注17)ベンガルで最も一般的な甘菓子のひとつ。凝乳に、砂糖・黒糖などを加え、型に入れて作る。柔らかいものから硬いものまで、さまざまな種類がある。
(注18)ジョドゥナト・ボッタチャルジョ(1840-1883)。バンクラ県ビシュヌプル出身。インドの古典歌唱「ドゥルパド」の、すぐれた歌い手・作曲家として知られる。デベンドロナトの庇護の下、歌の指導者として、タゴール家に逗留する。「ブロフモ=ションギト」の作曲者としても知られる。
(注19)ベハーグ・ラーガと同様、夜の第二刻(9時〜12時)に演奏される。広く親しまれているラーガの一つ。
(注20)真夜中のラーガ。ムガル帝国アクバル帝の宮廷歌人、タンセンの作と言われ、その深遠な情調によって知られる。
(注21)「アーラープ」は、古典歌唱・楽曲における、無伴奏の導入部。バーンヤー=タブラーのリズム伴奏が入る前に、ラーガの持つ情調を確立する。

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部(英語英米文学科)卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年、インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん社)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん社)など。現在、めこん社のホームページに、近現代短編小説の翻訳を連載中。
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更新日:2021.12.27