サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑨

ボバニプル(4)

ボクル=バガンの家に住んでいる時に、初めて、ポッド=プクルにあるボバニプル水泳クラブ (1) に、水泳を習いに行った。その頃、プロフッロ・ゴーシュ(2) が、身体に油を塗って76時間泳ぎ続け、世界記録を更新したばかりだった。そしてほとんど同じ頃、世界チャンピオンのアメリカ人水泳選手、ジョニー・ワイズミュラー(3) が、ターザン役で演技して、ぼくらをびっくりさせたのだ。水泳クラブの部屋に行き、額縁に入ったワイズミュラーのサイン入り写真が壁に飾ってあるのを見て、ますますクラブ贔屓になった。日曜の朝、何年にもわたって通い続けた。竹を掴みながら足をバタバタさせるのから始まり、しまいには、池のこちら岸からあちら岸へ、難なく泳ぎわたれるようになった。

健康増進のために、子供の時体操をする習慣が、今日どれくらい行われているか知らないが、ぼくらの時代には普通だった。朝、逆立ちや腕立て伏せをする人が多かった。身体の健康に普通よりも気を遣っている人たちは、ダンベルやエキスパンダーも欠かさなかった。ぼくは、自分では体操にあまり乗り気ではなかったけれど、プロモドロンジョンお祖父ちゃん(祖父ウペンドロキショルの末弟)の手に落ちては、逃れるすべはなかった。お祖父ちゃんは、自分から望んで、人跡未踏の山や密林で測量の仕事をした。向こう見ずの冒険家の人生を送ったのだ。男が女々しくするのを、お祖父ちゃんは、まったく我慢することができなかった。タゴールが肩まで髪を波打たせているのにさえ、文句を言っていた。お祖父ちゃんにはたくさんの男の子がいて、みんなぼくより歳上だったけれど、誰もが例外なく体操をしていた。それにぼくが加わったので、ますます仰々しいことになった。

体操の話のついでに、ぼくが柔術を習った経緯についても、ここで書いておこう。もっともこれは、1934年、ぼくがボクル=バガンを離れて、ベルトラ・ロード(4) に移った後に起きたことなのだけれど。

柔術というものを最初に見たのは、シャンティニケトンだった。その時、ぼくの年齢は10歳かそこら。シャンティニケトンのポウシュ月祭(5) に行ったのだ。新しいサイン帳を買った。その最初のページに、タゴールに詩を一つ書いてもらおうと、意気込んでいた。

ある朝、母さんと一緒にウットラヨン(6) に行った。サイン帳を渡すと、タゴールは言った、「このまま置いて行きなさい。明日の朝来て、持って行きなさい。」

言われた通り、翌日、サイン帳を取りに行った。テーブルの上は手紙、ノート、本が山積みになっていて、その後ろにタゴールがすわっていた。そして、ぼくを見るとすぐ、その山の中に、ぼくのちっちゃな紫色のサイン帳を捜し始めた。3分あまりひっくり返したあげく、ようやくサイン帳が出てきた。それをぼくに渡すと、母さんの方に向いて言った、「この詩の意味は、この子がもう少し大きくなったらわかるだろう。」

サイン帳を開いて読んでみると、今日多くの人が知っている八行詩(7) だった:––

   長かりし日々 はるかな道のり

   費(ついえ)あまたに 国々を巡り

聳(そび)え立つ 山並み 望み

        沸き返る 大海 訪(おとな)う。

 

   眼(まなこ)開きて 見ることも無し

   家の外 わずか数歩の

稲穂の先に 揺れ動く

        ひとしずくの 露を。

 

1336年ポウシュ月7日(西暦1929年12月22日)

シャンティニケトンにて

ロビンドロナト・タクル

 

 

その時初めて、柔術または柔道を、この目で見たのだ。大昔、中国のラマ僧たちが、盗賊たちに対抗するために、手に武器を持たずに闘ったり自衛したりする技術を編み出した。この柔道は、中国から日本に行き、その後日本から世界中に広まった。タゴールは、日本に行って柔道を見て、シャンティニケトンの学生たちにこれを教える段取りをつけなければならないと、決心したのだ。時を経ずして、柔道の専門家タカガキ(8) がシャンティニケトンにやって来て、柔道の授業が始まった。でも、どういうわけか、この授業は、4年以上は続かなかった。しまいには、タカガキはシャンティニケトンを後にし、カルカッタにやって来ると、バリガンジのスインホー通り(9) にある、ぼくの義理の叔父さんの一人、ドクター・オジトモホン・ボースの家の一階を借り、そこで柔道を教える手筈を整えた。

何の前置きもなく、ある日突然、下の叔父さんシュビモル・ラエ(父シュクマル・ラエの末弟)(10) がぼくらの家に現れて、こう言った、「柔道を習うのは、どうだろう?」

下の叔父さんを見たことのある人なら、誰にだってわかるだろう –– 体操とか格闘技とかいったものと叔父さんとの間に、何らかの繋がりを想像するのが、どんなに難しいか。痩せぎすで弱々しい体格、いつもぼおっとしていて、修士号を取るとすぐ学校の先生になった。こんな人が、柔術を習う必要が、どこにある? そもそも、こんなことをしようという願望が、どうして頭に浮かぶのか? でもその願望が、どうやらある日、現実のものになろうとしていた。そして、ぼくも叔父さんと一緒に市電に乗って、バリガンジのスインホー通りに向かったのだ。日本人柔道家と話をするために。

今のバリガンジと、1934年のバリガンジが、どんなに違っているか、見たことがない人にそれを想像するのは難しい。ラシュビハリ・アヴェニュー(11) を少し進み、モハニルバン修道場(12) を過ぎてからは、石造りの家はほとんど見当たらない。道の両側には、マンゴー、ムラサキフトモモ、パラミツの木々が生え、その周りを藪や茂みが覆っている。ほとんど田舎の光景だ。

ゴリアハト(13) の交差点で降りて、泥池、竹藪、ウチワヤシとココヤシでいっぱいの野原を過ぎ、ようやくスインホー通り。たぶん、電話で前もって知らせてあったのだろう、義理の叔父さん一家の家を探し当て、一階の居間にすわり、紫色の着物を着た柔道家タカガキとの間で話を決めるのに、何の支障もなかった。タカガキの年齢は、たぶん40歳くらい。丸刈りの漆黒の髪に、黒い眉と口髭が似合っていた。ぼくは、叔父さんが柔道を習いたいと言うのを聞いて、タカガキが笑い飛ばすかもしれないと思っていた。でもそうしたことは一切なかっただけでなく、叔父さんは柔道の生徒としてまったく申し分ない、とでも言わんばかりだった。話し合いが終わると、仕立て屋が来て、柔道着を作るために身体のサイズを測って行った。生成りの綿のように厚ぼったい白い布で作られたジャケット、帯、そして短いパエジャマ(緩いズボン)。ジャケットの胸のところに、JUDOという大きな字が、黒糸で縫い付けてある。

柔道着ができると、25センチほどの厚さの畳を敷いた部屋で、柔道の授業が始まった。45年後の今、柔道の二つの技だけ、いまだに覚えている –– 「背負い投げ」と「一本背負い」(14) 。初めのうちは、ただひたすら、投げ飛ばされ方と、相手を投げ飛ばすことの練習。投げ飛ばされた時、どうやって衝撃を受けないようにするかが、柔道で、まず最初に学ばなければならないことだ。タカガキは言った –– 地面に落ちる時、身体から完全に力を抜くんだ、そうすれば苦痛も少ないし、骨を折る可能性も低くなる。 投げ飛ばすとは、完全に頭の上まで持ち上げて投げ飛ばすこと。柔道の技を使えば、12, 3歳の子供でも、太っちょの人間を難なく投げ飛ばすことができる。それは、まったく驚くべきことだ。

 

 

ぼくらが授業を受ける日に、男性があと二人やって来た。一人はベンガル人で、一人は白人。ベンガル人の方は、ぼくらと同様、初心者だったけれど、白人サヘブの方は、ウィリアム要塞に駐屯している軍人、キャプテン・ヒューズ(Captain Hughes)。この人はボクサーで、カルカッタのライト=ヘビー級チャンピオンだった。なかなかの美男子で、角張った顔、短く刈った波打つような金髪。柔道で彼が学ぶことは、何もなかった。すでに、柔道のエキスパートだったのだ。カルカッタには、彼の相手になれる人がいなかったので、タカガキを相手にしばらく闘って、自分の技を少々磨くために、ここにやって来たのだ。二人の闘いは見ものだった。ぼくらは、まるで呪文にかかったみたいに目を見張っていた。技また技、投げ飛ばすかと思えば投げ飛ばされ、しまいに、二人のうちのどちらかが押さえ込まれると、右手で畳の上を2回続けて叩いて相手に知らせ、相手は自分の技を緩めて、負けた方を許すのだった。

授業の後、タカガキはぼくらに、オバルチン(15) を振舞った。その後ぼくらは、夕闇の中、茂みに覆われた野原を通り、ボバニプル行きの市電に乗って、それぞれの家に帰り着いたのだ。

訳注

(注1)1917年創立。ポッド=プクル(「蓮=池」の意)は、南カルカッタのボバニプル地区、ボクル=バガンの北に位置する。

(注2)Prafulla Ghosh (1900-1980)、著名な水泳選手兼サーカスの曲芸師。1932年、ラングーン(現ミャンマーのヤンゴン)のRoyal Lakeで、79時間24分、泳ぎ続けた。

(注3)Johnny Weissmuler (1904-1984)、オーストリア=ハンガリー帝国生まれの、アメリカ人水泳選手。後に映画俳優に転向、ターザン・シリーズで、ターザン役を演じた。

(注4)Beltala Roadは、ボクル=バガンのすぐ南を、東西に向かって走る通り。

(注5)タゴールが創設したビッショ=バロティ大学で、ポウシュ月7日(12月21~22日頃)から3日間催される、学園祭。露店が立ち並び、近郊からは歌い手・芸人・修行者などが集まる。タゴールの父デベンドロナトが、1843年のポウシュ月7日にブラーフマ教に入信したのを記念して、1891年のこの日に、シャンティニケトンにブラーフマ寺院を建設。1894年のこの日から、毎年、寺院の横の野原で、祭りが開かれるようになった。ビッショ=バロティ大学の前身、ブラフマ修養学舎が創設されたのも、1901年のポウシュ月7日。

(注6)Uttarayan(「夏至」の意)は、もともとは、1919年に、タゴールがブラーフマ寺院の北側に建てた、土造りの家の名前。後にこれは石造りの家に建て直され、コナルク(Konark, 「太陽の隅」の意)と命名された。サタジット・レイが訪問したのは、おそらくこの建物。その後、この家の周辺に、タゴールやその家族等のために、家が次々に建てられた。現在、この場所全体がウットラヨンと呼ばれている。

(注7)この詩は、後年、未発表の詩を集めた詩集『火花』に収められた。同詩集164番の詩。

(注8)高垣信造(1898~1977)は、1929年から2年間の契約でシャンティニケトンに滞在。女学生を含む学生たちに柔道を教えたほか、インド各地に柔道を広めた。その後、ネパール、アフガニスタンにわたり、戦後も講道館国際部長として、アジア各地や南米で柔道を指導した(我妻和男『タゴール [詩・思想・生涯]』による)。

タゴールは、実は、高垣信造の前に、佐野甚之助(1882~1938)を日本から招聘している。佐野甚之助はシャンティニケトンに1905年から1908年まで滞在、日本語と柔道を教えた。帰国後も、タゴールの来日時に交流があり、1924年には、長編小説『ゴーラ』の、詳しい解説付きの優れた翻訳本を出版した。

(注9)バリガンジ(Ballygunge)地区は、ボバニプル地区(南カルカッタ)の東隣に位置する。スインホー通り(Swinhoe Street)は、その南東隅にある。

(注10)『ぼくが小さかった頃』③参照。

(注11)Rashbehari Avenueは、バリガンジ地区の南側を東西に走る大通り。

(注12)聖者ニットゴパル・ボシュ(Nityagopal Basu, 1855-1911)が創設した修道場。

(注13)南カルカッタの南東側に位置する、大市場。

(注14)原文では「ニッポン・シオ」とある。「一本背負い」の誤りか。

(注15)Ovaltine、粉末の麦芽飲料

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//

更新日:2023.09.29