タゴール『子供時代』⑥
第3章
昨夜から、雲に切れ目が見えない。雨がひっきりなしに降っている。木々はでくのぼうみたいに、ぼおっと突っ立っている。鳥の声も聞こえない。今日胸に浮かんでくるのは、ぼくの子供時代の夕暮れ時。
その頃、ぼくらはこの時間帯を、召使いたちの区画で過ごした。英単語の綴りと意味を暗記しなければならない、心臓をドキドキさせる夕べは、まだぼくらの上に、のしかかってはいなかった。三番目の兄さん (1) の考えでは、まずベンガル語をしっかり身につけることが大事、英語を学ぶのはその後でよい。そのおかげで、ぼくと同じ年頃の学校に通う子供たちが、「I am up 私は上にいる」、「He is down 彼は下にいる」、などと大声を張り上げていた頃、ぼくの知識は、「ビー・エー・ディー bad」、「エム・エー・ディー mad」 の段階にも達していなかった。
太守(ナワーブ)の王宮言葉では、召使いたちの区画は、その頃、「トシャカナ」と呼ばれていた。ぼくらの家は、昔日のアミール(裕福な貴人)と呼ばれるような状態からは、はるか下に落ちぶれていたけれど、「トシャカナ(貴重品部屋)」、「ドプトルカナ(書類部屋)」、「ボイトクカナ(集会部屋)」と言った名前は、しぶとく生き延びていたのだ。
そのトシャカナの南の一角に、大部屋がひとつあった。ヒマシ油の明かりが、ガラスのホヤの中でちらちら揺れ、壁には、ガネーシャ神の絵とカーリー女神の掛け軸、その周囲をヤモリが、虫を狙って貼りついていた。部屋には、家具なんてものは何もなくて、汚れたゴザが一枚、床に敷いてあるだけだった。
一言断っておくと、ぼくらの生活は、貧乏人のそれだった。馬車なんて呼べるようなものは、無いに等しかった。母屋の外の片隅に、インドセンダン (2) の樹に隠れた藁葺き小屋があって、その中には、駕籠に車輪をつけただけのみすぼらしい乗り物と、それを曳く一頭の老いぼれ馬がいた。衣服もいたって簡素なものだった。靴下なんて、大きくなるまで履いたことがなかった。ブロジェッショルのお決まりのメニューを尻目に、朝食に食パンとバナナの葉に包まれたバターが配られた時には、天にも昇る心地になった。贅の限りを尽くした昔日の、なれの果ての日常を、おとなしく受け入れる訓練が施されていたのだ。
そう、ぼくらのこのゴザの上の集いを仕切っていた召使いの名は、ブロジェッショルと言う。髪も髭も白髪混じり、顔のひからびた皮膚は、ピンと張り詰めていた。いつも真面目くさっていて、きつい口調で、噛んで含めるようにものを言う癖があった。彼の前の主人は、おっとりした性格の著名人だった。その地位から、ぼくらのように放ったらかされて育ったガキたちのお守り役へと、彼は格下げになったのだ。噂では、彼は田舎の寺子屋で師匠を務めていたのだそうだ。その師匠風の言葉遣いと態度は、最後まで変わらなかった。「旦那方が待っていらっしゃる」の代わりに、「待ち設けていなさる」、といった調子だった。彼のこんな言葉遣いを、主人たちはもの笑いの種にしていた。彼は高慢ちきであるだけでなく、恐ろしく潔癖だった。水浴の時、池に入ると、油の浮いている水面を両手で数回かき分け、その後、ザブンと一気に身体を沈める。水浴がすみ、池から出て庭の径を通る時、その、手を撓めながら歩く様子は、まるで、神が創り給うたこの穢らわしい地上世界を、何とか避けて通ることができれば、自分の出自(ジャーティ) (3) を汚さずに済むのだが、と言っているようだった。日々の行いの、どれが正しくてどれが間違っているかを、彼はしごく熱心に説教した。肩が少しこちら向きに捻れていて、その効果で彼の言葉は重みを増すのだった。でも、どんなに師匠ぶろうとしても、その威厳を損ねるような欠点がひとつあった。食べ物に対する貪欲さを、彼はひた隠しに隠していたのだ。ぼくらの食事時に、予め決まった量の食べ物を並べておくのは、彼のやり方ではなかった。食事を始めると、彼は、ルチ (4) を一枚ずつつまんで見せては、「もう一枚、食べるかい?」と聞くのだ。「はい」と「いいえ」のどちらの答を望んでいるか、その時の口調でわかる。ぼくは、ほとんどの場合、「もういらない」と答えた。そうすると、彼はそれ以上、あえて勧めようとはしなかった。ミルクの入った器にも、彼はさもしいまでに執着していたけれど、ぼくはまったく関心がなかった。彼の部屋には、棚のついた小さな戸棚があった。その中の大きな真鍮の器には、ミルクが入っていて、木製の大きな丸盆の上には、ルチと野菜カレーが置いてあった。猫が、網戸の外で、鼻をひくひくさせながらうろついていたものだ。
こんなふうに、ぼくは子供の頃から、少食にすっかり慣れてしまっていた。少食のせいでぼくが虚弱児になったとは、とても言うことができない。たらふく食べていた子供たちに比べて、ぼくの体力は、勝ることはあっても、劣ることはなかった。いやになるほど健康だったので、学校から逃げたくて仕方がなかった頃、身体をいろいろ痛めつけてみたけれど、どうしても病気になることができなかった。靴を水でびちゃびちゃにして一日中歩き回っても、風邪にかからない。カルティク月 (5) の寒空の下、屋上に寝て、髪や衣服が露でびしょ濡れになっても、喉がむずついて咳が出るような気配すらなかった。また、「腹痛」という名前で、おなかの中が消化不良を起こして痛くなることがあるらしい、と聞いていたので、実際に体験したことはないのに、必要が生じると、母さんにそう伝えることがあった。母さんは、心の中では笑っていたんだろう、それを聞いても、全然心配したようには見えなかった。でもそれでも召使いを呼んで、こう言いつけてくれた、「ちょっとおまえ、先生のところに行って伝えておくれ、今日は授業はなしにしてください、って。」
ぼくらの母さんは昔流儀の人だったので、子供がときどき勉強をサボったところで、特に困ることもあるまい、と考えたのだ。今風の母さんの手に落ちたとしたら、先生のもとに追い返されただけでなく、耳つねりの罰までくらったことだろう。にやりと笑ってヒマシ油を飲ませるのが、せいぜいだったのだ。いつもそれで、ぼくの病気はすっかりよくなった。万が一、熱が出たところで、それを「熱」とは誰も呼ばず、「身体が熱いね」が決まり文句だった。そんな時は、ニルマドブ先生がやって来た。体温計なんてものは、その頃、見たこともなかった。先生は、身体にちょっと手を当てると、一日目の処方箋をくれた。それは、ヒマシ油と絶食に決まっていた。水だけは、ほんのちょっと飲むことができたけれど、それはお湯でなければならなかった。一緒にカルダモンの実を飲んでもよかった。三日目になってようやく許される、モウロラ魚 (6) の汁カレーとお粥が、絶食後の大ご馳走だった。
熱に苦しむということがどんなことか、記憶にない。マラリアなんて言葉は、聞いたことすらない。飲むと吐き気を催す薬の王様は、例のヒマシ油で、キニーネは記憶にない。身体のでき物をメスで切られたことも、一度もない。麻疹(はしか)、水疱瘡(みずぼうそう)がどんなものか、今日に至るまで知らない。身体は頑固なまでに健康だった。
お母さん方が、もし、子供たちの身体を、先生の手から逃げる術がないまでに無病にしておきたいなら、ブロジェッショルのような召使いを探し出すのが早道だろう。食費を節約すると同時に、医療費も節約できる。特に、工場生産の小麦粉と混ぜ物入りバター油が跋扈している、今日この頃では。ひとつ覚えておいてほしいのは、その頃、市場には、まだチョコレートの姿がなかったことだ。1パイサの値段の、「バラ味レウリ菓子」 (7) があった。バラの香りの、ゴマに覆われたこの砂糖の塊が、今でも子供たちのポケットをベタベタにしているかどうかは知らない。今風の格式ある家庭からは、恥ずかしくて逃げ出してしまったに違いない。あの、炒った香辛料 (8) が入った紙袋は、どこに行った? また、あの安価な、ゴマをまぶしたゴジャ菓子 (9) は? 今でも生き延びているのだろうか? もしそうでないなら、呼び戻す必要はない。
ブロジェッショルからは、夕暮れ時になると毎日、クリッティバシュ『ラーマーヤナ』7巻 (10) の朗読を聞いた。その朗読の合間合間に、キショリ・チャトゥッジェ (11) がやって来た。『ラーマーヤナ』の歌物語(パンチャリ) (12) を、彼はその調べとともに、完全に暗誦することができたのだ。突然その場を支配すると、クリッティバシュの朗読をかき消して、朗々と、物語の一節を唱え始める。
おお おお ラクシュマナ、
時は かくも 不吉にして
危機は まこと 訪れき。 (13)
その顔には笑みが浮かび、頭の禿げはテカテカ光り、喉からは俚謡(チョラ)のリズムに乗った詩行の、清流のような調べが溢れ、一行毎に踏まれる脚韻は、水底の小石に当たる水音のように響いた。朗唱とともに、彼は手足を振り回して、表現効果を高めた。
キショリ・チャトゥッジェが何よりも残念がっていたのは、お坊ちゃま(つまりぼくのことだ)が、こんなにいい声を持っているのに、歌物語の一座に加われなかったことだ。そうしていれば、とにもかくにも、国中にその名は知れ渡っただろうに。
夜が更けると、ゴザの上の集いもお開きになる。ぼくらは、お化けの恐怖で背筋が寒くなるのをなんとか我慢しながら、家の奥の母さんの部屋にたどり着く。母さんはその時、叔母さん (14) を相手にカード遊びをしている。白塗りの部屋は、象牙のようにピカピカ光っていて、木製の寝台には、大きな絨毯の上に敷布が敷いてある。さんざん騒ぎ立てたので、母さんはカード遊びを諦めて、こう言ったものだ、「なんてまあ、騒がしいこと! 叔母さん、さあ、行って、この子たちにお話を聞かせてやって。」 ぼくらは、ベランダに出て水差しの水で足を洗うと、この「おばあちゃま」の手を引いて自分たちの部屋に行き、寝台の上に収まる。そこでは、王女様を眠りから覚まして、魔界から救い出す物語が始まる。でもその途中で、王女様の代わりに眠りに落ちてしまったぼくを、目覚ましてくれる人は誰もいない。夜の第一刻 (15)、ジャッカルの吠え声が響きわたる。その頃はまだ、カルカッタの古い家々では、夜になると、家の土台の下でジャッカルが吠えたりしたのだった。
訳注
(注1)ヘメンドロナト・タクル(1844-1884)。弟たちの教育を担当した。
(注2)ベンガル語で「ニーム」、常緑の高木。葉は7~9対の羽状複葉、小葉は披針形で長さ5センチほど、鎌形に曲がり、縁に鋸葉がある。苦味があり、薬用に広く使われる。魔除けの効能があると信じられる。小枝は歯磨きに使われる。その樹蔭は涼しく、心地よい。(西岡直樹『インド花綴り』(木犀社)による。)
(注3)その経歴や言葉遣いから、彼が高い出自(ジャーティ)の出身であることが窺える。ベンガルでは、バラモンと、それに次ぐカヤスト(書記階級)・ボイッド(医者階級)が、高位の出自集団。
(注4)小麦粉を捏ねて延ばし、油でふっくら脹らむようにして揚げた、丸パン。ベンガル人が好む常食のひとつ。
(注5)10月半ば〜11月半ば。晩秋の季節。
(注6)コイ科の淡水魚、英語名 mola carplet。7~8センチの薄緑色の小魚。滋養に富む。
(注7)「レウリ」は、砂糖または黒糖を溶かして固めた甘菓子。
(注8)コリアンダー、ウイキョウ、ヒメウイキョウの実を炒ったもの。清涼用に食する。
(注9)「ゴジャ」は、ベンガルのごく一般的な甘菓子。捏ねた小麦粉を延ばし、畳んで層にした塊を、熱した糖蜜で揚げて作る。地方によってさまざまな形がある。
(注10)ベンガル中世の詩人、クリッティバシュ・オジャ(1381-1461)による、ヴァールミーキ『ラーマーヤナ』の翻案。ベンガル地方の民間に広く普及した。数多くの異本が伝わる。
(注11)タゴールの父、デベンドラナト・タクルの従者。序詩(タゴール『子供時代』③)の訳注5参照。
(注12)「パンチャリ」は、ヒンドゥー神話に基づいて創作された、土俗的な歌物語。
(注13)ラーマ王・シーター妃の間に生まれた双子の兄弟、ラヴァとクシャが、ラーマ王の弟ラクシュマナを打ち破る一節。この一節はヴァールミーキ『ラーマーヤナ』にはなく、クリッティバシュはじめ、後世の詩人の付加。「パンチャリ」では、民衆向けに、さらに粉飾を施す。
(注14)タゴールの母、シャロダ・デビ(1830-1875)の、父方の叔父の妻。
(注15)刻(プロホル)はインドの伝統的な時間区分。一日を3時間ずつ、八つに分ける。夜の第一刻は、6時〜9時。
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部(英語英米文学科)卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年、インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん社)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん社)など。現在、めこん社のホームページに、近現代短編小説の翻訳を連載中。
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更新日:2021.08.28