タゴール『子供時代』②

序文

ゴンシャイ・ジー(1)から、子供たちのために何か書いてくれと頼まれた。まだ子供だったロビンドロナトの話を書くことにした。あの、過去の亡霊たちが跋扈(ばっこ)している世界に、入り込もうと努めた。その世界は、今日のこの世界とは、内も外も寸法が違っている。その頃の灯火は、明かりで照らすよりも、煙で燻らせることのほうが多かった。知の領域では、科学的な見方は広がっておらず、可能なことと不可能なことの境界をしるす標識は、両者の間にまたがっていた。その頃の様子を描写しようとして紡いだ言葉は、おのずから簡素なもの、子供たちの頭の働きに可能な限り近しいものとなった。年齢が進むにつれて、子供らしい想像の網が、霧が晴れるように次第に心の中から消えていく。その時期を描写する時にも、言葉はそのままに残したが、その頃のものの感じ方は、当然、幼年期のそれをはみ出している。

この回想記には、子供時代の敷居を跨ぐことはさせなかった — だが最後に、その追憶は青年期と向き合うに至る。そこに一度、しかと立ち止まって振り返れば、少年の自然な心が、どうやって、環境の多様な、思いがけない、かつ欠くことのできない協力を得て、次第に成熟していったかが理解できるだろう。こうした描写のすべてを「子供時代」と名付けることの特に重要な意義は、子供の成長が、その生命力の成長に他ならないことを、示している点にある。人生の最初期においては、何にもまして、生命力が赴くところにこそ、従うべきなのだ。自らの生命にしっくり合った栄養分となるべき材料を、子供は四囲からことも無げに選び取り、自分のものとしながら成長する。決められた教育課程によって子供を人間に仕立て上げようとする企みを、彼はほんのわずかな程度しか受けつけない。

この本で扱われる内容のいくらかの部分は、『人生の追憶』(2)の中にも得られるだろうが、その味わいはまた、別のものだ。大洋と細流(せせらぎ)の違い。前者は語り、後者は囀(さえず)り。前者は籠の中に並べられた果実、後者は果実のついた木そのもの — その果実は、それを取り囲む枝々とともに、その姿を現している。しばらく以前、一冊の詩集の中に、その姿のいくらかが垣間見られはしたが、それは韻文の映画(3)とも言うべきものだった。『俚謡(チョラ)の絵(チョビ)』(4)という題名の本だ。そこには、子供のおしゃべりも、大人のおしゃべりも、混じっていた。その中に表現された喜びの多くは、子供っぽい気まぐれによるものだった。本書では、その喜びが、子供言葉の散文によって表現されている。

 

訳注

(注1)ニッタノンド・ビノド・ゴッシャミ(1907-72)。シャンティニケトンでサンスクリット語・ベンガル語を教える。皆からゴンシャイ・ジーの名で親しまれた。ゴッシャミ(ゴンシャイはその口語形)は信愛派(ヴァイシュナヴァ)の導師に与えられる尊称。
(注2)1912年刊。タゴール50~51歳の時書かれた、前半生の区切りとしての意味合いを持つ作品。この後、ヨーロッパ・アメリカ紀行、ノーベル賞受賞、日本紀行等が続き、世界人としてのタゴールの展開が始まる。日本語訳は、英語からの重訳、『わが回想』(山室静訳)が、第三文明社の『タゴール著作集第10巻』に収められている。
(注3)原文では「フィルム」という言葉が使われている。カルカッタで無声映画が始めて上映されたのは1890年台後半、最初のベンガル語映画(トーキー)は1931年。カルカッタは、英領時代から、ボンベイ(ムンバイ)、マドラス(チェンナイ)と並んでインドの映画産業の中心地だった。
(注4)1937年刊。32篇の俚謡(チョラ)と、ノンドラル・ボシュ (1882-1966) の絵からなる。俚謡(チョラ)は、自然発生的な韻律を持つ口承の詩形式。その内容は幅広い。子供たちの遊戯、子守り、土俗的な儀礼などに伴って、また俚諺として、折りに触れて誦される。タゴールなどの文学者も、この形式をしばしば創作に用いた。なお、ここで「絵」と訳した ‘chabi’(チョビ)には、映画という意味もある。上の(注3)で使われた用語を見ると、タゴールはこの作品を、個別の詩画の寄せ集めと言うよりは、映画のカットの連続としてイメージしていたように思える。この詩画集はまだ日本語に訳されていない。

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部(英語英米文学科)卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年、インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん社)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん社)など。現在、めこん社のホームページに、近現代短編小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//

更新日:2021.06.04