タゴール『子供時代』⑦

第4章

ぼくらが幼かった頃、日が暮れてからのカルカッタの街は、今みたいに宵っ張りではなかった。今の時代は、太陽の光の一日が尽きると、すぐに電気の光の一日が始まる。その時間帯になると、街では、活動は減るものの、休息があるわけではない。竈で燃えていた薪の火が消えてしまっても、熾火がまだ、燻(くすぶ)っているようなものだ。確かに、辛子油の搾油工場は閉まり、蒸気船の汽笛が鳴ることはなく、工場から労働者たちは姿を消し、ジュートの束を載せた荷車を曳く水牛たちは、街の牛舎のトタン屋根の下に収まっている。でも、日中、いろんな考え事で火のように熱くなっていた街の頭脳は、夜になってもまだ、ドクドクと脈打っている。道路の両側に並んだ店々では、依然として売り買いが続いている。ほんの少しだけ火の上に灰が撒かれて、その勢いが削がれているだけだ。ゴーゴーと唸るような音を撒き散らしながら、自動車が、あちらこちら、走り回っている。特に必要がある訳でもないのに。

ぼくらの子供時代には、日が暮れると、その日済まなかった仕事は、そのまま眠りについたものだった –– まるで、街という屋敷の一階に、明かりを消し黒い毛布に身を包んで、ひっそり眠りに落ちる、とでも言うかのように。家の内でも外でも、夕暮れ時の空は、しーんとひそみ返っていた。イーデン庭園 (1) やガンガーの岸辺で、趣味人たちを風に当たらせた後、彼らを乗せて戻ってくる馬車 –– その御者たちの賑やかな掛け声が、道路から聞こえてきた。チョイトロ−ボイシャク月 (2) になると、行商人たちの「こ〜お〜り」と呼ばわる声が、路上に響いた。土製の釜の中、氷を入れた塩水に浮かぶ、小さなブリキ製の筒には、その頃の言葉で「クルフィの氷」 (3)、今の言葉で「アイス」または「アイスクリーム」が入っていた。道に面したベランダに佇んで、その呼び声が耳に入ってきた時、どんなに胸が騒いだことだろう。もうひとつ、「ベールの花〜」 (4) という呼び声も聞かれた。

春の訪れとともに花売りたちが運んできた、あの花籠の消息は、どうしたことか、今日では聞かれることがない。その当時、女たちの髷からは、ベールの花を束ねた花環の薫りが、風に乗って、家中に撒き散らされたものだった。女たちは、水浴に行く前に、部屋の前のベランダにすわって、手鏡に顔を映しながら髪を編んだ。編み終わった髪を紐で縛り、いろいろな手管を尽くして髷を結った。身にまとうのはフォラシュダンガ製の黒縁サリー (5)、それを腰にぐるぐる巻きつけ、襞をつけて畳んだその残りを、肩にかけた。床屋の女が来て、彼女たちの足裏を軽石でこすり、そのまわりにアルタ (6) を塗りつけた。この床屋女たちが、女たちの区画に、外のニュースを運んでくる役目を荷っていたのだ。今日のように、カレッジやオフィス帰りの人びとが、市電の乗降口の足座に群がり、サッカー試合を見るためにマイダーン (7) に駆けつけることはなかった。彼らが、帰宅の途中、映画館の前で列をなすこともなかった。劇を演じることが流行(はや)り始めていたけれど、残念なことに、ぼくらはまだ、子供だった。

その頃、子供たちは、大人たちの娯楽を、遠目に見学することすら許されなかった。構わずそばに近づこうとすると、「こら、あっちへ行って、遊んできなさい」と、追い返されたものだ。それなのに、遊びに熱中して子供らしい声を上げていると、今度は、「静かにしなさい」が飛んできた。いっぽう、大人たちの娯楽は言えば、いつも物静かだったとは、とても言うことができない。だから、時には、急流からこぼれ落ちる水泡のように、その飛沫(しぶき)が、ぼくらの上に、降りかかってくることもあったのだ。こちら側の建物のベランダから、身を乗り出して目を凝らしていると、向こうの建物の中の舞踏室が、きらめく明かりに溢れているのが見える。正門の前には、大きな二頭立て馬車が、列をなして集まっている。入り口の扉の側から、兄さんたちの中の何人かが、客人たちを上へと案内している。客人の身体に、ガラスの噴霧器でバラ香水をふりかけ、小さな花束をひとつずつ手渡している。上演されている劇からは、クリン・バラモン (8) の娘のむせび泣く声が、途切れ途切れに聞こえてくる。ぼくにはその意味がよくわからなくて、どういうことなのか、すごく知りたかった。後で聞いたところでは、泣いていたのは、クリン・バラモンには違いないが、それはぼくの義兄(にい)さん (9) だったのだ。

その頃の家庭では、女と男が、境界線で仕切られた別々の世界に住んでいたように、子供たちと大人たちも、別々の世界にいた。ボイトクカナ(集会部屋)のシャンデリアの明かりに照らされて、歌と踊りが演じられている。大人の男たちは水煙草をふかし、女たちは籐の簾(すだれ)の蔭に隠れて、薄暗い光の中、パーンの容器を手に、すわっている。そこには外から来た女たちも加わり、ひそひそ声で、家庭内のさまざまな出来事を語り交わしている。子供たちは、その時間にはもう、ベッドの中だ。女召使いのピアリやションコリが、お話を聞かせてくれる。その間を縫って、ボイトクカナからは、歌の一節が流れてくる (10)

月影の下 あたかも花 開きし如く —

 

訳注

(注1)イーデン庭園は、北カルカッタの中心にある庭園。ガンガー(フグリー川)に面し、マイダーン (注7参照)の北西端に位置する。その一部は、現在、巨大なクリケット・スタジアムになっている。
(注2)3月半ば〜5月半ば、インドの一番暑い季節。(『子供時代』③ 訳注4参照。)
(注3)「クルフィ」は、ミルクを煮詰めたものを冷やして作る。西欧風のアイスクリームよりもミルク味が濃い。
(注4)「ベール」は、和名マツリカ。ジャスミンの一種。仏典では「茉莉花」、「摩利迦」等の綴りで登場(サンスクリット語の発音「マーリカー」に基づく)。高さ1~2mほどの低木で、広卵形の葉が対生につく。花は白で直径2cm前後、一重・二重・八重のものがある。開き切らない蕾を繋いで糸に綴り、神像に捧げたり、女性の髪飾りに用いたりする。(西岡直樹『インド花綴り』(木犀社)による。)
(注5)「フォラシュダンガ(「フランスの土地」の意)」は、カルカッタの北35km、フグリー川の西岸に位置する町、「チョンドンノゴル」の別名。フランスの植民地であったことからこの名がある。綿織物の生産地として有名。なお、ここで描かれているサリーの着付けは、伝統的な簡素なやり方。のちに、タゴールの2番目の兄ショッテンドロナトの妻ギャノナノンド・デビが、モダンなサリーの着付けを導入、ベンガル中に広めた。
(注6)漆をベースにした赤い汁の化粧。女性の足の指や甲のまわりに塗る。
(注7)ウィリアム要塞、ヴィクトリア記念堂、イーデン庭園などを擁する、カルカッタ中心区域の広大な公園。
(注8)「クリン・バラモン」は、ベンガルの高位バラモンの総称。当時、この家系のバラモン男性は、同等ないし下位のバラモンの女性たちと多重婚を行うのを常とするいっぽう、クリン・バラモンの女性は、自分より下位のバラモン男性と結婚できないため、結婚相手を見つけるのに苦労した。ここで上演されているのは、おそらく、クリン・バラモンの女性の悲劇を描いた、ラムナラヨン・コビロトノ(1822-1886)作の劇『クリン・バラモン家系のすべて』(1854)。
(注9)3番目の姉ショロトクマリ・デビの夫、ジョドゥナト・ムコパッダエ。当時はまだ女性が舞台に立つことはなく、男性が女性役を演じた。
(注10)おそらく、当時上流階級の間に流行(はや)った、「トゥムリー」と呼ばれるインド歌謡の一形式。恋愛を主題にしたきわめてロマンティックな内容の歌詞、耽美的な旋律に特徴がある。踊りに合わせて歌われることが多い。

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部(英語英米文学科)卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年、インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん社)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん社)など。現在、めこん社のホームページに、近現代短編小説の翻訳を連載中。
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更新日:2021.09.17