タゴール『子供時代』⑤
第2章
その駕籠は、祖母の代のものだった。とっても広々としていて、太守(ナワーブ)(1) の駕籠と同じ様式だった。二本の支え棒は、それぞれ、人夫八人が肩で担げる長さだった。手には黄金の腕環、耳にはずっしり重たい耳飾りをつけ、赤い半袖の胴着を身体にまとった人夫の一隊が、沈む陽の光を浴びた赤い雲のように、昔日の富・財産 (2) とともに、姿を消したのだ。この駕籠の側面は、色とりどりの線模様で飾られていたけれど、そのいくつかは剥げ落ち、あちこちに傷がついていて、中の座席は、詰めたココナツの殻の茶色の繊維が、剥き出しになっていた。それはまるで、時代遅れの不用品とされた家具のように、会計事務所の外のベランダの片隅に、捨て置かれていた。ぼくが7, 8歳の頃の話だ。この世界で必要とされるどんな仕事にも、ぼくはまだ、係わりがなかった。そしてこの古びた駕籠も、必要とされるあらゆる仕事から、お払い箱にされていた。そんなわけで、ぼくはこの駕籠に、こんなにも惹きつけられたのだ。それはまるで、海の真ん中に浮かぶ孤島で、ぼくは休暇の日のロビンソン・クルーソー、周囲の監視の目を逃れて、この駕籠の閉じた扉の中に、姿を消していた。
その頃、ぼくらの家は、人で溢れていて、誰が家人で、誰が客人かの、区別すらつかなかった。家のいろんな区画で働く男女の使用人が、あちこちで、わいわい声を上げていた。
正面の中庭を通って、女中のペリが、市場で買った野菜でいっぱいの籐の籠を、腰に抱えてやって来る。人夫のドゥコンは、竹の担ぎ棒を肩に載せて、ガンガーの水を運んでいる。家の中では、女の織工が、最新流行の裾模様に縁取られたサリーを、披露している。いつもは路地の横の部屋にしゃがんで、鞴(ふいご)をふうふうさせながら家人の注文仕事をしている、お抱え金銀細工師のディヌは、いま、会計事務所に陣取る、耳に羽根の筆を挟んだコイラシュ・ムクッジェのところに、給料の支払いをもとめにやって来るところだ。中庭では、綿打ち女が、とんとん音を立てながら、古くなった綿入れの綿を、弓で叩いている。外では、門衛のムクンドラルが、盲目の格闘家を相手に、組んずほぐれつ、いろんな技を見せている。平手でぴしゃぴしゃ両足を打ち、立て続けに20回あまり、腕立て伏せをやって見せる。乞食の一隊は、その側にしゃがんで、いつものお布施に預かろうと、待ち構えている。
お昼時が近づき、陽射しがきつくなって、やがて正門では、鉦が鳴りわたる。でも駕籠の中の一日は、鉦が告げる時間の外にあるのだ。そこの正午は昔日の正午、王宮の獅子門では、王室の集いの終わりを告げる、ケトル・ドラムの撥音(ばちおと)が、高らかに鳴り響く –– 王様が、白檀の水の沐浴に、お出ましになる時間だ。休日の真昼時、ぼくのお守り役の連中は、食事を終えて眠りこけている。ぼくはひとり、駕籠の中にすわっている。心の中で、動かなかった駕籠が動き出し、風の人夫たちは、ぼくの思いのままに、人間に姿を変える。ぼくの気が向くほうへと、駕籠の進む道が拓かれる。その道を通って、駕籠は、はるか遠くの国々に向かう –– その国々には、ぼくが本で読んで覚えた、いろんな名前がつけてあるのだ。道は、深い森の中へと分け入ることもある。虎の目がギラギラ光り、ぼくの身体は恐くてぶるぶる震える。付き添いの猟師、ビッショナトの手にした銃が、バンと音を立てる。はい、それまで。すべてがしんと静まり返る。その後、駕籠は、いつの間にかすっかり姿を変えて、孔雀船になっている。海を漂って進む、陸地は見えない。舵の音がちゃぷちゃぷ、ちゃぷちゃぷ。波がうねって、のたりのたり、どんどん大きく、脹れあがってくる。船乗りたちが叫ぶ、気をつけろ、嵐が来たぞ! 舳先には、船頭のアブドゥル、先が針みたいに細いあごひげ、口ひげはきれいに剃られ、頭は禿げている。彼はぼくの知り合いだった。兄さんのために、よく、パドマー川から、イリシュ魚 (3) と亀の卵を届けに来たのだ。
アブドゥルはぼくに、こんな話をしてくれた:
チョイトロ月 (4) の終わりのある日、小舟で魚を捕りに行ったら、突然、夏嵐が襲いかかった。凄まじい風で、舟は今にも沈みそう。このアブドゥル様、縄を歯にくわえると、川に跳び込んで中洲に泳ぎ着き、曳き綱をたぐって、小舟を陸に引き上げたんだ。
物語があんまりあっけなく終わったのが、ぼくの気に食わなかった。舟は沈まず、何とか命拾いした — これじゃあ、話にもならない。「それから?」「それから?」と、何度も聞き返した。
アブドゥルは続ける:
その後がまた、大変だったんだ。目の前には、人喰い虎が一匹。そいつの髭ときたら、こーんなに長いんだ。嵐の時、向こう岸の、常設市場がある舟着場の、ボダイジュモドキ (5) のところに打ち上げられた。ところが突風が吹いて、その木が倒れて、パドマー河に落ちたんだよ。虎のやつ、急流に押し流された。アップアップしながら、どうにか、中洲にたどり着いたんだ。虎を目にするなり、おれは、縄を結わえて、丸い環を作った。虎のやつ、こーんなにでっかく目を見開いたまま、おれの前に突っ立ちやがった。泳いだせいで、やつは腹ぺこだったんだ。おれを見ると、やつの真っ赤な舌から、涎がたらたら垂れ始めた。自分の縄張りの内でも外でも、やつはいろんな人間を見知っていたはずだが、このアブドゥル様だけは、知らなかったとみえる。おれは叫んだよ、「さあ来い、このガキ!」 やつが、前肢を二本、上げた瞬間、おれは、やつの首に縄をかけてやった。逃げようとして、ジタバタすればするほど、首に縄が締まっちまって、やつの舌は、外にだらりと、垂れ下がった。
ここまで聞くと、ぼくはもう、矢も盾もたまらなくなり、「アブドゥル、虎は死んじまったの?」
アブドゥルは答える:
どうしてどうして、やつが死ぬなんてことが、金輪際、あるもんか。川に洪水が来たってのに、何とかして、バハドゥルゴンジュまで、戻らなくちゃならないだろ? それで舟に縄を縛りつけて、この虎のガキに引っ張らせたんだよ。少なくとも、60キロの距離はあったな。ガオー、ガオーと鳴くので、おなかを舵でつついてやった。10時間から15時間かかる道のりを、1時間半で行かせたんだ。その後、どうなったかなんて、聞くんじゃないぞ、ぼうず。答えてなんか、やらないからな。
ぼくは言う、「よし、わかった。虎の話はこれでおしまい。で、鰐は?」
アブドゥルは言う:
水の上に、やつの鼻が覗いているのを、何度も見たよ。川岸の斜面に、長い身体で寝そべって、陽に当たっている時なんか、何だか、すごくいやらしい笑いを、浮かべていたな。鉄砲があれば、挑みかかることもできたんだが。鉄砲許可証の期限が、切れていたんだよ。だがな、面白いことが起きた。ある日、カンチ・ベデニ (6) が、陸にすわって、鉈で、竹片を削っていたんだ。ベデニの仔山羊は、その横に繋いであった。鰐のやつ、いつの間にか川から上がって来て、山羊の足を咥えて、川の中に引きずり込もうとした。ベデニは、やつの背中に、まっしぐらに跳びかかった。鉈でもって、あの悪魔みたいな爬虫類ののどに、何度も一撃を喰らわせたんだ。鰐のやつ、仔山羊を放して、水の中に沈みやがった。
ぼくは急いで聞く、「それから?」
アブドゥルは言う、「それから、どうなったかって、何せ、水の底に沈んじまったからな。引き上げるのに時間がかかる。今度会うまでに、スパイを送って、調べておくよ。」
でも、その後、彼は姿を見せなかった。たぶん調査に出かけたのだろう。
ここまでが、駕籠の中での、ぼくの旅の話だ。駕籠の外では、ぼくはよく、学校の先生になった。手すりがぼくの生徒だったけれど、ぼくを恐がって、彼らはいつも黙っていた。でも中には、すごくひねくれたやつもいた。まるっきり、勉強する気がない。大きくなったら、苦力にでもなるしかないぞ、と脅かしてやる。罰でぶたれて、身体中が痣だらけになっても、悪戯(いたずら)を止めようとしない — でも、止められたら困るんだ。ぼくの遊びが終わってしまうから。
もう一つ、遊びがあった。ぼくの木製の獅子 (7) が、その相手だった。祭祀(プージャー)の時、生贄の首を切るという話を聞いて、獅子の首を切ったら、大騒動を引き起こせるだろう、と思ったのだ。木の棒で、やつの背中を何度も叩いた。呪文も作る必要があった。それがないと祭祀にならないから:
獅子おじさん 切るぞ
アンディ・ボシュを ぶつぞ
ドンツク ドンツク ドンカタカタ
クルミが割れて コトコト コタシュ
ポトポト ポタシュ
この呪文の文句のほとんどは借り物で、「クルミ」だけがぼくの創造だった。クルミは大好物だったのだ。「コタシュ」という音からわかるのは、生贄の首を切るための刃が、木でできていたこと。また「ポタシュ」という音は、その刃が弱っちかったことを表している。
訳注
(注1)ムガル王朝時代の、インド各地の地方長官。
(注2)タゴール家は、祖父ダロカナト・タクル(1794-1846)の代に、イギリス人商人と結んで、さまざまな事業で巨万の富を築き、繁栄を極めた。
(注3)ニシン科の魚、英名 hilsa。バングラデシュの国魚で、ベンガル人に最も好まれる魚のひとつ。脂の乗ったパドマー河のイリシュ魚は、特に美味。
(注4)チョイトロ月(3月半ば〜4月半ば)は、晩春〜初夏。ベンガルでは、この月からボイシャク月(4月半ば〜5月半ば)にかけて、「カール=ボイシャキ(ボイシャク月の破壊者)」と呼ばれる、雷を伴う激しい夏嵐が、しばしば訪れる。
(注5)ベンガル語で「パクル」、インドボダイジュの近縁種。高さ20〜30メートルにもなる常緑広葉樹。
(注6)「ベデニ」は「ベデ」の女性形。「ベデ」は、イスラーム教信者でありながらヒンドゥー教の習俗を守る、ベンガル社会最下層のジプシー集団。口すぎは、門付けや縁日などで蛇・猿・山羊・豹などの動物を使って芸を見せる、呪文・お守り・薬草などを使って民間治療を行なう、籐細工や竹細工の手芸品を売る、等々。その習俗については、タラションコル・ボンドパッダエの短編「ベデの女(ベデニ)」を参照:
https://bengaliterature.blog.fc2.com/blog-entry-6.html
(注7)詩画集『俚謡の絵』に、「木製の獅子」と題する詩がある。この詩に付随するノンドラル・ボシュの絵をここに転載した。(なお、この絵の版権は、ビッショ=バロティ(タゴール国際)大学に属しています。この絵の掲載を許可してくれた同大学に感謝いたします。)
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部(英語英米文学科)卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年、インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん社)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん社)など。現在、めこん社のホームページに、近現代短編小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//
更新日:2021.08.06