サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑲(最終回)
学校生活(5)
昼休みの1時間の間に、食事と遊びの両方があった。家から弁当を持ってくる生徒もたくさんいた。ぼくらは、1包み1ルピーの、アルー・ドム(1) を食べた。カレー味のジャガイモは、沙羅の葉の筒に入っていて、一本の串がついている。これでジャガイモを串刺しにして、口に頬張る。ある日、昼食の時間に、新しい、驚くべき食べ物が持ち込まれた。紙に包まれた、バターのように見えるアイスクリーム –– その名も、ハッピー・ボーイ(Happy Boy)。ベンガル人の会社の商品で、街頭で売られるアイスクリームの、先駆けだった。しばらくすると、街中に、ハッピー・ボーイ・アイスクリームを載せた押し車が見られるようになった。ハッピー・ボーイがなくなると、マグノリア、そしてそのずっと後に、クワリティ(Kwality)とファリニ(Farinni) (2) 。
昼休みの遊びの中には、棒弾き遊び(3) を除けば、特に人気があったのは独楽回しだ。ジョグ・バブー市場(4) の側にある、ミトロ・ムカルジの店の階段に、夕方になるとカルカッタの最良の独楽作り、グピ・バブーが店を開いた。独楽がどんなによく回るか、グピ・バブーの作った独楽を見たことがない人にはわからないだろう。その独楽をぶつけて、他の独楽を壊す遊びが、昼休みに続けられた。その他、掌の上で回したり、回したまま宙に飛ばしたり、回っている独楽を、片方の掌から廻し紐の上にすべらせてもう一方の掌に渡したり –– こうしたいろんな遊びがあった。一度、投げた独楽が的から外れて、オモルの足に当たったことがあった。彼の足の甲から、すぐに血が迸(ほとばし)り出た。
遊んでいる時、このような危険な目に遭うことは、他にもあった –– スポーツ大会の日のショシャントのように。彼はぼくらの同級生で、スポーツと勉強のどちらもよくできた。スポーツ種目の中に、目隠し競争というのがあった。運動場の一方の端からもう一方の端へ、100メートルほどの距離を、目隠しした状態で走らなければならない。競争が始まった。シュシャントはまっすぐ走ることができず、途中で左の方に逸れていくのが目に映った。誰か一人、彼の名を叫んで注意を促した。シュシャントは一瞬怯んで足を止めたが、次の瞬間、遅れを取り戻そうとして、猛烈な速さで走り出し、ゴールの柱から2~30メートル左にあった学校の境界の壁に、目隠しの状態でまともにぶち当たった。その光景、そのぶつかった時の音を思い出すと、今でも身体に震えが来る。その次の年から、もちろん、目隠し競争自体が禁じられた。
学校の最初の4年間、ぼくはボクル=バガン・ロードにずっと住んでいた。9年生に在学中、ショナ叔父さんとともに、ベルトラ・ロード(5) に引っ越した。この家は、ボクル=バガン・ロードの家より、少し大きかった。ベルトラのぼくらの家の隣には、チットロンジョン・ダーシュ ((6) の娘婿の法律家、シュディル・ラエが住んでいた。彼らが持っていた薄黄色の車は、あの有名なドイツ製の車、メルセデス・ベンツ –– ぼくらそれを、初めて目にしたのだった。シュディル・ラエの息子のマヌとモントゥは、ぼくの友達になった。マヌも後に法律家になり、さらにその後政界入りして国民会議派の一員となり、西ベンガル州の首相にまでなった。その当時、彼は、シッダルトションコル・ラエ(7) の名前で知られていた。
ベルトラには、男の子たちのクラブがあった。ぼくがベルトラに移って2, 3日経つと、近所の男の子たちが現れて、ぼくをクラブに入れるために連れ出した。マヌとモントゥもクラブの会員だった。ぼくらの家から二つ向こうの家には、もう一人の法律家、ニシト・シェンが住んでいたが、その家には広い地面があって、そこでクリケットとホッケーをしたものだ。いっぽう、マヌたちの家の狭い地面は、バドミントンをするのに使われた。ニシト・シェンの息子や甥の、チュニ、フヌ、オヌも、皆、クラブに属していた。その他、チャトゥッジェ家のニル、ボル、オナト、ゴパルもクラブの会員だった。在学中に、みんな、ぼくの友達になった –– 彼らは家の外の道から、ぼくの部屋に向かって、近所に響きわたる声で叫ぶ –– 「マニク、いるかい?」 やがて彼らには、もう一人新しい仲間が加わった。
その子は ‘South Suburban School’ (南郊外校)(8) に通っていた –– ぼくより4歳ほど年上だったけれど、学年はぼくと同じだった。何度かたて続けに、落第した結果だったのだろう。名前はオルン、呼び名はパヌ。モエモンシンホ県(東ベンガル)出身の、オキルボンドゥ・グホの家の子だった。ニシト・シェンの家の向かいの家だ。ぼくらのクラブの会員になったけれど、頭が良くなかったので、誰にも相手にされなかった。そのパヌが、ある日突然、ドムドム(9) の飛行クラブに入り、飛行機の操縦を身につけたのだ。その後、飛行クラブの年に一度の催しに、彼はぼくらを、ドムドムへ招待した。彼は二人乗りの飛行機を操り、空に舞い上がったかと思うと次々に爆音を立ててダイブを繰り返し、ぼくらに向かって下りてくるかと思えばまた空に舞い上がる –– こうして、ぼくらをあっと言わせたのだ。この時以来、もちろんぼくらは、パヌに一目置くようになった。
ぼくらの時代には、政府の法律で、15歳以上でないと大学入学資格試験の受験資格がないことが決められていた。試験は1936年の3月にある。その時には、ぼくの年齢は14歳10ヶ月。つまり、1年間、待たなければならない。困ってしまった。法律家の手を借りて年齢を水増しすることはできるけれど、母さんはそんなことを決して許そうとしない。ところが、驚くべきことに、試験のわずか数ヶ月前になって、政府はこの15歳の年齢制限を撤廃した。おかげでぼくは、1年待たなくてもよくなった。
学校を卒業して10年あまり後、何かの催しで –– たぶん昔の級友たちの集いに参加するために –– 公立バリガンジ高等学校に行かなければならなくなった。大ホールに入った途端、こう思った –– あれ、一体どこなんだ、ここは! このホールが、あのホールだって? –– あんなにでっかいと思っていたのに? 入る時、扉に頭がつっかえてしまう! 扉だけではない、すべてが、とんでもなく小さく感じられた –– ベランダも、教室も、教室のベンチも。
もちろん、そうなるのは当然だった。学校を卒業した時、ぼくの身長は160センチ足らずだったのに、10年後に学校を訪問した時には、195センチに届こうとしていた。学校はそのままで、大きくなったのはぼくの方だ。
この後、二度と学校に戻ることはなかった。子供の頃の記憶に満ちた場所に、改めて行ったところで、昔の楽しさを取り戻すことはできない。追憶の山の中を手探りして、それらを取り戻すことの中に、本当の楽しみがあるのだ。
訳注
(注1)汁無しの、ジャガイモ・カレー。
(注2)いずれも、アイスクリームやパン・菓子類の製造・販売で、有名な店。『ぼくが小さかった頃』② 参照。
(注3)長い木の棒で木の小さな切れ端を弾き、遠くに飛ばして、遊ぶ。『ぼくが小さかった頃』⑮ 参照。
(注4)「ジョドゥ・バブーの市場」の名でも知られる。南カルカッタのボバニプル(Bhabanipur/ Bhowanipur)地区北部にある市場。
(注5)ベルトラ・ロード(Beltala Road)は、ボバニプル地区の、ボクル=バガンのすぐ南を、東西に向かって走る通り。
(注6)Chittaranjan Das (1870-1925) 著名な弁護士・詩人・愛国運動家。マハートマー・ガーンディーが主導した第一次不服従運動(1919~22)で、中心的な役割を果たす。「国の友(デシュ=ボンドゥ)」の呼び名で知られる。『ぼくが小さかった頃』⑧ 参照。
(注7)Siddhartha Shankar Ray (1820-1910) 著名な法律家・政治家。国民会議派に属し、西ベンガル州の首相、のちにアメリカ合衆国のインド大使などを務める。
(注8)ボバニプル地区の最南端にある、州立の学校。1874年設立。
(注9)ドムドム(Dum Dum)は、カルカッタ北部、現カルカッタ空港のある地域。『ぼくが小さかった頃』② 参照。
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
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更新日:2024.07.03