サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑮


 
学校生活(1)
 
少年時代はいつ終わるのだろうか? 他の人のことは知らない。ぼくが覚えているのは、大学入学資格試験の最後の試験を終えて家に帰った時のこと –– テーブルの上から「力学」の教科書を手に取って、それを床に放り投げた瞬間、自分がもう子供ではなく、カレッジ生活が待っており、今から自分は大人なのだ、と感じた。
 
だからぼくは、学校生活の話を以て、ぼくの少年時代の話を終えることにしよう。
 
ぼくが学校に入学したのは、8歳半の時だ。母方の叔父さんの家に、もう一人の叔父さんがやって来て逗留した。その名前はレブ。この叔父さんのことは前に書いた(1) 。ある日の朝、レブ叔父さんと一緒に、バリガンジ公立高等学校(2) を訪問した。ぼくが入ることになったクラス –– 第5学年(後に第6学年と呼ばれるようになった)(3) –– そのクラスの先生が、ぼくにいくつか質問を書き、その上、4つかそこら、計算問題を出題した。ぼくは別室にすわって答を書き、また先生のところに持って行った。先生はその時、英語の授業を教えていた。ぼくの答をざっと見渡して、首を軽く振った。つまり、答に間違いはない、という意味だ。と同時に、ぼくの入学が許可された、という意味でもある。
 
木製の教壇の上に立って、先生の手から解答用紙を返してもらっていると、クラスの生徒の一人(ラナという名前だと後で知った)が、声を張り上げてぼくに訊いた、「おい、おまえ、何ていう名前だ?」 ぼくは自分の名前を告げた。 –– 「で、呼び名は?」 悪ガキのラナ・ダーシュは、すまし顔でこう訊いた。学校では、簡単に自分の呼び名を教えるものではない、とは、知る由もない。素直に呼び名を告げてしまった(4)
 
それ以来、同級生はもちろん、学校中の男の子たちが、ぼくを正式の名前で呼ぶことはなかった。そうしたのは、先生たちだけだった。
 
バリガンジ公立高等学校は、ランズダウン・ロードを過ぎて、ベルトラ・ロードの警察署の東側に接している(5) 。学校の東側の道の上に、デイヴィド・ヘア・トレーニングカレッジ(6) がある。そこから、一年に一度ずつ、BT(教育学士)を目指す学生たちが来て、ぼくらのクラスを教えた。
 
学校は高い塀に囲まれていて、その南側に運動場があった。空から見れば、学校の建物は、大文字のTのように見えたことだろう。その縦に伸びた部分は学校の大ホールで、横に伸びた部分が教室の列だ。門から入ると、右手に門衛の小屋。左に少し進むと、バンヤン樹が一本、立っていて、その幹をセメントで固めた露台が囲んでいた。木の下は、広い範囲にわたって草が生えていなかった –– なぜなら、そこでは、男の子たちが昼休みにビー玉遊びをしたから。遊びと言えば、運動場では、サッカー、クリケット、ホッケーのどれもが行われた。そして、年に一度、スポーツ・デーがあった。もちろんその他にも、ビー玉、棒弾き遊び(7) 、インド相撲、独楽回し等々があった。
 
門衛小屋を過ぎ、砂利道を通って少し進み、三段の階段を上がると、東西に広がる学校のベランダがある。ベランダの右側には教室が列をなし、左側を半分ほど行くと大ホールへの扉がある。桟敷席があるこのホールでの一番大きな出来事は、毎年催される、生徒たちの表彰式。その他、サラスヴァティー祭祀(プージャー)の日(8) には、葉皿を広げての供応があり、時折、講演会が開かれた。また、一度、グリーンバーグ・アンド・セリムという名の外国人俳優二人組が、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』のいくつかの場面を演じて見せたのを覚えている。ぼくらは皆、折り畳み式の椅子にすわって、生涯初めてのシェイクスピア劇を見ていた。ぼくらのすぐ隣に立っていた英語のブロジェン先生は、目を丸く見開いて舞台の方を見つめながら、俳優たちと一緒に唇を動かしていた –– たぶん、学生の頃読んだこの劇の台詞を、どれだけ覚えているか、試していたんだろう。ある時 –– サラスヴァティー祭祀の日だったと思う –– このホールで、チャールズ・チャップリンの映画が上映された。上映会があるという通知を、その前日、門衛が来て、ぼくらのクラスのアフメド先生の手に渡した。アフメド先生はそれを読み上げる –– 「コドク・カンパニーのご好意により・・・」 コダック・カンパニーの名前を知らなかったので、先生は、上映会のスポンサーを、ベンガルの甘菓子屋(モドク)と同類だと思ったわけだ!
 

 
ベランダの端まで行って階段を降りると、目の前の天蓋の下に、飲み水用のタンクが2台、並んでいた。背中を屈め栓をひねって、両掌で水を受けて飲まなければならない。2台のタンクの向こう側、西の壁に接して木工室があり、そこはトロフダル先生の縄張りだった。金槌、鑿(のみ)、鉋(かんな)、鋸(のこぎり)、糸鋸盤、何一つ無いものはなく、クラスの中からは、絶えずいろんな機械音が聞こえて来た。
 
2階への階段を上がると、その正面、ベランダの手摺りの上に、学校の鉦が吊るされているのが目に入る。門衛以外、誰ひとりこの鉦を鳴らせる者はいなかった。紐を握ったまま棒を叩くと、鉦はそっぽを向いてしまう –– 一回鳴った後、もう鉦から音は出ない。門衛がそれをどうやって打ち鳴らすのかは、ぼくらみんなにとって、謎だった。
 
階段を上がって左に回り、事務室を過ぎると、校長室がある。事務室には、棚いっぱいに本が並んでいる。これが学校の図書室だ。本の中では、シンドバッド、ハテムタイ(9) 、ダゴベルト(10) の3冊が大人気で、生徒の手から手へ渡ったせいで、ボロボロになっていた。この3冊は、同じシリーズの本だ。シンドバッドは誰でも知っているし、ハテムタイの名前もいまだに時たま耳にするが、ダゴベルトの名前は、学校時代の後、聞いたようには思えない。
 
学校の簿記の仕事も、この事務室で行われた。丸い棒のような定規を転がしながら、帳面に赤や青のインクで平行線が引かれるのを見て、とても奇妙に思ったのを今でも覚えている。
 
階段を上がって右に行くと、まず先生たちの共同利用室があって、その後に列をなして教室が並ぶ。1階と2階を合わせて全部で8学年 –– 3年生から10年生まで。教室にはどれも、二人並んですわるデスクが16台。どのクラスも、30~32人以上の生徒はいなかった。学校は10時に始まる。1時になると1時間の昼休み。その後また、4時まで授業。夏休みの後は、1ヶ月あまり、朝だけのクラスがある。7時に授業が始まる。その頃は、夏至の陽射しが窓を通って教室に差し込み、教室の姿はすっかり別物になる。先生たちに対する恐怖も、朝の内は、どういう訳か、少し和らぐように思われた。太陽が頭上に昇るにつれて、人間の気分も、どうやら、より怒りっぽくなるらしい。朝のクラスは、だからずっと心地よく感じられた。
 
もっとも、このことから、先生たちのほとんどが怒りっぽかった、という印象を与えるとしたら、それは公平とは言えない。むしろ、何人かの選ばれた悪ガキたちに対し、何人かの先生の怒りが時折爆発した、という方が正しい。拳骨、平手打ち、耳つねり、揉み上げをつかんで上への引っ張り、ベンチでの立ちん坊、両耳をつかんだままの片足立ち –– あらゆる種類の懲罰を見た。でも、ぼく自身は、一度もこうした罰を受けた記憶がない。初めから、ぼくは良い子、穏やかでおとなしい子(「尻尾のついたお猿さん」と形容する者もあった)と見なされていた。
 
訳注
(注1)『ぼくが小さかった頃』⑦ 参照。
(注2)Ballygunge Government High School 1927年創立。David Hare Training College の実験校として設立された。カルカッタ大学の提携校で、多くの優秀な人材を輩出した。
(注3)当時は、初等から高等までの学年を、1年生から10年生まで下から順に数え、10年生が最高学年だったが、後に、逆に10年生から下に数え、1年生を最高学年とするようになった。
(注4)正式名はショットジト(Satyajit 「真理によって征服する者」の意)。呼び名ないし愛称はマニク(Manik 「宝石、とりわけ紅玉(ルビー)」の意)。
(注5)Landsdown Road (現在はSarat Bose Roadと呼ばれる) は、南カルカッタ・ボバニプル地区の中心部を南北に走る大通り。Beltala Road はこの通りを西に向けて分岐する。
(注6)David Hare Training College 1908年に北カルカッタに創立された教師養成機関。設立後まもなく南カルカッタのバリガンジに移転した。カレッジの名前は、スコットランド出身の時計製造者David Hare (1775-1842) を記念している。彼はカルカッタに英語近代教育を普及させることを目指し、Hindu School, Hare School, Presidency Collegeの設立に貢献した。
(注7)長い木の棒で木の小さな切れ端を弾き、遠くに飛ばして、遊ぶ。
(注8)学芸の女神サラスヴァティー神の祭祀は、西暦で1月終わりか2月の初め(ベンガル暦マーグ月、白分の月齢5日目)に行われる。
(注9)6世紀のアラビアの王。寛大なことで知られた。シンドバッドと同様、『千一夜物語』に登場する。
(注10)7世紀のフランク王国の王、ダゴベルト1世。『ダゴベルトの偉業』と題する9世紀頃のラテン語の文献があり、この王が行った数々の奇跡を描いている。
 
 
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
 
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//

更新日:2024.04.15